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「序」

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「序」




このままじゃいけない…泣き喚く幼い二人の弟を懸命に慰めながら由希はそう思った。灰色の街並みはますますぼんやりと歪んで見え、行き交う人の顔すら、もはやはっきりとは判らない。

「…帰りたいよう!! おうちに帰りたい!!」

声を振り絞って嗚咽する弟たちは、なぜか綺麗なままの洋服を着ている。そう、あの事故の前日に買ったばかりだった、お揃いの小さなパーカー…
ひどい事故だった。由希の最後の記憶は、フロントガラスを砕いて宙高く飛び出す弟たちの姿と、ひしゃげた車体が自らを押し潰す激痛。次に気付いたときには、弟たちと一緒に見慣れないこの街角に立っていた。

(…死んじゃったんだよね、私たち…)

あれから何度考えてみても、由希の結論は変わらなかった。道行く人も車も彼女たちには気付かず、触れてみるとまるでどちらかが幻灯の映し出す虚像であるかのようにすり抜けてしまう。
空腹も眠気も感じることなくただ過ぎてゆくだけの時間。耐えがたい孤独と絶望のなかで由希を支えているのは、自分がただ一人の保護者である弟たちへの責任感、恐らくもう逢えないであろう両親に対する、まだ十歳の彼女には重すぎる義務感だけだった。

「…ね、拓ちゃん、真ちゃん、お姉ちゃんと行ってみよ? 怖くないから…」

「いやだ!! 怖い!! 怖いよお!!」

そしてもう長い間、三人は暗い『穴』の傍らに佇んでいた。深く、寂しげな『穴』。しかし由希の揺るぎない直感は、自分たち死者を黙殺して不快に軋むこの世界を離れ、一刻も早く向かうべき場所はこの『穴』の向こう側にあると告げていた。
ぐずぐずと場違いな生者の世界に留まっていては、取り返しのつかない恐ろしい事になる。たとえ行く手に由希がまだその存在を信じている、身の毛もよだつ『地獄』が待っているとしても。

(…この子たちは大丈夫。私も、多分…)

まだ保育園児の弟たちは地獄に落ちるような罪を犯せる筈がない。由希も両親や、去年亡くなった祖母のいう通り正直に嘘をつかず生きてきたつもりだった。心配ない。きっと大丈夫だ。
近づいていた誕生日、遠足…心残りは数え切れないが、胸を張って神さまの用意した道を進まなければ…

「いやだあ!! ママ!! ママ!!」

まるで分厚い硝子板に隔てられたような近くて遠い景色のなかを、仲睦まじい家族連れが歩いていた。決して届かない生の世界に小さな手を伸ばし、悲しく叫ぶ弟たちの手を引いた由希は、静かに冥府へ続く『穴』に向けて脚を進めた。

(あっ!?『穴』が…)

由希の目前で不定形の闇は確実に小さくなっていた。急がなければ。これまでも何回となく彼女は『穴』を見送ってきた。せめて見慣れた世界から弟たちを無理に引き離すのが忍びなく、いけないと知りつつも目的もなくふらふらとこの街を彷徨い続けて。

(…これが最後の『穴』かも…)

思えば、最初は街の至る所で見掛けた『穴』が、どんどん減ってゆくような気がする。時間の経過は全く判らない世界だったが、『穴』を見つけるのは久しぶりの事だったのだ。

(…最後のチャンス、かもね…)

断じてこの虚しい徘徊が死者の歩むべき正しい道の筈がない。こうして魂がある限り、短か過ぎた生涯を超えてなお輝く道を目指したい。
姉として二人の弟をその道に送り出す為に、震える弟たちの耳元に優しく唇を寄せた由希は、そっと生まれて初めての『嘘』をついた。

