R2-D2

第一楽章

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r2d2

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「人間が宇宙人に会ってみたいって思うのは、地球にいないからじゃないかしら。宇宙人が地球にいないってことじゃなくてね――そう、いないけど、そうじゃなくて、アタマの良さのはなし。だって人間以外に、人間と同じかそれ以上にアタマのいい生き物って、地球にはいないもの。だから寂しいのよきっと。話が合うひと、同じレベルのひとがいないって、すごく寂しいから。それで、そういう相手が地球にいなくて寂しいから、外にはきっといる、いるならゼヒ会いたいって、そう思うのよ。まさに600万年の孤独だわ」

 夜中にこっそり抜け出して来たカノンと、一緒に星を眺めた時のことだった。

「夜空ぜんぶが、あるか無いか分からないくらいのスピードで迫って来るみたい。あっちでも建物の明かりが無ければもっとよく見えるはずなのに。いつも眺めていられるブイタローが羨ましいな」
「そうかな。僕はいつも見てるから分からないな」

 カノンは僕が出会った人間のなかでも、かなり風変わりな女の子だった。

「見えているものが違うって、それはきっとすごい違いよ。同じ世界で生きていても世界が違うのね。たとえ世界の物理法則とか、宇宙の成り立ちとか、それを全部解明したとしても、世界の全てを知ったことにはならないの。きっとね。隣にいる人の考えていることさえ分からないのなら」

 カノンの声はいつも穏やかで、それでいて確かにある抑揚は心地良い。
 カノンコードのように、いつまでも聴いていたいと思わせる。

「隣にいるひとの心を分かろうとすることは、宇宙の神秘を探ることと同じくらい途方もないことで、なおかつ魅力的なことじゃないかしら」
「それがブイモンなら、尚更だね」
「そうね……まったくもって、その通りだと思うわ」









 カノンコード









 カノンと出会ったのは、カノンがまだ僕より頭一つ分だけ大きい頃だった。
 人間を初めて見たのもその時だ。
 カノンはゴローと一緒だった。
 二人とも僕らの世界に来てまだいくらも時間が経っていなかったらしく、僕らの姿を見て驚いていた。僕らというのは、僕と三体の仲間のことだ。
 驚いた後の二人のリアクションは好対照だった。ゴローは慌てて木の陰に隠れようとし、カノンははしゃぎながらしきりに「ブイモンブイモン」と叫んだ。その時僕らは初めて、自分達がブイモンという生き物だと知った。
 僕以外の三体は二人に無警戒に駆け寄って行き、上下左右から物珍しそうに眺めたり、カノンの髪を引っ張ったり、ゴローを蹴飛ばしたりして遊び始めた。
 やんちゃなのだ。ブイモンというデジモンの性分はそういうものらしく、僕のような、初めて見るものを訝しんでなかなか近づかないタイプは珍しいようだった。実際、僕は変わり者扱いされていた。
 カノンは僕と真逆で、つまり本来のブイモンのような性分の持ち主だった。彼女はすぐに僕の仲間と打ち解け、僕にも気さくに話しかけてくれた。
 ゴローはカノンと真逆で、つまり僕のような性分の持ち主だった。彼は僕らに怯え、逃げ回り、僕らと僕らにいきなり馴染むカノンを遠巻きに眺めていた。そしてたまに仲間に蹴飛ばされていた。
 第一印象で僕が仲良くなれそうだと思ったのは、どちらかと言えばゴローの方だった。でもそれが間違いだと分かるのに、そう時間は掛からなかった。
 カノンは一冊の絵本を持っていた。

「あなたたち、このおはなししってる?」

 ひと通りじゃれあった後、カノンはその絵本を開いて僕らに見せた。
 淡い色彩で鮮やかに描かれた絵は、僕と仲間達の興味を惹いた。その時ばかりは僕も、仲間達と一緒に絵本に群がった。
 けれど、カノンがその絵本の読み聞かせを始めると、僕以外の三体はまるで興味を失い、ゴローを蹴飛ばして遊び始めた。
 カノンの読むおはなしを聞いていたのは僕だけだった。
 カノンがその時読んでくれたシンデレラのおはなしは、僕が生まれて初めて聞く「物語」だった。僕は魅了された。うつくしい絵、初めて触れる物語というもの、何よりその中に登場する聞いたこともない言葉が僕の興味を引いた。
 靴とはなんだろうか、ガラスとはなんだろうか。かぼちゃとは。馬車って? 王子様も、継母も――シンデレラとシャンデリアの違いは一体なんなのか。当時受けた衝撃があまりに強かったので、シンデレラのおはなしは今でも一言一句明瞭に覚えている。
 読み聞かせが終わると、僕とカノンはある器によって結ばれた。
 その器は僕とカノンの絆の具現であり、僕らの世界とカノン達の世界の行き来を可能にする力があった。その日二人は、カノンのお腹の虫が三度鳴いた後、器の輝きに包まれて自分達の世界へ帰った。
 それ以来、カノンは毎日僕らの世界にやって来るようになった。ゴローもたまに来た。






