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ゴミ箱の中の子供達 第3話

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ゴミ箱の中の子供達 第3話


 一仕事あるゲオルグは玄関でアレックスと別れた。両手に下げていたケーキはアレックスの指揮の
下、児童達の兵団により食堂へと輸送されていった。走るな、転ぶだろう、と素っ頓狂な声を上げていた
アレックスが、今度はどのように食堂で幼い弟妹に振り回されているのだろうか。小さい手には大きすぎる
包丁を持ち上げた弟妹に顔を青くして注意している姿がありありと思い浮かび、ゲオルグは姉と笑い合った。
 姉と他愛もない近状報告をしながらゲオルグは応接室に案内された。院長室を兼ねたその部屋は孤児院
といえどもそれなりの調度品が揃えられている。レースで彩られたテーブルを挟んで、2人掛けのソファと2脚
の1人掛けアームチェアが並んでいる。その奥は、窓から差し込む日差しを背に木工製のビジネスデスクが
院長のために設置してある。壁際には書棚や金庫の他に、観葉植物がひっそりと佇んでいた。
 一番近いアームチェアに腰を下ろしながら、ゲオルグはこの部屋の主がいないことを訝しんだ。机の
向こうには革張りの椅子の背もたれが覗いている。自分達の母同然の存在であったエリナ・ペトロワ
院長の姿はそこにはない。椅子に座った弟をそのままに院長の机へと向かう
イレアナに、ゲオルグはその所在を尋ねた。

 「今お医者さんのところに行ってるわ」
 「なに?」

 思っても見なかったイレアナの言葉に、ゲオルグは驚いて腰を浮かべた。
エリナ院長は記憶をどこまで巻き戻しても白髪の老婆だった。流石にもう歳だ。来るべきものが来たとでも
言うのだろうか。
 半ば立ちありかけたゲオルグをデスクの引き出しに手を掛けたイレアナは笑顔で押しとどめる。

「そこまで心配することじゃないわ。歯医者さんよ。入れ歯の調子が悪いから見てもらうみたいなの」

 大切は母が危篤でもなんでもないことを知り、ゲオルグは安堵のため息を深くと、再度アームチェア
に身を委ねた。デスクから書面を取り出し、パタパタ、とスリッパを鳴らす姉は相も変わらず、うふふ、
と微笑んでいる。

「だから今日は私が変わりに受け付けるわ。いつものだよね。はい、これに記入してくださいな」

 イレアナはゲオルグ正面のソファーに腰を下ろすと、もって来た書面をゲオルグに芝居かかった
様子で差し出した。勝手知ったる風に頷いたゲオルグは共に差し出されたペンを受け取ると、書面
に目を落とした。
 記入事項は団体名、責任者名、連絡先、団体又は責任者の住所、そして寄付金額。
 差し出された書面は孤児院への寄付申請書類だった。金額記入欄まで筆を進めたところで、ゲオルグ
は一旦ペンを下ろす。手をYシャツの胸ポケットに伸ばすと、チョッキの下から封筒を取り出した。中身が
詰まっているのか、外観からでも厚みが見て取れる。ゲオルグは手に持ったその封筒を裏返し、裏面に
メモした金額を確認した。
 "子供達"のメンバーは全員がその故郷である孤児院へ寄付を行っている。されど、整備、医療、通信、
兵站等、後備部隊まで整備された"子供達"は大所帯極まりない。皆がバラバラに詰め掛ければ、母
たるエリナ院長は喜べど、大混乱となることは必死だった。そこでゲオルグを含む生真面目な兄弟達が
皆に呼びかけ、取り纏めを行っていると言う訳だった。
 記入を終えると、ゲオルグは漏れや間違いが無いか申し込み用紙を見直した。団体名は出身者一同。
責任者名と連絡先は自分のものだ。住所も"子供達"が所有し、格安で入居している自分のアパートだ。
再度封筒と金額を確認するが、同一だ。見落とした箇所も無い。
 確認が終わると、ゲオルグは封筒とペンを書面に揃えて姉へ差し出した。イレアナはやうやうしくそれを
受け取ると、謝辞の言葉を述べる。

 「お疲れ様」

 続けて述べられた姉からの労いの言葉に、ゲオルグは、別に疲れるようなことは、と言葉尻を濁らせて
はにかんだ。
 一仕事終えた2人は持ち込んだケーキを賞味すべく子供たちが集まっている食堂へ向かった。
 食堂の戸を開けると2人の少女がゲオルグ達を出迎えた。

