R2-D2

第二楽章

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r2d2

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 旅の終わりは唐突だった。

「もういいよ」

 カノンの興味によって始まった僕らの旅は、彼女が興味を失ったことによって終わった。
 三つの海と七つの山、十二の試練を越えた頃だった。
 カノンの背の伸びはもうほとんど止まっていたけれど、雰囲気は大分変わってきていた。気性はいくらか大人しくなって、いつも熱っぽく新しい物事を探していた瞳はどこか冷めたようになっていた。子供から大人に変わっていく過程なのだろうか。僕らと違って緩やかに変化していくのが興味深かった。しかしそれは同時に、カノンがどこか違った世界に足を踏み入れてしまったようにも見えて、僕にはなんだかそれだけで寂しく思えた。
 ゴローは随分縦長になった。カノンとはまた違った形で雰囲気も変わって、それでも彼女に比べればその変化率は小さく、出会った頃とそう違いはないように見えた。
ワムウは相変わらず素朴なやつだったけれど、僕が人間の文化に興味を持つことに、多少なりとも理解を示してくれるようになった。
 僕らと僕らの世界をあらかた見聞したカノンは、決して満足した様子ではなかった。むしろ不満そうに見えた。退屈そうな顔だった。
 そのことが僕を不安にさせた。






「塾に通うことにしたの。ちょっと遠いところの高校に通いたいから」

 英語を教えてもらっている時だった。カノンらしい理由だと思った。ちょっとでも新しい物事に触れたいのだ。でも同時にカノンらしくない理由だとも思った。カノンは学校なんて行きたくないと、常々そう言っていた。

「学校嫌いのカノンが、学校へ行くために勉強する日が来るとは」
「学校は嫌いではないんだけどね。ただ、ブイタローと遊ぶ時間が惜しかったから。――もしかしたら、将来働くかもしれないところだし」
「どういうこと?」
「私ね、学校の先生になろうと思うの」
「スゴイ! 向いてるよ間違いなく。うん」
「ありがとう。ブイタローが私の最初の生徒ね」
「へへへ」
「それでね、だから、これからは勉強も大切なことになるから、もう毎日は来れないの」
「寂しくなるな」
「だから漫画とか小説とか、たくさん持って来たの。小説はちょっと難しいのもあるけど、へーきかしら」
「ちょっと難しいくらいでちょうどいいよ。辞書もあるし、へーき」
「ここにはもう慣れた?」

 ここというのは、僕の生まれ故郷から遠く離れたこの涼しい土地のことだ。旅の終着地点でもある。僕とワムウはそのまま住みついたのだった。

「僕やワムウにはちょっと寒いかも。でも服があるからへーき。そうそう、ワムウは毛糸の帽子をスゴク気に入ったみたいなんだ。編み物を教えてやったら、自分の糸で何か作り始めるんじゃないかな。ねえ、今度編み物の本も持ってきてよ」
「いいよ。でもワムウの糸は絹みたいだから、毛糸の帽子みたいなのは作れないかもね。それに、あの子には自分でものを作ろうっていう発想すらないんじゃないかしら」
「そうかな。そうだね。自分のために何か作るって、たとえば鳥も巣を作ったりするみたいだけど、人間が特に強く持ってる性質だもんね。人間は絶対に必要とまでいかなくとも、欲しい物はなんでも自分で作るもの。それが当然だっていう、僕の考え方が人間っぽいんだな」
「ブイタローはもう人間と変わらないね」

 その頃の僕は、小説や漫画を通して人間の文化や考え方に触れたせいか、思考回路というか、そこに組み込まれる要素からして、既に人間のそれになっていた。そういう自覚があった。

「でも、そっか、それじゃあ毛糸の帽子はワムウのになったんだね」
「うん。僕だとほら、このぴろぴろの部分が肉厚だから、窮屈なんだよね。あげちゃいけなかった?」
「ううん、いいよ。――でもあげるなら一言ほしかったかも。あれはね、おじいちゃんのだったんだ。頭の毛が無かったからね、寒い日はいつも被ってた」
「そっか」