 僕はカノンのお気に入りで、気付けばブイタローと名付けられていた。
 カノンは僕の仲間達の相手はそこそこに、こちらの世界の時間の殆どを僕と一緒に過ごすようになった。
 カノンは僕に自分達の文字を、その読み書きを教えてくれた。

「『ぬ』は『め』とにてるの。『いぬ』の『ぬ』だよ。――ていうか『いぬ』ってわかる?」
「『いも』しかしらない」

 読み書きを教えながら、カノンは自分の世界の色々なことを僕に話してくれた。
 自分達人間はどういう生き物で、どういう世界に暮らしているのか。そこには人間の他にどんな生き物がいるのか。こんな面白いものがあって、あんな退屈なものがある。犬はかまったら必ず応えてくれるから面白く、猫はかまっても大抵無視するから退屈。ショベルカーはうぃんうぃん動くし土まみれで面白いけれど、救急車はうるさいだけで白くて退屈だ――などなど。
 カノンにとって世界を構成する要素はすべて、面白いか退屈か、ただそれだけの基準で分類されているようだった。ちなみにゴローは退屈な方に分類されていた。
 面白いものにはどこまでも情熱的で、退屈なものにはどこまでも冷たい。カノンはそういう女の子だった。
 ただし、面白いものと退屈なものの境界線は必ずしも一定ではなかった。
 カノンの興味はくるくる移り変わるのだ。
 昨日まで面白い方に分類されていたものが今日は退屈なものとして語られることもあれば、退屈どころかよく知りもしなかった物事を、翌日には面白そうだと言って目を輝かせることもあった。ただしゴローだけは一貫して退屈らしかった。
 カノンが色々なものに興味を抱き、話してくれるので、僕の人間とその世界に対する知識は爆発的に増えていった。






 カノンの背がひとまわり伸びた頃、僕らは旅に出た。
 僕に自分の世界のことを教えることに飽きたカノンは、新たにこの世界とそこに生きる生物に興味を持ったらしい。
 ゴローは当然のように僕らに着いて来たけれど、臆病な彼が何故危険を伴う旅に同行するのか、その理由は理解出来なかった。また、カノンはゴローの同行を快く思っていなかったようだった。
 道程はなかなか捗らなかった。
 というのも、カノンには元より自分の世界で「やらなければならないこと」があって、その間隙を縫う形で僕らの世界に来ていたからだ。その「やらなければならないこと」とは、学校に通うことである。