「ゲオルグお兄ちゃん、ケーキありがとう。一緒に食べよう」
「たべよー」

 謝礼の言葉と共に、同伴の願いを言う二人の名をゲオルグはすぐに思い出す。ローゼとクララの姉妹だ。
もっとも、姉妹といえども2人が血縁関係にあるわけではない。天真爛漫だがいささか間の抜けたところの
ある妹のクララを、しっかり者の姉であるローゼがフォーローに回っているうちに、自然と2人1組で行動する
ようになったのだ。
 快く頷いたゲオルグの手を引き丁寧にエスコートする姉のローゼに問題は無い。一方、その先をとてとてと
走るクララの手には切り分けられたケーキの皿。感激のあまりゲオルグに見せびらかしたかったことは容易く
理解できる。でも、それでは落としてしまう。
 ゲオルグが注意使用としたところで、彼女は足を滑らした。転んだ少女の小さな掌を離れたケーキと皿は重力
の法則に従い見事な放物線を描くと――がしゃん。リノリウムの床の上で白磁の皿は四散し、白いクリームを
表面に塗った黄色いスポンジケーキは、衝撃に耐え切れず圧壊する。トッピングに乗せられた赤い苺が健気に
主から離れず抱きついていたが、悲しいかな主が実を潰した今とあっては無駄な努力であった。
 念願だったケーキが、目の前で生ゴミへと移り行く姿に、クララはしばし呆然とした。ゲオルグとイレアナは2人
ともこの対処法を高速で演算する。計算結果と彼女の涙はほぼ同時であった。

 「うわあああん」

 大声を上げて泣き始めたクララをゲオルグは優しく抱き上げる。イレアナは指示を出すまもなく食堂の隅の掃除
用具入れに向かった。
 怪我はして無いみたいだな、とクララの頭を撫でてなだめながら彼女の無事にゲオルグは安堵した。小さな身体を
抱きかかえ、なだめる様に頭をなでてやる。
ふとクララが嗚咽の中で何か呟いていることに気がついた。

 「ごめんなさい……ケーキ、せっかく買ってきてくれたのに」

 涙と共にもらすのは謝罪の言葉。ケーキを台無しにした悔しさではなく、ゲオルグの好意を台無しにしたことに対する
贖罪の言葉だった。そんなクララの健気さにゲオルグの胸は痛んだ。彼はクララのひたすら頭を撫でながら、傷が
無かったほうが重要だ、となだめつけるしかできなかった。ケーキだったものの残骸はイレアナとローゼの手により
黙々と撤去されていった。
 清掃が終わり、一同は取りあえず席に着いた。ゲオルグとイレアナ、クララとローゼがそれぞれ対面になって長机
に座る。当然というべきか、悲しげに俯くクララの眼前にケーキは無い。
 とりあえず俺のケーキをあげるか、と考えてゲオルグは自分のケーキが切り分けられた皿に手を添える。ゲオルグ
にとってみればこのケーキはクララ達可愛い妹弟に買ったものである。落としてしまったのはクララの責であっても、
こうして悲しげな顔をされるのは不本意でしかなかった。
 皿の縁にかけた手に力を込めいざ声をかけようとしたところで、出し抜けにゲオルグの視界の端から現れた腕が
ケーキを伴ってクララの前に進み出た。

「お姉ちゃんのケーキをあげるよ」

 そういったのはゲオルグの対面に座るイレアナではなく、クララの保護者役たるローゼだった。いいの、と上目遣いで
訊ねるクララにローゼはぎこちないながらも笑顔で勧める。

「ありがとう、お姉ちゃん」

 花が咲いたように笑って感謝するクララにローゼもつられたように柔らかい笑顔を見せた。
 そんな2人のやり取りを先手を取られたゲオルグは唖然としながら見つめていた。やがていくらかの間を開けて我に
返ったゲオルグの胸中にふつふつと感動が沸き起こる。
 かつてローゼはクララを引き連れてわがままを繰り返していた。クララが遊んでいた人形を取り上げて泣かせたことも
あった。そんなローゼが、いまや姉として妹のために身を尽くしている。僅かながら寂しくもあったが、思いやりののある
優しい子に育ったことにゲオルグは胸が熱くなった。

