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「猫」、「琵琶湖」、「ありがとうございます」

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「猫」、「琵琶湖」、「ありがとうございます」


271 名前:創る名無しに見る名無し[] 投稿日:2008/11/12(水) 22:31:59 ID:aDdBHlDb [1/2]
書いてみました

「猫・琵琶湖・ありがとうございます」


嘉永3年というから、1850年ごろのことである。
現在の福岡県にあたる黒田藩は大江町のあたりを、何やら思いつめた面持ちで歩く侍が一人。
名を石久部園斎という、身の丈六尺あまりの偉丈夫である。
この男、近ごろ藩主黒田長元の命を受け御様御用、いわゆる首切り役人に任ぜられることに
なっていた。園斎は柳生の名手であり、首切り役人ということで地位こそ高くはなかったが、
一人首を切るごとに半両の手当てが出るという。元は貧乏侍の出自である園斎にとっては文句
のつけようもない待遇である。
しかし、園斎は腕こそ確かであったものの、齢五十に至るまで未だ人を切ったことがなく、い
ざお役目という段になって仕損じては如何にしたものか、と、このところそのことばかりを考
えていた。

その右手には風呂敷包みを提げており、先刻から、それがもぞもぞと動いている。
園斎は家に戻ると、家人の誰も入らぬように言いつけて、畳を敷いて道場のようにしている
土蔵へと閉じこもってしまった。そこには擦り切れた藁の座布団が一つ。園斎はそこに腰掛
けると、風呂敷包みを静かに置いて結びをほどく。
三毛猫である。近くの地蔵堂の中で眠っていたものを連れてきたのだが、風呂敷の中が存外
に居心地が良かったものか、丸まったまま眠っている。園斎はそれを静かに見下ろし、すう
っと右腕を脇差に添えた。

園斎はこの猫を斬るつもりであった。彼とてもそのような所業を躊躇わぬでもなかったが、
それ以上に、役目を前にして手が損なうことが恐ろしく、また、失敗を恐れる自分自身の
弱さが腹立たしかった。

静かに眼を瞑り、猫の息遣いを嗅ぐ。どのように刀を抜き、どのように打ち据えるかを考
えた。猫が急に動いたならばどうするか、刀が畳に食い込まぬためにはどう打てばよいか。
そのような事柄が浮かんでは消え、やがて喝と目を見開いて刀を抜かんとしたならば。

272 名前:創る名無しに見る名無し[] 投稿日:2008/11/12(水) 22:33:27 ID:aDdBHlDb [2/2]
どうしたことか、周囲は白く霞んでいた。

さしわたし十間もない土蔵は壁も見えず、畳の目も分からず、あたりには綿のように濃い霧
が漂っている。さしも偉丈夫も恐れおののき、ゆらゆらとたゆたう霧の海を見渡すしかな
かった。
よくよく見れば、霧の下は水のようだった。朝もやにけぶる琵琶湖のごとき場所である。
冷やりとした空気が満ちており、わずかに耳に届く水の音。藁の座布団の一枚下は底なし
の淵となっていた。
ふと視線を前に戻せば、風呂敷の上に寝そべった猫が、頭だけをもたげて園斎を見ている。
その目は赤々と妖しく光り、わずかに見上げるその顔は、怒りとも悲哀ともつかぬ曖昧な
面持ちで、だが少なくとも目の前の侍を恐れてはいなかった。その顔からは何も読み取る
ことができず、それゆえにあらゆるものが詰まっていた。

どれほどそうしていただろうか。やがて園斎は完全に色を失い、刀から手を離した。
瞬間霧は引いてゆき、土蔵の壁がどこかからやってきたかのように視界に現れ、瞬く
間にそこは畳敷きの間に戻っていた。
園斎は唇を震わせながら立ち上がり、ゆっくりと歩いて土蔵の扉を開け、自分は横に
それて、どうぞ先へ行ってくれ、というような手振りをした。
すると三毛猫は二本の足で立ち上がり、ひょこひょこと、どこか滑稽さすら感じさせ
る動きで土蔵を出て行く。
そのきわに園斎を見上げ。
ありがとうございます、と明瞭に言った。

園斎はふすまのように蒼白になり、肝を潰してその場にへたり込んだという。
後にこれは久留米の化け猫が流れてきたものではないかと語られ、今でも園斎の屋敷
跡には、化け猫を鎮める小さな祠が立っているという。


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