「学校なんて、行きたくない」

 カノンは口癖のようにそう言っていた。
 学校に行かずに済めば、その分の時間を旅に費やすことが出来るからだ。でも、僕としてはカノンにちゃんと学校に通ってほしかった。その方が彼女の知識が増え、彼女から得る僕の知識も増えるからだ。僕の見る人間とその世界は、カノンというフィルターを通してのみ触れられるものだったから、カノンの成長は、実質僕の成長とほぼ同義だったのだ。
 進捗率の低さゆえか、それとも世界の広さゆえか。それは長い旅だった。
 カノンの時間が許す限り僕らは歩く。時間の限りが来ればカノンは自分の世界へ帰り、僕はその日の旅が終わった場所で夜を明かす。そして翌日カノンが来るまでに周辺を探索し、カノンがやって来次第旅は再開される。歩きながら、僕はカノンが来るまでに見聞きしたことを彼女に話すのだ。同時に、カノンもまた彼女の世界で新たに知ったことや触れたこと、興味を持ったことを僕に話してくれる。また、歩き疲れたり、気が向いたりした時には、眺めの良い場所で字を教えてくれた。僕は漢字が好きだった。
 旅のなかで僕らは、知識だけでなく得難い数々の経験を手にした。
 浅い川を渡っているときに気付けばゴローが流されていたことなど、困難のなかではまだ易しい方だ。
 大きな生物に襲われて死にかけたのは何度もあったし、敵から逃げる途中でゴローとはぐれ、器の力によって強化された僕が敵を打ち倒し、ゴローとやっとこ合流したと思ったら、強くなった僕の姿を見たゴローがまた逃げ出して再度はぐれたこともあった。
 カノンの主導でいかだを組んで大海に乗り出した際には、ゴローが疲れから漕ぐことを拒否し、おうちに帰るの一点張り、挙句の果てには泣き喚き、いい加減トサカにきたカノンがゴローを蹴り落として全力で見捨てようとしたこともあった。
 砂漠では特に散々だった。ゴローが砂漠のど真ん中で脱水症状を起こして倒れ、カノンは「少年のくせに脱水『しょうじょ』とはこれいかに」などとワケの分からないことをのたまった後、残像と蜃気楼を複雑に織り交ぜたステップで彼方へ疾走。僕はゴローを担ぎながら、灼熱の世界でカノンを探して幾砂山野という壮絶な荒行を強いられた。
 過酷なことも少なくない旅のなかでゴローは何度も死にかけ、その度にカノンに見捨てられていた。カノン曰く「ほとんど自業自得だから仕方ない」そうで、その点は僕もよく分かり、同意していた。

「助けて! 死ぬ! 死ぬ! おうちに帰る!」
「カノン、ゴローが死んじゃうよ」
「へーきよ。ゴローは死なないもの」

 これはちょっと分からなかった。
 そんなゴローも、黒苔の森のワームモンと器で結ばれた時を境に徐々に頼もしくなっていった。ワームモンはワムウと名付けられた。
 ワムウは素朴な性格で、同じく素朴なゴローとは相性が良かった。しかしエキセントリックを求めるカノンとは折り合いが悪く、顔を合わせるや否やのスピードで、カノンはワムウを退屈な方に分類したのだった。
 また、ワムウは日を追うごとに人間文化に染まって行く僕が、まるで理解できないようだった。
 それも無理からぬことだったと思う。ワムウと出会った当時、カノンは身体的成長と共に加速度的に多種多様な分野に興味を抱くようになっていた。それに付随する形で僕が触れる人間文化もまた加速度的に増え、我ながら目を見張る速度で人間くさくなっていったからだ。
 カノンから与えられるものも、絵本や小学校のテキストから、ミニカーや漫画、雑誌、小説、ハーモニカ、携帯音楽プレーヤーと次々変遷していった。
 僕にとって特に大きかったのは、漫画や小説、音楽との出会いだった。
 僕から見て漫画や小説に描かれているものは人間の生活や価値観の切り抜きであり、それらに触れ、自分の中で切りぬき同士を関連付けることで、人間の文化や心性を曼荼羅のような図画で総覧しているような気持ちになれた。
 音楽の美しさは、デジモンの僕でも人間と共有できる価値だった。特にカノンコードが用いられている曲は遍く心に響いた。

「ブイタローの好きな曲は、カノンコードが使われてる曲ばかりね」
「カノンコードってなあに?」
「パッヘルベルのカノンで使われてるコードのこと。響きが快くて使いやすいから、バロック時代からずっと使われてるんだって」