「殊勝な子だ。そういう子にはご褒美を上げないとな」

 そう言うとゲオルグはケーキを乗せた皿をローゼの前に滑らした。驚いた表情で一度固まったローゼは、遠慮した
ように皿をつき返そうとする。しかしゲオルグは穏やかな笑顔をたたえたまま断った。

「ローゼたちのために買ったんだ。気にしなくていい」

 ゲオルグの言葉にローゼはようやく皿を受け入れた。ありがとう、とほんのりと頬を赤くしながらもローゼは感謝の
言葉を述べる。その台詞にゲオルグが満足気に頷いたところで、出し抜けに横から声がかかった。

「シュショーナ子ダ、ソーイウ子ニハゴ褒美ヲアゲナイト、ね」

 つい先ほど発したばかりの言動をトレースし、ゲオルグの眼前にケーキが、ずい、と差し出される。その主は対面に
座っているイレアナだった。うふふと笑う彼女にゲオルグは虚をつかれた思いだった。
 しまった。だが時すでに遅し。目の前には扇状に切り分けられたケーキが鎮座している。ちらりと姉の顔を見やれば
穏やかに微笑んでいる。完全な善意でケーキを譲ったのは間違いなさそうだ。だが、俺は姉の物を奪ってまでケーキを
食べたいわけではないのだ。
 頭を回転させながらゲオルグは慎重に言葉を選んだ。イレアナの言葉はゲオルグの台詞と同じものだ。下手に返せば
自己の発言の否定につながり、ローゼからケーキを奪い返すことにつながるからだ。

「いや、でもこのケーキは俺が食べたくて買ったものではないから」
「あらあら、ゲオルグが買ってきたんだからゲオルグも一緒に食べないと」

 ゲオルグの必死の反論をイレアナはあっさりとつき返す。

「いやいや、でも……」
「あらあら、うふふ」

 もはやゲオルグに論理はなかった。言葉尻を濁らせてケーキを姉へ滑らせる。そんなゲオルグをからかう様に
イレアナは笑ってケーキをつき返した。

「いやいや」
「あらあら」

 1度、2度、3度、……、幾度となくケーキを載せた皿が二人の間を行き来する。つき返されたケーキは、その度に
生クリームの上に乗せた苺を不安げに揺らした。

「あら?」

 そろそろうんざりしかけていたゲオルグに対し、未だ笑顔をたたえていたイレアナが突如ケーキを滑らした状態で
固まった。怪訝なものに変化した視線はゲオルグの脇に注がれている。そこになにやら不穏な気配を感じたゲオルグは
ちらりと隣を見やって、驚いた。
 いつの間にやらクララが包丁を手にしていたのだ。小さな手で柄を握り、ゆらゆらと刃先を揺らす姿はなんとも頼りない。
突然の出来事に、注意する余裕もなくゲオルグは目を見開いて固まる。そんな彼を意に介さぬクララは、なにやら決心した
様に包丁を高々と振り上げた。
 そのままゆっくりと降ろされた刃はケーキの上の苺の局面を滑りながら生クリームの上に落ちると――ぐしゃり。不均一な
力にスポンジは形を保てずその身を潰す。がちりと音を立てて皿に達した刃はクララの手によってぐいぐいと身を捻り、
スポンジケーキを分断する。
 いささか不恰好に分割されたケーキにクララは眉を曇らす。だがすぐに思い出したようにゲオルグとイレアナを
見上げると言った。

「はんぶんこ、だよ」

 唖然としているゲオルグ達をクララは自慢げに見つめる。ゲオルグがその眼差しと言葉を理解するには少し時間が
必要だった。
 そうだ、始めからこうすればよかったのだ。始めから2つに分ければ2人共に美味しいケーキを味わうことができる。
つまらぬ譲り合いなど必要なかったのだ。
 途端、今までの行為が馬鹿らしく思えた。つまらぬ意地を張ってケーキを押し付けあっていたことが可笑しかった。
こんな簡単な方法にたどり着かなかった自分達が滑稽でならなかった。
 緩み行く頬を隠すように掌で覆いながら姉を伺うと、イレアナは揃えた指先で唇を押さえいた。
 そのまま2人はどちらともなく笑い出したのだった。
 楽しいひと時は終わりを告げ、ローゼとクララは絵本を読むために食堂を出て行った。ケーキに舌鼓を打っていた
他の子供たちもそれぞれ思い思いに遊ぶために食堂を後にしている。
 がらんとした食堂でゲオルグはイレアナとぼんやり外を眺めていた。ガラス戸を隔てた前庭では腕白な少年たちが
アレックスと共に蹴り球に興じている。つま先で器用にボールを操り、攻撃を軽々とかわすアレックスに対し、悔しそう
に地団駄を踏む者、脇で羨望の眼差しを送る者、諦めることなくボールに飛び掛る者、様々な表情を子供達は見せる。

