R2-D2

人の肆

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r2d2

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 シャッターばかりの商店街というのは寂しいものだが、アズマ達にとっては割りあい居心地の良い空間である。
 季節がら蒸し暑い日も増えてきたが、日も暮れれば気温も下がって、この寂れた商店街には人通りも殆ど無くなるし、馬鹿騒ぎすれば流石に面倒なことにもなろうが、文句を言われることもそう無い。アズマ達のような輩を注意する者は、ここには居ない。この通りは頭から尻尾まで生気が無い。
 外でだべるのは良いものだ。家には死の香りが満ちている。
 広い家は家族で住むものであって、そこに家族の暮らしが無いのなら、その家は死体なのだ。冷たく、臭い、ぶよぶよしている。そんなものに包まれて過ごすより、アズマにはよっぽどこの寂しい場所の方がいい。
 雲ひとつない夜空は、申し訳程度の街灯も無ければ星がよく見えるのだろう。
 だがアズマにとっては、星など見えない方がいい。
 通りの生気など、無い方がいい。
 解放感と閉塞感が折衷して醸し出すこの虚無感は、アズマの心そのものだった。
 冷静な心持ちで祭りのただ中にいる事ほど居心地の悪いことはない。
 興奮した状態で家に閉じこもっている事ほど気持ちの悪いことはない。
 内と外が同調しているからこそ、ここは快いのだ。

「でぇ、タカのやつ、結局そのままそこでしたんスよ!」
「マジ? バッカでぇー!」
「そんで、ちょっと待って下さいトモミ先輩……そん時トシが撮った写メが! コレ!」
「マジキモいって! 何やってんのあいつ!」
「アズマさんも見て下さいよコレ!」

 友人達は相も変わらず楽しそうである。楽しそうというか、本当に楽しいのだろう。
 羨ましいと思う。だが、こういう馬鹿にはなりたくないとも思う。

「相変わらずくだらねぇことしてんなアイツら。お前らはこーいうのと付き合っちゃダメだかんな」
「大丈夫ですって! あり得ないっす!」
「ウソつけぇー! お前今付き合ってるあの緑の髪のやつ! チョーアホじゃん! 髪緑の時点でアホだし!」
「トモミよぉ……銀のやつがここにいるんだけど?」

 冗談めかして軽く睨んでやる。

「いやいやそんなつもりじゃないって! アズマのはマジハイセンスだし! マジ似合ってるし!」
「そうッス! 金属みたいな感じがいかにもっていうか、イメージどーりみたいな!」

 彼女らは気付いていないのだ。自分達が堕ちていることに。

 ――無理もないか。

 堕ちている最中に痛みは無いのだ。
 寧ろ浮遊感があって、心地良い。
 地に足が着いていない感覚。空中にいる証であるが、その感覚は、ともすれば地に足を着いて生きる人々より高みにいるかのような錯覚さえ起こさせる。
 自分は飛んでいるのだと思い込んでしまう。
 生涯地べたに頼って生きる連中が終ぞ味わうことの無いであろう享楽の中に、自分は今まさに身を投じているのだと。
 身を切る風は冷たいが爽快で、耳をつんざくような轟音は、周りが自分に呼び掛ける声も、自らが叫ぶ声さえ掻き消す。
 風が強いので目を開けてはいられない。自分がどこへ堕ちていくのか、分からない。堕ちていることさえ、分からない。
 堕ちている最中に痛みは無い。
 痛いのは、激突した時だ。
 その時にはもう手遅れだ。自分は堕ちていたのだと初めて自覚した時には既に、自分はばらばらに砕け散っている。もう元には戻れない。
 陽の差し込まない谷底で、砕け散った自分が朽ちてゆくのを見ながら暮らすのだ。腐りながら生き、腐り果てて死ぬのである。
 彼女達には堕ちている自覚が無い。飛んでいるものだと思い込んでいる。
 だが、アズマには自覚がある。何故アズマは気付けたのか。
 簡単である。
 地に足が着いていない。そして、自分には飛ぶだけの力が無い。
 堕ちている自覚があるからといって、必ずしも悲惨な未来を回避出来るわけではない。羽ばたく力が無ければ。風を捉える感性が無ければ。――手を掴んでくれる誰かがいなければ。
 アズマの手を掴んでくれたであろう唯一の人は、もう逝ってしまった。
 今アズマの周囲にいるのは、同じく堕ちている者ばかりである。
 もうどうにもならないのなら、せめて激突の瞬間までは笑いながら生きた方が良いのだろうか。
 生きる。
 生きるとは、なんだろう。