 おじいちゃん。家族というものが人間にとってどういうものか、あくまで知識としてだけれど、僕は知っていた。基本的には繋がりが強いもののようだけれど、その在りようも多種多様で、しかも僕らには無いものだったし、愛情という人間の根底の部分とも密接に関係しているから、僕にとって最も興味のある部類のものだ。
 そして最も興味のある部類のものというのは、僕にとって、同時に最も理解から遠い部類のものでもあった。僕とカノンは似ていた。

「おじいちゃんのだったから、大切なんだね」
「うん」
「大切だから、勝手に誰かにあげてほしくないんだね」
「そうだよ」
「でも大切なら、ずっと自分で持ってれば良かったのに」
「え?」
「だってそうでしょ? これは僕がもらったものだから、僕の所有物であって、つまりどうしようと僕の勝手じゃない。勝手にしてほしくないような大切なものなら、僕にくれずに、自分で持ってた方がいいのに」
「どうしてそういうこと言うの?」
「え?」
「大切なものだからブイタローにあげたんだよ」

 贈り物というのがどういうものか、僕は理解していたつもりだった。いや、本当に理解していたのだ。ただしそれは、人間がするような人間の理解ではなかった。
 それまで見てきた世界が違えば、今見えている世界も違うのだ。

「理屈がおかしいじゃないか」
「おかしくなんかないよ」

 カノンの表情は怒りと悲しみが入り混じったものに見えた。そして、それを堪えているようにも。怒りはともかく、何故この場面で悲しみの感情が湧きあがって来るのか。その時の僕には分からなかった。

「大切なものなら自分で持ってるべきでしょ。大切なものだから誰かにあげるって、それはおかしいよ。だって僕はぴろぴろが邪魔でその帽子を被らなかったわけだけど、穴を開けてでも被るっていう選択肢もあったわけじゃない。結果的にそうはしなかったけどさ、でも現に無断でワムウにあげるっていう、カノンが嫌がることをしたじゃない。それだけじゃなくて、他にもカノンが嫌がるような扱いをしちゃう可能性は考えられたじゃないか」

 僕も少しおかしかった。例の不安があったから。
 カノンが旅をやめた理由は、この世界とデジモンに対する興味を失ったからだ。それは僕に対しても同じではないのか。彼女は興味を失った物事にはどこまでも冷たい。それは僕に対しても同じではないのか。
 僕は遠からず、カノンに見捨てられてしまうのではないか。彼女はもう会いに来てくれなくなるかもしれない。現に次の興味のために、僕に会いに来る頻度を減らすと言っている――。

「でもブイタローは私のこと、嫌いなわけではないでしょ?」
「当たり前だよ。――ずっと一緒にいたいくらいだよ!」
「だったら、私の嫌がるようなことをするはずないって、普通はそう思うもの。あの帽子がおじいちゃんのだってわざわざ言わなくても、大切にしてくれるはずだって、普通はそう思うじゃない!」
「普通が何かって、僕は分かるよ。分かるから言うけど、自分にとっての普通を押し付けるなよ! どういうことが普通かなんて、人によっても違うじゃない。僕はブイモンなんだから、尚更だよ!」

 そう言った直後、カノンはフと無表情になった。
 表情には感情が現れる。でも表情が無いからと言って、それは感情がゼロだとは限らない。この時のカノンの無表情は、何も考えられない、何も感情が無い状態ではなく、物凄い速さで思考と感情を巡らせて飽和状態になったことの表れに見えた。
 その時の僕は、この時カノンの脳内で巡っているものがなんなのか、分からなかった。分からないということさえ分からなかった。
 そしてカノンは無表情のまま、僕に背中を向けた。

「もういい。今日はもう帰るわ。ばいばい」






 帽子の一件以来、僕に対するカノンの態度は少し変わった。
 今までのカノンは僕に何かを教える際、僕がその物事を完全に理解出来る前提で教えているフシがあった。
 それが、僕が理解出来ないかもしれないという前提で教えるようになったのだ。
 最初は気付かなかった。でも時々カノンが口にするようになった「ブイタローには分からないかもしれないけど」「分かりにくいかもしれないけど」という言葉は、僕に違和感を覚えさせるのには充分だった。
 暗に馬鹿にされているように感じた。
 どうせお前には理解出来ない難しいことだけど、という、棘を含んだ言葉に聞こえたのだ。それが勘に障った。
 何故、僕の勘に障るようなことを言うのか。
 僕は、カノンが帽子の件でまだ怒っているのだと思った。
 大切な帽子を勝手にワムウにあげたことに、まだ腹を立てているのだと。そしてその原因が自分にあるにもかかわらず、あたかも僕がおかしいように仕立てあげて、挙句そもそも大切な帽子を誰かにあげるような真似がおかしいという、至極真っ当な指摘をされたことが悔しかったのだと。だから腹いせにそんな嫌味を言うのだと。