「ねえ、ゲオルグ」

 子供の喧騒ががらんと響く食堂にイレアナの声が木霊した。いつにもないその真剣な声色にゲオルグは顔を向ける。

「あの子達も、いつかは連れて行くの?」

 どこに、とはイレアナは言わなかった。だが、ゲオルグは分かった。"子供達"だ。無邪気な笑顔でボールに飛びつく
彼らを、血肉で汚れた日陰の世界へと誘うのか。どこまでも落ち着いたイレアナの言葉にゲオルグは諦観に近いもの
を感じた。
 姉からの追求にゲオルグは答えられず喉を詰まらす。元をただせばこの孤児院は"子供達"のために存在している
のだから。
 "子供達"の始まりは"偉大な父"が孤児を集めたことに発する。その理由はただの鉄砲玉要員を確保するためで
あった。親子の絆すら断ち切られた彼らは、生死まで自由にできる存在として"偉大な父"にとって都合がよかったのだ。
事実、初期の作戦は至近距離まで接近して拳銃を撃ったり、靴磨きを装って爆破を試みたりと自殺的なものが殆どだった。
当時は"偉大な父"も孤児の命など歯牙にもかけていなかった。
 だが孤児の方は違った。孤児にとって"偉大な父"は唯一の庇護者だった。仮初でも衣食住を提供する、彼らが焦がれて
やまなかった保護者だった。そして、廃民街という掃き溜めで捨てられていた彼らを拾い上げ必要としてくれた初めての存在
だった。
 かくして彼らは自らの血を持ってその恩威に報いた。持たざる者が故に、多くの英雄的戦果を打ち立てたのだった。幾重
にも重ねられた躯を前に"偉大な父"は彼らを信頼していく。権謀渦巻く闇の世界で"偉大な父"が信頼を寄せることができる
のは彼ら以外なかったからだ。
 こうして孤児達には"子供達"という名が与られ、マフィアの世界に堕ちた自警団OBにより訓練が施された。かけられた期待に
"子供達"は任務成功率と生還率の上昇で答える。車輪が回るように、正のフィードバックが双方を廻る。幾度となく繰り返す
果てに、"偉大な父"は閉鎖都市の影の世界で"王朝"という名の一大勢力を築きあげるに至った。一方"子供達"も"偉大な父"
の私兵として極めて高い士気と錬度そして何より閉鎖都市有数の福利厚生を得るに至った。
 ゲオルグがかつて住まい、現在も姉イレアナや多くの弟妹が暮らす聖ニコライ孤児院は、"子供達"の福利厚生の一環として
設立された。人材確保のためという真意は建前上隠されているが、暮らしていくうちにいつかは気づくものだ。ゲオルグもそうで
あったように。
 "偉大なる父"への忠義、それしか俺たちにはない。それ以外に俺たちは何もない。それに気づいたときの事を思い出しゲオルグは
奥歯をかみ締めた。
 思春期を向かえ当時のゲオルグは古今の若者と同じように、自らの存在に思いを悩ませていた。孤児院を護るように取り囲む白亜
の壁の向こうは、閉鎖都市の悪徳を濃縮したスラム廃民街が広がっている。他者を踏みにじる事を恥じもせず語り合う悪漢共ばかり
が屯している。でも、自分はそんな人間の屑にはならない。自分は才気に満ち溢れており、栄光の将来が約束されているのだ。それは
同年代の子供なら誰しもが思う根拠なき自信であった。
 だが、消灯時間に達し、ベッドの上で兄弟との他愛もない話から隔離されたゲオルグは自分の生い立ちについてはたと思い出した。
 ゲオルグの生は極めて薄い幸運の結果であった。それはある晴れた朝、閉鎖都市の清掃業者が住民のゴミ捨て場で己の職務
に励んでいたときに起きた。地区指定の収集場所でゴミ袋を圧縮車に放り込んでいた彼は、次に持ち上げた袋が微かに動いた
ことに気がついた。本能的な危機感を感じた彼は、硬く縛られたゴミ袋の破り中を暴いた。20余年もの年月を罪を犯すことなく
慎ましく暮らしていた誠実な彼は、想像外のものを目にして悲鳴を上げて尻餅をついた。中に入っていたのは未だ胎盤と繋がった
ままの赤子であった。黒いビニール袋の中で酸欠に陥り、もはや泣き声を上げることも叶わぬほど衰弱していたこの赤子がゲオルグ
であった。
 まだ物心つかなかったゲオルグが、足りない頭ながらも自分のルーツが気になり院長エリナに問うた答え。衝撃がなかったわけ
ではなかったが、孤児院という特異な環境の中では当たり前だった自らの生い立ち。そのまま忘却の彼方へ落としてしまっていた
自らの始まりは、当時15に満たぬゲオルグに残酷なまでの現実を突きつけた。
 自分たちか暮らす街、廃民街はとどのつまりゴミ箱だ。塀に阻まれどこにも捨てることのできぬ下衆達を詰め込んだゴミ箱だ。
ではその奥底でゴミたちが交わり、ゴミが産み、ゴミですら投げ捨てた自分はいったい何なのか?かつて蔑み続けた者達ですら
その所持を望まなかった自分はいったい何なのか?
 要らない。
 思索の果てに得た結論は自らの薄弱な存在価値の根底を打ち砕くものだった。夢見がちな少年のゲオルグにはあまりにも無常な
現実だった。
 己の根本を否定され、時のゲオルグは心臓が潰れるような思いだった。布団を頭までかぶり、存在を確かめるように体を丸めて
自分を抱く。それでもその体すら砕けて消えていくような、枯れ葉が音を立てて潰れそのまま風に吹かれて散っていくような、自分
の存在の些末さ。カーストの最底辺にすら組み込むことを拒絶されたようなどうしようもない疎外感。足場を砕かれたような落下感。
焦燥に駆られ自信を取り戻そうと己の根幹を探る。されど、そんなものは砕け散り残っていなかった。交錯する思考は暗澹たる空虚
を掴むばかりだった。
 幾多もの感情が混じり合い、渾然たる恐怖となって少年のゲオルグに襲い掛かる。自らの心を飲み込んだ恐怖に、ゲオルグは悲鳴
を上げることすらできず、ただベッドの上で震えるしかなかった。
 不意に手を伝ったぬくもりに、ゲオルグははっとなり現実に戻った。見ればゲオルグの手をイレアナが握っていた。