「チヅルよぉ、お前のカレシさぁ、緑の。なんつったっけ? ユージ? コージ?」
「ユージッス!」
「マジそいつとは別れた方がいいって、な。そーしろよ。一回でも手ェ出してくるオトコはダメだって、ウチのねぇちゃんが言ってたぞ。そーいうオトコは後で謝ってきても、また同じことすンだよ。そんでDV受けたオンナって、なんでかDVオトコからは離れられないってゆーじゃんか。そーなったらお前、人生終わりだって。マジで」

 何ならもう終わっているようなものだろう。

「大丈夫ですよ。どの道もう別れるつもりなんでぇ」
「まだ付き合ってひと月も経ってないだろ」
「最近付き合い悪いと思ったらよぉー……まさか新しいの見つけたってのか! ウチらに黙って! うらやましーやつめ! そのオトコはあの緑よりイイってのか!  あの緑よりイイオトコ捕まえるなんてうらやま……いやそりゃ当り前か! うり! うりぃ!」

 トモミがチヅルの服の中に手を入れて脇腹をこねくり回す。チヅルはきゃーきゃーひーひー言いながら一通りもんどり打つと、泣き笑いの顔を引きずったまま話し始めた。

「ウチぃ、一人っ子じゃないッスかぁ。だから高校出たら家の手伝いしようと思ってぇ」
「へっ?」
「意味が通ってないぞ。飛躍してる」

 くすぐられたダメージがまだ残っているのかチヅルの表情はまだ目尻に涙を浮かべた半笑いである。おまけに口調もいつも通りのふざけた調子なのだが――アズマは、声のトーンに一本芯が通っている事に気付いた。
 チヅルの家はこの商店街の一角にある、敷地面積だけはちょっとした酒屋である。ただし品ぞろえは必ずしも良くなく、棚同士の間が無闇に広かったりする。

「なんかぁ、前々から話はあったみたいなんですけどぉ、コンビニのぉ、フラン……チン?」
「フランチャイズか」
「それッス! その話があってぇ、ホラ、あっちの、ジャスコゥあるじゃないですかぁ。ジャスコゥが出来てから客がめっきり減っちゃってぇ、ウチの店っていうか、もう商店街全体に人が来なくなっちゃったんでぇ、コンビニにしたらお客さん来るかもみたいなぁ。立地はそんなに悪くないらしくてぇ」
「コンビニは夫婦二人じゃ無理だろうからな。バイト雇う金節約するためにお前が手伝うわけだ」
「そーなんスよぉ」
「待った。待って。ウチは別に、お前が家の手伝いするのに反対じゃねーよ。でもさ、いいか、なんだ、その」

 トモミは考えながら話そうとしている。だがそれは恐らく、チヅルの話の中に言葉を選ぶべき気色を感じ取ったとか、ちょっと難しいことを言おうとしているとか、そういう理由からではない。ただ単に、地に足の着いた話に上手くついていけないだけなのだ。実際、話に参加するのが遅れている。

「お前一人が手伝うと、そんなに違うのか? なぁ、緑の、アイツ」
「ユージッス」
「ユージとは、何で別れるンだ? 会えなくなるくらい、お前働くのかよ?」
「そーなんスよぉ」
「何でだよ?」
「父親がガンだったらしくてぇ」
「何?」
「それでなるべく早く金が要るってわけか。オトコに構ってる時間は無いな」
「そーなんスよぉ。うちの父親ぁ呑み過ぎなんスよねぇ。売り物もフツーに呑んじゃうしぃ。酒癖はわるくないのはイイんスけどぉ」
「お、おまえ……それ、いつから」

 トモミの頭はオーバーヒート寸前のようである。急にいくつもの情報がぶち込まれたからではない。
 触れ慣れていない情報だから、処理の仕方が分からないのだ。
 その気持ちはアズマにもよく分かる。だが元の頭の出来の違いなのか、アズマは至って冷静だった。
 理解すべき事実はたったひとつで、シンプルだ。
 チヅルは大地に立ったのだ。
 不幸の突端に掴まって、家族の絆に引っ張られて、少々力技ではあるが、チヅルは大地に「這い上がった」のである。
 本人はあっけらかんとしているが、その心中は、アズマのような者には図り知ることが出来ない。
 チヅルは今、アズマの見たことがない世界を見ているのだ。

「だからぁ、ガッコも近いうちに辞めるんスよぉ。先輩達とも遊べなくなっちゃいますねぇ」
「お、おう……うん」
「でもぉ、先輩達もお店来てなんか買ってってくださいよぉ。これからはセーフクでも堂々と買えるんでぇ」
「マジ? 酒買っちゃっていーの?」
「お酒はダメですよぉ! これまで以上に!」