「…あの向こうで、おばあちゃんが待ってるよ。『拓ちゃんと真ちゃんはまだかな?』って」

「…ほんと?」

「…お姉ちゃん、嘘言ったことないでしょ? ほら、おばあちゃんが呼んでる…」

ようやく泣き止んだ二人に微笑んだ由希は、抑えられぬ戦慄に少しだけ身体を震わせた。『嘘をつくと、閻魔さまに舌を抜かれる。』半信半疑で守ってきた教えだったが、まさか閻魔さまにこれほど近い場所で、生涯最初で最後の嘘をつく事になるとは思わなかった。

(…きっと、痛いだろうな…)

また沢山血が出て『死んで』しまわないだろうか?もし喋れなくなっても、はたして弟たちの世話は出来るのだろうか?
とりあえず弟たちの今後に見通しがつくまでは、なんとか舌を抜くのは待ってほしい…
しかしもう、躊躇っている暇はなかった。染み入るような恐怖としばらく闘った由希は、やがて決然と足を進める。漆黒の『穴』が消え失せてしまえば、永遠に公正な裁きすら受けられず彷徨い続ける事になるのだ…

(…さよなら、みんな…)

両親や友達…数え切れぬ親かった者たちとの決別。無慈悲な魔物がその鋭い鉤爪で、なす術もない三人を鷲掴みにして、この辛い旅路を黄泉へと連れ去ってくれればどれほど楽だろう。あるいは、あるいは…

縋りつく二人を背後に庇い、堅く眼を閉じて黄泉への長い回廊に飛び込んだ彼女の耳に、久しぶりに聞く弟たちの明るい声が飛び込んだ。その信じられぬ歓声に、由希は恐る恐る眼を開く。

「おばあ…ちゃん!!」

弟たちが由希の手を引っ張って慌ただしく駆け出す先、思ったよりずっと明るい世界に祖母は立っていた。三人の孫を抱きしめようともどかしく皺だらけの手を伸ばした祖母の姿に、十歳の少女には長すぎる時間、ずっと由希が堪え続けていた涙はとめどなく彼女の頬を零れ落ちた…


「…四名、収容しました。」

部下のほっとした声に頷いた獄卒長、紫角は新しく着任した上司に向かい毅然たる念を送った。彼の頭上を覆う地獄の暗雲の中、未だ姿を見せぬ新しい上司の強大な気配は、静かに紫角を見下ろしていた。

(…新しい規定には違反致しました。しかし、幼い亡者を迎えるとき、人間界での親族を迎えに出すことは、過去数千年間ずっと認められてきた慣例であります!!)

虚空から応えはない。しかし紫角はその魁偉な牛面に恐れの色を浮かべることもなく、明らかに越権行為である上申を続ける。ふと気付くと部下の獄卒たちや、普段は不仲な『渡し守』の長たちまでが紫角の背後で、同じ想いを新任の監督官に送っている。

(…重ねて、重ねてお願い致します。幼い者に心細い思いをさせる『合理化』など、現場には不必要であります!! 畏れ多くも統括おかれては、何卒御再考のほどを!!)

昏い地獄の空へ、紫角と部下たち、そして死者たちを冥府へ迎える役目を担った全ての者たちの嘆願は静かに、しかし力強く立ち登ってゆく。
すでに紫角は、この制度改悪を阻止する為なら他ならぬ地獄の支配者、閻魔大帝その人への直訴も決意していた。たとえその結果が、有無を言わせぬ自らの速やかな消滅であったとしても。
しかし、紫角の巨体が煙と化すことはなく、長い沈黙のあと、獄卒たちには窺い知ることの叶わぬ高みから、厳かな返答の念が賽の河原へと返った。

(…詮議の上、善処しよう…)

反り返った角を微かに震わせ、その頭を恭しく垂れた紫角は、遥か上位の次元、宇宙の秩序を司る存在に感謝の念を送ると、三人の新入生が『死業式』に間に合うかを、普段のいかめしい顔のまま、小首を傾げて考え始めた。

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