 その普遍性が僕にとっても有効だったようである。教わった後、僕はカノンコードの曲をいっそう気に入った。カノンと同じ名前だからだ。
 いつしか音楽は僕の一番好きなものになっていた。カノンと一緒に適当な歌を作って歌うのも大好きだったし、木陰に座ってぼーっと音楽を聴くのは僕の習慣になっていた。
 僕は音楽を聴く時、聴いている音楽以外のことはまるで考えられなくなる。カノンは音楽を聴きながら勉強したり漫画を読んだりもするらしいけれど、僕には到底出来ない芸当だった。音楽が聴こえている間、僕は歩くことも出来ないし、目の前の風景を見ることも出来ない。つまり完全に無防備になるので時には危険な行為でもあったから、ワムウにはやめるよう何度も忠告された。でもやめられなかった。音楽プレーヤーが充電に出される期間を除き、毎日聴いて、毎日ぼーっとした。
 僕がカノンから受けた影響は文化面だけではない。カノンは考え事をする際左手で顎を触り、右手で髪をいじる癖がある。いじられた髪はいじり倒されてどういうわけか最終的には結び目が出来てしまうのが常だった。その癖も僕に伝播したらしく、僕も物思いからフと我に返った時、左手が顎に触れ、どういうわけか尻尾に結び目が出来ていることが間々あった。この癖の頻度は徐々に高くなり、後に「尻尾結び癖」という謎の悪癖となるのであった。
 道中、カノンとゴロー以外の人間に出くわすことも少なくなかった。
 彼らは皆カノンと同じ器を持つ者だった。彼らは気が向いた時にこちらへやって来ては自らの相棒と遊び、冒険という名の散策を繰り広げ、なかには僕らと同じようにアテのない旅の途中だという者達もいた。己のパートナーの強さを競う者も多い。何度か僕らも声を掛けられたことがあって、僕はたまの力比べも悪くはないと思ったのだけれど、カノンは僕が血を流すのを好まなかった。
 僕らに声を掛けてくる者達にはもうひとつのタイプがあった。
 彼らは旅の初期こそ息を潜めていたが、カノンの胸が膨らみ始めた頃から頻繁に現れるようになった。
 同行希望者達である。彼らは皆単数もしくは集団の男であり、皆一様に薄っぺらい笑みを浮かべ、自分達を旅のパーティーに加えることをしつこく勧めてくる。
 しかし彼らの目的がカノンであることは火を見るよりも明らかだった。
 そして明らかだったからこそ、カノンはその手の連中をことごとく一蹴した。

「上段回し蹴りなんていらないわ。金的に一発。これは素敵な女性になるために、謙虚さと同じくらい必要なことね」

 そう、慣用的言い回しではなく、物理的にひと蹴りして退けたのだ。この辺りがカノンのカノンたる所以である。
 僕が彼らとの出会いのなかで気付いたことは、僕らも同じ種の中でそれなりに姿かたちや性格に差異があるけれど、人間のそれは僕らの比ではないということだった。彼らは自ら己の形をいじるのだ。
 特に髪型や服装などは顕著で興味深く、彼らの世界では他の生き物も当たり前のようにする「セックスアピール」という行為から出発し、人間独自の自己表現という目的に帰着するのだけれど、個体によっては出発点を忘れてしまったかのように、セックスアピールからすっかり離れた格好をするものもあるという点が面白かった。
 あまりに強い興味を持ってしまったので、僕は初めて自分からカノンにものを要求した。ファッション雑誌とTシャツとハゲカツラといつものひらひらスカートがほしいと言った僕を見るカノンの目は、驚きと好奇心と謎の嫌悪に満ち満ちていた。
 そういえば、こんなことを尋ねてみたことがある。

「カノンは男の子には興味ないの?」
 人間の男は女に興味があり、その逆もまた然りであるという知識は既にあった。
「あんまりないわ。周りにはカレシ持ちのコもいるけど。私はあんまり」
「どうして?」
「だって男の子って、みんなぎらぎらした変な目で見てくるんだもの。やたらアピールしてきたりして。男の子は男らしさが大事だと思うけど、ああいう男らしさは、いらない」
「じゃあゴローは? ゴローはぎらぎらしてないし、ていうか寧ろへなへなだし、アピールどころか存在感すらないよ」
「ゴローは駄目よ。そういう部分も含めて、男らしさが全部ないもの」
「そもそも男らしさってなに?」

 カノンは暫し考えてから、たぶんゴローにも聞こえるように、ちょっとはっきりした口調でこう言った。

「男の顔をしていることよ」

 理解し難かったけれど、どことなく堂々巡りの感があったので、それ以上きかないことにした。






 自分で言うのもなんだけれど、僕とカノンの関係はとても良好だった。
 それでも喧嘩がまるで無かったわけではない。
 喧嘩するほど仲が良いという言葉があるけれど、その金言に違わず、僕とカノンの仲が深まるほどに、喧嘩は増えていった。
 個々の喧嘩の理由はほとんど覚えていない。
 しかし大まかに捉えるなら、僕らの間で起こったあらゆる喧嘩の原因は、お互いの深奥の部分までを理解出来ていなかったということに尽きるのだろう。
 それは種として、時には個体同士として。
 たとえばカノンは僕が血を流すことを好まない。それは積極的な戦いを良しとしないということであり、正当防衛だとしても極力僕を盾にするような真似はしたくないということでもあった。彼女の主張も分かるのだけれど。