 夜の商店街に、三人の少女の朗らかな笑い声がこだまする。
 こだまするほどに大きな声を上げるのは、主に面倒を避けるという意味で良くないことなのだが、それでも笑わずにはいられなかった。
 アズマの心の中には、後輩が曲がりなりにも地に足を着いてくれたことに対する安心感と、置いて行かれたという寂寥感と焦燥感が湧きあがっていた。
 自分はいつになったら、朽ちる未来を憂えるだけのこの状態から抜け出すことが出来るのだろうか。
 自分には引っ張り上げてくれる家族はいない。
 アテにする程強い絆で結ばれた仲間もいない。トモミとチヅルに友情を感じないわけではないが、心から通じ合っているわけではない。二人がどんなに自分を大切に思ってくれていたとて、アズマに二人を頼りにする気持ちがなければ、その手を取ることは出来ない。
 アズマにとって二人は所詮、一時を共にする間柄でしかなかった。
 冷えきった心で温い関係の中にある事ほど、気持ちの悪い事は無い。
 暖かい心で冷えきった関係の中にある事ほど、居心地の悪い事は無い。
 自分の内側と同調している虚無な関係こそが、アズマにとって最も快いのだ。
 寂しいことだとは思うが。でも、仕方が無い。そういう風に出来上がってしまったのだから。
 それでも今は、痛みは無い。しかし、いずれは――。

「こらーお前らーこんな時間にこんなところでなにやってんだーチンピラかーこらー」
「あぁン?」

 妙に間延びした、いかにも「定型文を読んでいます」といった具合のやる気の無い声が背後より掛かった。
 振り返ってみると、そこにいたのは二人の警察官だ。一人は小太りな中年の男で、アズマを見ながら何やらハアハア言っている。今日は特段暑いということもないが、時節は一応夏の手前なのである。しかし日が暮れてもデブには暑いのだろうか。単に女子高生が好きなだけなのかもしれない。
 声を掛けてきたのはもう一人の方だ。体型としてはやや縦に長く、しかし背が高いわけでもないので、つまりただ頼り無い体つきだということだ。
 顔を見るとまだ少年の面影さえあるが、侮るような目と端の下がった口元からは、気だるさと傲慢さが滲み出ていた。
 それにしてもこの警官、見覚えのある顔である。

「あーっ! 足立さんじゃないッスかぁー!」
「ホントだ。交番の足立だよ。――いや待てよ。何でこんなとこに足立が?」

 確かにこの体型、この顔立ちは足立である。
 アズマ達が通う学園の近く、佐倉川へ至る。道程にひっそりと立つ交番にひっそりと勤務する、真面目だが頼り無いあの警官だ。見た目だけならば。
 だが纏う雰囲気がまるで違う。あの足立は愛想の良い飼い犬といった感じだが、この足立はさしずめ、愛想の悪い飼い犬である。いずれにしても飼い犬の域を出られない辺りが足立である。
 小太りな警官が羨ましそうな妬ましそうな声で「知り合いなのかい」と足立によく似た警官に尋ねた。足立っぽい奴は面倒くさそうに「知りませんよ」と答える。

「いや、でもお前は知ってるな」

 足立もどきはアズマを指差した。

「銀色の髪だ。お前、桑原雷だろう」
「えぇっ! やっぱり彼女が桑原雷? 静謐にして激なる銀の雷、苛烈にして可憐な女帝! あの桑原雷だというのか!」
「吐き気を催す邪悪なキモさってのはアンタのことだなおっさん」
「どうしたんだよ足立さん。そんな怖い顔してぇ。ここンとこしばらく遊びに行ってなかったからスネちゃったのー?」
「そうッスよぉー、ウチがズボン下げてもパンツ下げても足立さん泣くだけで全然怒ったとことか見たことないのにィー。何で今日は最初っから怒ってんスかぁー?」
「あん? 俺はお前らなんかしらねーっつーの」
「足立さん、ガッコの近くの交番から異動にでもなったの? 左遷?」
「コッチの方が栄えてるから左遷とは言わないんじゃないの。それにこいつはなんか雰囲気が違う。情けなくとも敬意を忘れない足立さんじゃあない」
「ガッコの近くの交番だぁ? ――あのなぁ、そりゃ弟の四郎。俺は兄貴の三郎だ」
「マジ? おにいさん? 似すぎじゃないッスか!」
「違うのは態度だけだな。ねぇアズマさん」
「何か用かよ。足立さんのアニキ」

