R2-D2

第三楽章

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r2d2

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 見捨てられたと思った。
 切り捨てられたと思った。
 離れてゆくカノンの心。離れてほしくなかったその心を、僕が自ら突き放した。
 でもカノンにとっては良かったのかもしれない。
 だって、カノンはもうこの世界にも、僕にも興味が無いのだ。
 そのうえ新しい興味の対象を見つけ、その興味を追究するうえで僕は邪魔になる。
 カノンの性質を考えれば、これは当然の帰結なのだ。僕にとっては甚大な損失だけれど、カノンにとってはちょっと予定が早まったに過ぎない。
 そもそもカノンの興味は移ろいやすいものだったのだし。いずれ訪れると決まっていた未来だったのだ。
 カノンを失っただけでも酷い痛手だったのに、そう思うと無性に虚しくなった。
 虚しくなって、悲しくなって、自分が何故こんな思いをしなければならないのかと思うと、いつの日にか抱いたような怒りがふつふつと湧きあがって来る。そうなるともう止まらない。
 空虚な怒りを抱きながら、僕は日々を無為に過ごした。
 ある日、大きな木の下で雨を眺めながら歌っていると、ゴローがやって来た。

「よお、随分寒いな」

 この土地の雨は冷たい。ゴローは半袖半ズボン姿だ。彼らの世界は今、夏なのだ。

「花火でもやろうかと思って来たんだけどな。うちの近所じゃ出来るようなとこなくてさ。ほら、あっちの岩場は草も生えてないからうってつけだと思ったんだけど……この雨じゃ無理だな。この木があっちに生えてればよかったのに。ほれ」
「すごいや、そんなにたくさん持ってきて――でも蚊取り線香はいらないと思う」
「そっか。今の時期こっちには蚊がいないんだ」
「今の時期もクソも、最初っからいないって」

 久々に笑った。この時初めて僕は、今までのゴローの間の抜けたところや情けないところは、いわゆるポーズなのだと知った。ただしどう考えても天然でしかあり得ないものも多分にあったから、それが余計におかしかった。
 ゴローと並んで、暫し歌った。ゴローは僕とカノンが作った適当な歌を覚えていたようだ。ただし彼は音痴だった。これは天然だと思われた。

「なあブイタロー」
「なあに」
「カノンはもう、来ないと思う」

 分かっていたことだった。

「喧嘩したからかな」
「そうだろうな」

 これも分かっていたことだった。

「まあ、それでなくても高校生にもなってデジタルワールドはちょっと……って俺が言うなってはなしだよな」

 独りごちたふうだった。これはちょっと分からなかった。

「なあブイタロー」
「なあに」
「ごめんな」
「なんでゴローが謝るの? 何を謝るの?」
「いや」

 ゴローはいつもとまるで違う顔をしていた。

「俺達は謝らなきゃいけないんだ」

 男の顔だと思った。






 その後もゴローは時々来てくれた。僕が欲しがったものはなんでも持って来てくれた。
 でもカノンは、ゴローの予言と僕の予想に忠実に、二度と僕の前に現れなかった。
 その頃から僕は暦をつけるようになった。特に目的はなく、それ自体が目的だった。何かすることが欲しかったのかもしれない。ゴローがいつか花火をしようとしていたらしい、あの岩場に一日一日を刻みつけた。
 カノンのいない日々が過ぎてゆくのはあまりにも早い。かつてのひと月が十日で過ぎてしまう。
 その早く過ぎ去ってしまう日々の大半を、僕はゴローが新しく携帯音楽プレーヤーに入れてくれた曲を聴いて過ごした。
 イヤホンで聴く音楽は、まるで頭の中で鳴っているかのように聴こえる。けれど、僕にはイヤホンから流れてくる音は聴こえていなかった。
 その頃の僕に聴こえていたのは、カノンと過ごした日々の思い出と彼女への怒りが織りなす、不快でも悪夢的な中毒性を持つカノンコードだけだった。