「だって、ブイタローが死んじゃったら嫌だもの」
「そんなこと言ったらゴローの方が何度も死にかけてるよ」
「ゴローはいいのよ」
「どうして?」
「ゴローは死なないもの」

 これはちょっと分からなかった。
 カノンの僕を想ってくれる気持ちは、素直にありがたいと思っていた。
 でも僕には無性に戦いたくなる時があったのだ。
 身を守るためではなく、自分から他の個体に突っかかって力比べをしたくなることがあった。これは意志や理性ではどうしようもない、魂に刻み込まれた本能ってクソなやつのせいだ。
 闘争の前では、それが招き得るどんな恐れだって霞んで見えた。敗北も。傷つくことも。
 誰もが最も恐れる、あの死でさえも。
 僕が死を恐れない第一の理由がそれなのだ。でもそれだけではない。
 これについてはカノンにも原因がある。
 そう言ったら、こんな答えが返って来たものだ。

「死んだら天国に行けるんでしょ。天国はいいところだっていうじゃない。なら死ぬのなんて恐くないよ」

 カノンと出会って知った、天国の存在。それが僕の中の闘争を好む本能に唯一抗し得る、生存本能すらも打ち消していた。

「あのねブイタロー」

 幼子に言い聞かせる口調だと、直感的に思った。

「天国なんて、あるかどうか分からないの。だって確認出来ないからね。でも、あるって思った方が楽なのよ。死ぬってことは、何もかも終わっちゃうってことだもの。自分がまったくの無になっちゃうのって、スゴク恐い。でも、もうすぐ死ぬかもしれないって状況になっても、死んだ後には平穏な世界が待ってると思えたら、不安は減るでしょ? 命の終わりを恐怖と絶望に包まれたまま迎えるほど惨たらしいことはないわ。終わりよければすべて良しなんて、そんなこと思わないけど、でも生きてきてその最期に胸にある感情は、絶対に、絶望よりも希望がいいはずよ。天国は死ぬのが恐いひとのためにあるの」
「じゃあ地獄は?」
「地獄はもうちょっと限定的かしら。地獄はね、良いひとのためにあるの」
「どうして? 地獄は悪いひとが行くんでしょ?」
「悪いことをしたひとは、それが生きてるうちにバレなければ罰を受けないでしょ? でもそういうひとは死んだ後に罰を受けるんだって、スゴク苦しい目にあうんだって思ったら、悪いことをせずに生きてるひとは胸がすっとするから」
「分かった気がする。――でも僕は悪いことっていまいち分からないよ。なんとなく、誰かに迷惑を掛けることだっていうのは知ってるけど」
「そうね。たとえば、嘘つきは閻魔さまに舌を引っこ抜かれるとかいうわね」
「嘘? 嘘は悪いことなの?」
「嘘が全部悪いわけじゃないわ。誰にも迷惑を掛けない嘘や、むしろ誰かを幸せにしてくれる嘘だってあるもの」
「じゃあ嘘はついてもいいんだ」
「そうかもしれない。でもね、ブイタロー。私との間では、出来るだけ嘘をつかないでほしいの。私も嘘はつかないようにするから」
「どうして?」
「だって嘘をつくって、結局隠し事をすることだもの。隠し事は、間柄によっては、ばれてしまうわ。何を隠しているかまでは分からなくとも、何か隠してるなっていうのは、分かるのね。だから隠し事は時に疑いを生むの。そして疑いは憎しみに繋がるから」
「分かった。僕はカノンと憎み合いたくない」
「ありがとう」

 憎しみは争いを生む。でも憎しみのない争いもまた存在する。僕の闘争は全てそうだった。
 そして僕は、カノンがそれを気にくわないと知っているにもかかわらず、自らの闘争欲求をカノンに隠さなかった。
 だってカノンがそれを望んだから。隠し事はしない。主張することでカノンと衝突することは分かり切っていた。でもそれも偏に良好な関係のためなのだと考えた。――でも本当はそれがただの口実で、カノンと、何より自分に対する言い訳なのだという自覚はあった。罪悪感が募った。それでもやめられなかったんだよ。

「ねえ、お願いだからやめて」

 初めの頃のカノンは懇願するように僕に言った。

「またなの? ねえ、どうして分かってくれないの?」

 それがいつしか、責めるような口調になる。

「勝手にすれば。もういいよ」

 旅が終わる頃には、すっかり諦められていた。


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