 足立は端から険の張りついていた顔を更に歪め、吐き捨てるように言った。

「お前らさっさと帰れ。問題起こす前にな。俺たちに給料払ってくれてる善良な市民の皆さまにご迷惑かけるような真似してくれるなよ。お前らみたいなのを取り締まるのが俺の仕事だからな」
「ウチらはだべってただけだ」
「だべってただけだぁ?」
「いつもそうッスよー。ウチらなーんも、悪いことしてないんで。足立さんのおにーさんも明日からはここに来ないよーにしてくださいよぉ。邪魔なんでぇ」
「だべってるだけならイイとでも思ってんのかお前ら。お前らみたいなのはなぁ、本当なら生かしておいても仕方ないんだよ。社会のお荷物にしかならないからな。自分を高めることを何もせず、人並みに生きることさえ出来ないお前らみたいなのは、どーしようもない、酒とタバコだけが愉しみの人生を送るんだ。もしくはオトコか? お前らと同じようにロクでなしのヤローどもに媚び売って生きるのか? パチンコでもするか? そのパチンコする金はどーする? 何のために生きるのか考えたことはあるか? 現実逃避のために現実を生きるのか? そんなのは生きるって言わない。生きるってどーいうことか、考えたことあるのか? 生きる意味をな、知ってるのか? お前ら」

 生きる意味。
 アズマは足立三郎のような差別的な人間の言葉は聴く価値も無いと考えるが、しかし生きる意味というものを、確かにアズマは知らない。考えたこともない。自分は一体、何のために生きているのか。
 将来なりたい職業などない。――いや、それが生きる意味か? 違う気がする。生きる意味というのは、もっと大きな問題であるはずだ。例えば犬は何のために生きているのか。
 成すこと、成したいことが生きる意味ならば、犬の生涯は食って子供を作るだけではないか。子供を作り、育むことが生きる意味なのか?
 それならば、アズマに生きる意味などないことになる。
 自分の子に生まれた命は不幸になってしまうからだ。
 親というものがどうあるものか、人は知識としてならば、よその家庭でも見知ることが出来る。だが、体験を伴わない知は、それを伴う知に比べれば印象も薄いし、はっきり言って身にならない。
 アズマにとって身になる親の在り方とは、自分の親の在り方、ただそれだけだ。
 両親は忙しく働き回り、アズマが寂しさから反発して見せれば、まるで勝手にそうなったかのように扱う。こんなのは自分達の娘ではない――そもそも自分達は育てていないのだし――勝手にそうなった――はじめからそういう娘だった――自分達は、こんな娘を持ってしまって運が悪い。そう言って責任を放棄する。アズマにとって親とはそういうものだった。
 アズマもそうなってしまうのではないか。何故なら正常な親の在り方というものを、アズマは本当の意味では、まるで知らないのだから。
 自分が彼らのようにならない保証は無い。寧ろそうなってしまう可能性の方が高い。ならばいっそ子供など産まない方が良い。子供の子供も、そのまた子供まで――自分と同じ思いをする可能性があるならば。
 自分には生きる意味などあるのか? 少なくとも今は、見出せずにいる。
 そう考えると、なんだか目眩がしてきた。ただ死なないように生きるだけの未来を想像すると、それだけで目の前が暗くなる思いだ。遠くの街灯の明かりが、ちらちらと明滅して見える。

「なんかムカつくなコイツ。じゃあアンタは生きる意味ってのを知ってるのかよ」
「知ってるけど教えない。知りたきゃお前らも生きてみやがれ」
「ウチらが生きてないみたいな言い方だな」
「生きてないね。ただ死なないようにしてることを、生きてるとは言わない。獣ならそれでいいかもしれないが、お前らは人として、死んでるんだよ」

 そうか自分は死んでいたのか。それなら、肉体が動いていても仕方ないのではないか。そう、死体であっても別に困らない。自分自身も。誰も彼もが。周囲が闇に包まれてゆく――。

「いいか、俺にこんなこと言われて悔しいと思うんならな、お前らも何のために生きるのか、きちんと考えてみろよ。それでもどーしても分からないんなら、将来のために勉強したり、家族を助けるために働いてみせろ」
「へっ! バーカ! チヅルは今度から働くンだよ! コンビニやンだよコンビニ! なぁ?」
「トモミせんぱぁい、何か暗くないッスかぁ?」
「ホントだ。暗いな」
「街灯が消えてる……? おいお前ら、早く帰れ。そうでなくともここでないどっかでだべれよ」
「こ、こんな暗くちゃ、危ない人が出るかもしれないからね。僕みたいな……なんちゃって! なんなら送ってあげてもいいよ」
「細井さん……シャレになってないですよ。何もかもが」
「家明かりも消えてるな。停電か? おいお前ら、家どこだ? 遠いようなら、ホントに送ってってやるよ」
「月がよく見えますねー先輩」
「ホントだ。凄いな。なぁアズマ、星までよく見えるよ」
「え? あ、うん――」