 そのうちゴローも来なくなった。ゴローは十日に一度程のペースで会いに来てくれていたのだけれど、二十日経っても来ないなと思ったら、遂に一年来なかった。ゴローとは喧嘩もしたことが無いのに、どうしたものかと考えていたら、ある朝からワムウが目を覚まさなくなった。
 そして僕はさとった。その時まで気付かなかったのが不思議なくらいだ。
 今までありがとうゴロー、一人で呟いて、少し泣いた。その後ワムウにもお礼を言って、また少し泣いた。
 その時を境に、ゴローの寿命が尽きるほどの長きに渡って僕の頭の中で流れていたカノンコードが、止んだ。
 自分の泣く声によって掻き消されたのだろうか。あの時、泣いた時の声は、頭の中よりももっとずっと深いところで生まれ、鳴り響いたようだった。
 どこで生まれ、どこで鳴り響いたのか? そんなことはどうでもよかった。
 音楽が聴こえている間、僕は何も出来ないし、考えられない。聴こえている音楽のこと以外は。
 ずっと聴こえていた怒りと寂寞のカノンコードが止んだことによって、僕はやっとものを考えられる状態になった。
 そして分かったのだ。分からないことがあることに。
 別れの際のカノンの言葉には、何を意味しているのか分からない部分があった。その分からない部分によって、彼女が別れを選ぶに至った道筋そのものが分からなくなってしまっている。
 僕は怒ったり嘆いたりするばかりで、カノンの真意を理解出来ていなかった。理解できぬままに怒っていたとは、なんと滑稽なことだろうか。
 分からないことは分かりたい。これはカノンに訓練されて身についた後天的な性質だろうか。それとも僕が生まれ持っていたものだろうか。
 ただの好奇心ではない。
 これは、僕にとって今まで一番大切だった時間が、これからどういうものになるかを左右する大きな問題である。
 分からないまま放っておけば無。虚しさだけが残るだろう。
 分かって得られる結果は果たして、希望か絶望か。もっと良いものかもしれないし、もっと悪いものかもしれない。
 恐れていては始まらない。踏み出さなければ、待っているのはただの無だ。それでは死と同じである。カノンと一緒に過ごした時間が死んでいたのと同じだなんて、絶対に思いたくなかった。
 考えるためには、まずカノンとのあらゆる出来事を、可能な限り順序良く思い出し振り返る必要があった。
 答えがあるとしたらその中にしかないからだ。






 以上で回想は終わりである。振り返ろうと思ったその時まで、振り返り終えた。
 随分時間がかかった。正直言って、思い出せないこともかなりある。思い出の存在自体は覚えているのに、その内容が思い出せないというのはなかなか奇妙な感覚だ。でも不思議ではない。空白を認識することになにもおかしなことはないからだ。
 振り返るのには遅すぎたのかもしれない。僕はもうカノンと一緒にいたころの姿ではない。ワムウが行ってしまった時には既に、僕は魂の経験によって姿を変えていた。振り返るなかでもまた姿が変わった。
 岩場に暦をつけることはとうにやめていた。暦は頭の中にあった。記憶を辿ることに専念するためでもあったけれど、どの道、暦を刻んでいた岩場はもう刻む余地が無くなっていた。決して狭くはない広さがあったのに。
 食事も、もう随分とっていない。一時期空腹も感じたけれど、ちょっと我慢するうちにそんな感覚も消え、空腹であったという記憶も無くなり、食事をとっていないことも忘れ、今や自覚的になって尚、腹は減らない。だからといって意識は確りとし、思考能力も肉体の力も衰えた様子はない。体の作りが変わったせいだろうか。何故僕は今日まで生きながらえているのか――自分が霞を喰って生きていける類の生物になるとは思いもしなかった。
 音楽ももう聴いていない。どのみちゴローが来てくれなくなった時点で、僕が音楽を聴ける環境は遠からず滅んでしまうと決まっていた。
 今や全てが自分の内側にある。外側に干渉する仕事は、記憶を辿る作業の前では何の価値も無かった。だって僕に必要な全てのもの、カノンの残した謎の答えはそこにあると信じているから。
 でも、そう信じて振り返ってはみたものの、これといったものは何も見つからなかった。
 カノンの、あの別れ際の言葉。僕から見て不自然だった言葉。