「どうしたの?」

 心配そうに問いかけるイレアナは、まるで奥底を覗き込むようにゲオルグの瞳を見つめる。その真剣な眼差しにゲオルグ
は自分の恥部を覗かれた気がして視線を脇へそらした。

「いや、なんでもない」
「嘘、怖い顔してた」

 ゲオルグの取り繕いをイレアナはいとも容易く見破る。もはや言い訳も放棄し押し黙っていると、イレアナは包むように
両手でゲオルグの掌をそっと持ち上げた。何をするつもりなのか、感情を押し隠した視線でゲオルグは姉の行動を無言
で眺める。イレアナはゲオルグの掌を抱き寄せると言った。

「お姉ちゃんがいるからね」

 祈るようなイレアナの言葉。その言葉にゲオルグは彼女に救われた過去を思い出し、急に凍てついた身を融かされる
様な安堵を感じた。
 自らの無価値感に苛まれ眠ることのできなかった少年のゲオルグは物心つく前から支えてくれていた姉のイレアナを
頼った。1人が怖いと漏らし夜な夜な枕元に現れるゲオルグを、先んじて思春期を迎えていたはずのイレアナはその度
に笑顔で布団を持ち上げて受け入れた。
 姉の布団の中にもぐりこみ、その胸に抱かれながらゲオルグは思った。赤子になれればいいのに。赤子になれれば、
何も考えずにそのまま胸に抱かれることができるのに。されど曲がりなりにも15に近い彼の精神は否応もなく羞恥の心
を芽生えさせた。
 ごめんなさい、と情けなさに負けたゲオルグは謝罪の言葉を呟いて首をすぼめる。しかし少しでも距離を開けようと
するゲオルグの頭をイレアナは掌で包むと、そのままあやす様に撫でるのだった。

――いいのよ。みんな1人は怖いもの。

 でもね、そうイレアナは付け足して、ガラス細工を操るようにそっとゲオルグを抱き寄せる。頬に押し付けられる胸の
膨らみをゲオルグは意識せずにはいられなかった。だが、耳元に口を寄せて、言い聞かせるように囁く姉の言葉に、
思春期ゆえの下心はたちまち溶かされてゆく。