 我に返って辺りを見回すと、確かに周囲の一切の光源が消えている。
 光があるのはただ、雲ひとつない、乾いた梅雨の夜天のみ。星も月も浮き上がって見える。
 月がこんなに明るいなんて、アズマは知らなかった。
 その明るい月の真ん中に、一条の白線が奔った。

「今の――」
「今なんか通りましたよねぇ。UFOッスか?」
「あのなぁお前ら、ちょっとはおまわりさんの言うこと聞こうぜ」

 ――何で?

「そうだよ君達。足立君は年少者に対しては大抵偉そうだけど、何も君達のことが嫌いなわけじゃないんだよ。君達のことを思い遣っているからこそ」

 夜空を見上げていたアズマの視線は、鈍く重い音によって地上へ引き戻された。

「細井さんっ! どうしたんですか!」

 太った警官が倒れている。
 足立は彼の体を起こそうとしているが、如何せん重量が違い過ぎて、仰向けにさせるのがやっとだった。
 太った警官の顔が、アズマの目に入る。
 目をカッと見開いて、眼球をきょろきょろと動かしている。まるで自分が倒れたことに驚いているようだ。

「あれ? 今、そこ何か通っ――」

 チヅルの体がぐらつき、一瞬のうちにアズマの視界から消えた。

「あぶねっ! オイ! 何やってんだチヅル!」

 トモミがチヅルの体を、地面ギリギリの高さで抱きとめていた。一瞬遅かったらチヅルはアスファルトに強かに頭をぶつけていたことだろう。

「何なんだ一体! 何が起こってる!」

 足立の怒号の直後、アズマの背後より、巨大な金属板が一気にひしゃげたような爆音が轟いた。
 近くに止まっていた小型のバンが、まるで万力で捩じ切られたように大破していた。
 次いで街灯が二本、続けざまにへし折れる。アスファルトと金属の柱がぶつかる、甲高い音。

 ――ダメ。

 細井もチヅルも、一言も言葉を話さない。両者とも体は弛緩しきっており、ぴくりとも動く気配がない。

「アズマァ!」

 トモミが、どうすればいいのか分からないというような、悲痛な声を上げる。
 アズマにはやるべきことが分かっていた。この事態はただ待っているだけでは過ぎ去らない。今この場に留まることは、事態を悪化させてしまうだけだ。早急にこの場を離れなければならない。

「足立! アンタらここまで何で来た!」
「畜生! もう何がなんだか、ワケがわからない! 誰か助けてくれぇ!」
「アタシらのこと、送るって言ってたな! パトカーがあるのか!」
「おかあさあああああああああああああああん!」
「ちぃ! 所詮足立か……」

 足立はすっかりパニックになってしまってるようだった。この状況を脱するための唯一のキーマンだというのに――。
 アズマ達がいる場所より二件向こうの商店の壁に穴が開いた。砕けた壁の破片が道路にこぼれおちる。
 もう既に二人やられている。いつまで持ちこたえられるか分からない。
 手段を選んでいる場合ではなかった。

「トモミ! 足立を抑えつけてくれ!」
「えっ? なんで足立さんを?」
「いいから早く!」
「う、うん!」
「おとうさああああああああああああああん!」

 最早細井の体も投げ出して暴れる足立を、トモミが背後から羽交い絞めにする。
 めきめきと、大きなものが倒れる音と共に、か弱い獣の鳴き声のような、甲高い音が聞こえた。

 ――間に合わないかもしれない……っ!

 いつどこで覚えたのか分からない。だがアズマの無意識の領域には、確かにそれをした記憶があった。
 何度も成功した記憶が。
 何故このタイミングで、今まで眠っていた記憶が呼び起こされたのかは、明確には分からない。だがきっと、生き残ろうとする本能が働いたからこそ、本能と同じように自分でも知覚できない部分で眠っていたものが、今になって呼び起こされたのだろう。
 それは赤子が母親の乳を吸おうとするのに似ているのかもしれない。

「上手く行ってくれよ……ッ!」

 アズマは足立三郎の首に手をかけた。









第四幕 アース・ウィンド・アンド・ファイアー に続く



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