 ――勘違いしてた。
 ――恐かったの。
 ――これ以上突きつけられたら、耐えられない。
 ――分かろうとしないで――それが何より恐いの。

 これらは何を指しているのか。
 カノンは何を勘違いし、何を突きつけられ、何を恐れたのか。僕は何を分かってはいけなかったというのか。
 それに、嘘というのも気になる。
 カノンは、嘘は憎しみに繋がると僕に説いた。そして皮肉なことに、それは彼女自身の嘘によって実証されてしまった。
 カノンは何故僕に嘘をついたのか。許していないものを、何故許しているなどと言って、その怒りを胸のうちに秘めていたのか。その、秘められたが故に解消されぬ怒りこそが、僕らの間に決定的な溝を作ったのは間違いない。
 カノンが嘘をついた理由は――それこそが僕らの決別の原因なのだ。最低でもそこだけ分かればいい。でも、そこを知ろうと思ったらたぶん、全部を知らなければいけないのだ。
 カノンが決別を選んだ理由、そこに至る過程のすべてを。
 でも、そんなことはどうやって知ればいいのだろうか。
 カノンがある物事をどのように捉え、どういう筋道を辿って物を考える人間なのか、それを知らなければならないのではないか。つまりカノンの価値観を知らなければならない。
 では価値観を知るためにはどうすればよいのか。一番はまず、相手と話し合うことである。でもそれは敵わない。ならば、カノンが今まで経験し、見聞きしたあらゆる物事を知らねばならない。しかしそれでも充分ではない。カノンが生まれつき持っている性質がまず大事である。人間の性格はほとんど遺伝だと聞いたことがある。カノンが生まれ持った方程式。そのなかの記号にあるものが代入された場合、どういう解が得られるのか。ただの数式ではない。得られた解が方程式自体に影響を及ぼす。その変化した方程式に更に新しいものが代入され――気が遠くなりそうだ。
 そもそも僕は、人間の平均的な価値観すら理解出来ていないのかもしれない。更に、カノンの価値観は人間のなかでも特殊な可能性だってある。
 いや、違う。
 価値観に拘っていてはいけない。
 価値観は、ある大きな絵のなかのひとつの模様に過ぎない。仕組みではなく全体の様子を知ることが必要なのである。
 では、その大きな絵とは何なのか。
 たとえどんな方法を取ろうとも、最終的に理解しなければいけないものはひとつだ。なんなら最初から決まっている。
 カノンの心だ。
 カノンの心を知ることが出来ればいいし、知らなければならない。
 相手の心を知る。間柄で起こり得る問題を解決するためには当たり前に必要なことであり、最高に絶望的なことでもある。