――ゲオルグには、お姉ちゃんがいるからね。

 それはゲオルグの空虚な心を満たす言葉だった。ゴミ袋に詰め込まれ、全てを否定されたゲオルグには与えられる
はずもなかった存在受容の言葉だった。
 身体を包む温もりに、鼻腔をくすぐる甘い匂い。姉の優しさの中で砕け散ったはずの存在理由が再構築される。
 俺はここにいていいんだ。要らない人間ではないんだ。
 己の居場所を見つけたゲオルグは、ようやく身体を弛緩させる。夜の孤独を恐怖した多感な少年は、ここでやっと
安らかな睡眠を得られたのだった。

――ありがとう。

 姉の胸の中で当時のゲオルグは感謝の言葉を伝えようとした。しかし、身を浸す睡魔によって急速に失われていく
意識に、その台詞が最後まで言えたか確証はもてなかった。それでも、伝わっていると信じて、少年は夢の世界へと
旅立つのだった。
 十余年も昔、閑散としていた心を温もりで満たした言葉に、ゲオルグの視界は滲んでいく。熱を帯びる目頭に
青年となったゲオルグは慢心の力をこめて瞼で蓋をすると、イレアナから顔を隠すように俯いた。
 強くありたかった。全てを受けれてくれた姉を護れる存在でありたかった。その胸に抱かれ、ただただ安寧に
溺れる子供でなく、1人前の大人として認められたかった。だから、安堵に緩む頬が恥ずかしくて、感謝の涙が
みっともなくて、ゲオルグは顔を伏せる。
 でも、自制できない。ならばせめて、あの時言えたかどうか終ぞ分からなかったあの言葉をもう一度――
 ゲオルグは口を開いた。力を振り絞り、震える喉で言葉を紡いでいく。

「ありがとう」

 返答の代わりとでもいうように、ゲオルグの手の甲をイレアナは優しく撫で続けた。
 気持ちを落ち着かせ、顔を上げたゲオルグはイレアナに目配せすると、外で喚声をあげる弟たちを見やった。

「俺は連れて行こうとは思っていない、でも――」

 ゲオルグは生まれたときから孤児院で生活した新しい世代だ。路上生活を直接体験してないがために、孤児院
という安寧を与えてくれた"偉大な父"への感謝の気持ちは漠然としたものに過ぎない。かつて"子供達"が示した
万骨の忠誠心をゲオルグは持っていなかった。
 自分に存在しない忠義を彼らに強制つもりなどさらさらなかった。愛する弟妹達が憎欲に塗れた日陰の世界に
身を落とさずにいてくれるのは、むしろ願ってもないことだった。
 しかし誰しもが太陽の下に出られるわけではない。むしろ一度見捨てられた彼らで堅気になれるものは少数派だ。
多くは見捨てられた絶望にもがくこともできず暗澹の底へ身を落としていく。
 だからこそ、ゲオルグは手をさし伸ばさずに入られなかった。たとえこの手が血糊で汚れていようとも。欲望の腐肉
で穢れていようとも。自分が――"子供達"が必要としなければ、彼らは本当に不必要なゴミになってしまうのだから。
 自らに強いられる覇道にゲオルグは幾度となく己を蔑み、血塗られた道しか拓けぬ自分にゲオルグは幾度となく己を
呪った。己が心を焼き尽くし諦観の灰で満たしてもゲオルグが"子供達"に身をおく理由は、彼らがゲオルグを必要とする
からであった。自らを産み落とした親にすら見捨てられた自分を"子供達"となった兄達は必要としてくれた。
 罪業に溢れた道だとゲオルグは思う。それでもそれが自らを必要としてくれた兄達を、自らを慕う弟達を、そして自らを
優しく抱いてくれた姉を守るただ1つの道筋だとゲオルグは信じんじていた。"偉大な父"の下、無慈悲な戦闘機械である
ことも、全ては愛すべき兄弟のためだからであった。

「俺はあいつらを見捨てない」

 前庭で遊ぶ子供をゲオルグは覚悟をこめて見つめる。ゲオルグの真意を理解しているイレアナは、そう、と呟くと同じ様に
瞳を前庭に向けた。
 2人の視線をよそに、前庭では1人の少年がアレックスからボールを奪い、誇らしげに胸を張って笑っていた。

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