 僕はかなり――かなり長い間、ただ打ちひしがれていたようだ。
 気付けば体が芯から冷える感覚があった。
 もうこの土地の気候には慣れたつもりだったけれど、どうやら気候が変わってしまったようだった。
 時の流れと共にあるゆるやかな変化に僕の体が付いていけなくなったのか。或いははるかな時の堆積のなかで時折訪れる大きな変化に出くわしてしまうほど、僕は長く生きたのか。暦の計算があっているなら、答えは火を見るよりも明らかだ。
 長い時を実感して尚、僕は打ちひしがれたままだった。心は弱り果て、やがて悲観と諦観と言い訳だけを繰り返すようになった。
 心を知るためには何を知る必要があるのか、それすらも分からない。求めるところを求めるために求めるも、何を求めていいのか分からないのだ。ゴールが見えないどころか、一つ目のチェックポイントがどこにあって、そのチェックポイントがそもそも何なのかさえ分からない。
 もがいているのに、自分が何の中でもがいているのか分からない。何にしがみつこうとして、何に抗っているのか分からない。
 記憶を辿ることには何の意味も無かったようだ。随分時間を無駄にした。
 諦めたところで誰も僕を責めはしない。いっそ全て忘れて、残り幾ばくも無いかもしれない生を穏やかに過ごした方がいいかもしれない。
 カノンを責める気持ちは無い。彼女のせいではないのだから。これは僕だけの問題だ。だから僕が諦めれば、それだけで決着がつくのだ。
 心を知る方法など、ありはしない。そんな方法があるなら、僕達は決別していないし、コミュニケーションを取れる相手にならどんな誤解も生じないということになる。
 でも現実にはそうなっていない。人間が600万年かかっても出来なかったことである。これを完全に可能とした頭脳は、未だかつて存在しない。
 不可能だ。僕には。多種多様な知が、僕より遥かに優れた知もたくさんあったろうに、そのなかには僕のように、この問題に立ち向かった者もあったろうに。世代を重ね、知を重ねても不可能だったのだ。
 僕では駄目だ。
 こんなことは最初から無理だった。無謀だったのだ。
 心なんて、生で相手と接している時にすら分からないのに。今更分かるわけがない。相手の心を知ることの難しさについては、カノンも言及していたじゃないか。
 そうだ。
 そうじゃないか。
 隣にいる人の心を分かろうとすることは、宇宙の神秘を探ることと同じくらい途方もないことなのだ。
 そして魅力的なのだ。
 それがブイモンなら、尚更だ。
 カノンの言葉である。

 これが真実であり、全てだった。






 まず落ち着かねばならない。落ち着いたら今度は、頭の中を整理しなければならない。
 気付くとは認識だ。認識は理解ではない。理解が大陸だとするならば、認識はほんの流木に過ぎない。放っておけば波に呑まれ、流れに吸い込まれて、海の藻屑となって海底に沈澱し、存在したことすらも忘れ去られてしまう。
 今この時僕の意識の海を漂う流木は一本ではない。僕は流木同士を繋ぎとめ、いつかカノン達とそうしたように筏を組み、荒波を越えて、理解の大陸に接岸しなければならない。
 途方も無い作業である。流木の組み方は決まっていた。各々決まったところにしか収まらず、組み方を間違えるとはじめからやり直さなければならない。正解の設計図は存在しているのに、僕にはその設計図が見えていない。
 手こずっていると、波が立ってきた。感情の波である。不安と絶望が綯い交ぜになった、汚い波だ。波の力は凄まじく、流木はいとも容易く流されてしまう。砕け散ってしまうことさえある。砕け散ったなら、その破片を漏れなく集めてまた元の形に戻さねばならない。砕片の組み方は決まっている。
 流され砕かれるのは流木だけではない。作業をする僕自身もまた。流木を繋ぐロープは僕自身である。ひとたび僕が流されれば、また最初からやり直しだ。この作業に終わりはあるのか。
 この海は宇宙のように限りが無い。
 大陸はどこにあるのか。進むべき方向は見えない。
 夜も昼も無い空はぶ厚い雲に覆われている。風が吹き荒び、降り注ぐ雨は墨汁を混ぜたように黒く、臭う。雷鳴が轟く。稲光は見えないけれど、風と波の音に混じって耳を劈く轟音が空気を震わせるのだ。
 いざ航海となっても脆弱な筏は幾度となく打ち砕かれ、その都度僕は筏を組み直す。ひとつのかけらも欠けてはならない。流されたかけらは探さねばならない。かけらを探すために、時には海に潜る必要もある。海水は雨と同じ色、同じ匂いで、透明度などまるでない。かけらはもがいて探すほかない。冷たい海は、指先はおろか体のあらゆる感覚を奪い、動きを鈍らせる。
 息継ぎをしに海面に顔を出すと、その瞬間に波を被る。波の合間から上手く息継ぎが出来たとしても、雨が口に入る。臭くて、不味い。
 過酷を極める旅。僕の中には、希望だけがあった。
 真実に気付くまでは、この心許ない流木さえも見出せなかった時は、自分がどんな旅をしているのかさえ分からなかった。取り付く島はおろか、この海の広さも、雨の黒さも、風の強さも、全てが無であり、求めるべきものも抗うべきものも認識出来ていなかった。
 この困難は認識の証であり、それ自体が希望なのだ。終わりが到底見えないことには変わりないけれど、それが確実に存在していることは分かるのだ。
 幾千幾万の波を越え、幾億の雨に打たれて。
 希望を求め、希望に抗う。
 自分の命がすり減る音だけ恐れながら。
 歌で恐怖の音を掻き消しながら。
 嗄れる喉を黒い雨で潤しながら。
 僕は理解の大陸へと漕ぎ着けた。






 少しだけ休むことにした。
 本当に、少しだけ。






 カノンは僕の思っていたような人間ではなかった。
 僕の思っていたカノン像とはどういうものだったのか。
 面白いと感じたものを徹底的に愛し、つまらないと感じたものには徹底した無関心を貫く、いわば自らの興味のために生きる人間。
 カノンにとっての第一義とは興味であり、愛や友情といった、人間が通常その根底より求め第一義としているものさえ、興味の次点に甘んじていた。だからこそ幼い頃からいつも一緒にいるゴローに対して愛着のかけらも抱くことがなく、彼の気持ちをまったく無いものと見なして冷たく当たっていたのだ。いや、彼の気持ちを踏まえたうえで尚、ああいった態度を取っていたのだとすら。
 幼いカノンは、この世界と僕らに強い興味を抱いた。
 今まで自分が見たことのあるものがまるで無い、新しいものしかないこの世界は、果たしてカノンにとってどれ程魅力的なものだったろうか。
 カノンは僕に色々なことを教えてくれた。それも何より彼女自身の興味のためだったに違いない。彼女は教師になるのが夢だと言っていた。おそらく出会った頃から、教師になるという明確なビジョンはなくとも、誰かに何かを教えるということにただならぬ興味があって、だからあの時カノンは、打ち解けた僕らに絵本の読み聞かせをした。
 教えるということは普通、それが専門的なことでない限り、自分よりものを知らない相手、年齢が下の相手に対してすることである。当時彼女はまだ幼かった。彼女に妹や弟はいないはずなので、あれがようやく巡り合えた初めてのチャンスだったのではなかろうか。
 そして、その初めてのチャンスで食い付いた僕を気に入り、同時にそれ以降のチャンスでもあると判断して、色々なことを教えてくれたのだ。
 この世界を旅して見聞し、カノンはこの世界を知っていった。この世界にはどういう生き物がいて、どのように暮らし、それを取り巻く世界はどんな形をしているか。分からないことがこの世界への興味であり、それを知ることが欲求を満たすことだった。そしていつしか彼女は知り尽くした。この世界の全てではない。それは僕にだって分からない。でも彼女が知りたがっていたことはもう、全て知ってしまったのだ。 だから旅は終わった。
 そしてこの世界への興味を失ったがため、より多くの相手に教える未来のため、アダチ君への恋心という新たな興味を見つけたカノンは、その生来の性質に忠実に、この世界と僕を切り捨てにかかった。
 あるいは、カノンは僕に対する興味だけはまだ失っていなかったのかもしれない。
 でも、カノンに切り捨てられるかもしれないという僕の不安と予感は二人の間で亀裂となり、帽子の件――更に言えばその仲直りの件が楔となって止めを刺して、修復不可能な巨大な裂け目となってしまった。
 これは僕にしてみれば大いなる痛手である。僕にはカノンと、カノンが齎してくれる世界がすべてだった。
 しかしカノンにとってはどうだろうか。僕を切り捨てるという予定が少し早まったくらいではないだろうか。
 かくしてカノンは、たぶん彼女がそれまでの人生で幾度となくやってきたのと何ら変わりなく、僕とこの世界に別れを告げたのである。

 これが、僕がこれまでに思い描いていたカノンである。これまでずっと。疑いもしなかった。

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