「そのくらい僕だって分かるよ」

 だから、カノンのそんな言葉の端を捕まえてちょっと反抗的になってみせたその直後に、あんな言葉が出てきたのだ。

「ねえ、帽子のこと、まだ怒ってるの?」

 でも僕には、まだ怒っているであろうカノンを非難するつもりはこれっぽっちも無かった。そもそもお前が間違っていたのに、それをまだ僕のせいにしているのかなんて、そんなことを責めるつもりはなかった。そういう気持ちはあったけれど、言葉に乗せたのは、ただ純粋に、以前のような関係に戻りたくて、カノンに機嫌を直してもらいたくて、仲直りがしたくて、彼女がまだ腹を立てているのなら謝ろうと、そう思っていた。
 カノンは僕の目をじっと見つめてきた。
 僕の腹のうちを探るような目ではなかった。
 僕について考えるために、自分の頭の中にある僕を思い浮かべるよりも、直接僕を見ることを選んだような目だった。
 ある物事について考えを巡らせるために思い浮かべるその物事の像は、実際のその物事とは多少なりとも異なってしまう。頭の中に思い浮かべた物事の像には色々な補正が掛かってしまって、実際の物事とはまるで違うものになってしまうことさえあるのだ。それは虚妄と呼ばれるものだ。
 カノンは僕の実相を見極めんとしているようだった。そのために、虚妄になってしまわないように、出来るだけありのままの僕を捉えんとするために、殆ど反射的に僕を見つめた、そんな風だった。

「もういいよ」
「もう怒ってないっていうこと?」
「うん」
「よかった」

 心底安堵して微笑む僕を見つめるカノンの瞳は、きらきら光っていた。






 カノンがこちらの世界へやって来る頻度は目に見えて減っていった。
 二日に一度が三日に一度になり、四日に一度、時には十日以上も姿を見せないこともあった。また、一度に滞在する時間も短くなっていった。
 寂しくはあったけれど、以前のような不安は無かった。ただ単にカノンのいない日々に慣れただけかもしれないし、この一時を我慢すれば、つまりカノンが無事望みの高校へ進学すれば、また以前のように頻繁に会いに来てくれるものだと信じていたからだ。
 どんな学校へ進学するのか、若い時分にどれだけ学力を身につけられるのか、それらが人間の一生において持つ意味の大きさは知っているつもりだった。
 だから今のカノンは、未来の長い時間をより良い物にするために、現在の一時の楽しみを犠牲にすることを選んだのだと僕は理解していた。
 目先の利益に捉われずきっちり天秤にかけるカノンの合理性を支持し、いつかやってくるかつての日々を共に夢見ているという確信を持ち得たからこそ、その時の僕は不平や不満を押し殺すことが出来たのだ。

「最近ね、勉強の息抜きに、ダンスフロアーに通ってるの」
「なあにそれ」
「地下にある暗くて広い部屋でね、そこではね、ド派手な色の照明がめちゃくちゃに光りだすと、音楽がかかるの。耳が痛いくらいの大音量で。英語の歌」
「英語の歌って、ストーンズとかビートルズみたいなの?」
「ううん。ブイタローがまだ聴いたことないような曲だよ。私も、あそこに行くまでは聴いたことなかったし、興味もなかった。でもああいうの、嫌いじゃないな」
「今度聴かせてよ」
「いいよ――それでね、そこでは、音楽がかかるとみんなで踊るの。みんなで同じ踊りをするんだよ。1984年の、ロボットダンス」
「それの何が楽しいの?」
「分からないかなあ」

 こいつが「分からないだろうけど」と言う時と同じ口調で、それがなんだか気に入らなかった。

「それが楽しいんだよ」

 その数日後、カノンはダンスフロアーでかかっていたという曲を聴かせてくれたけれど、僕はあまり好きにはなれなかった。

「僕は好きだけどな勉強。新しいことを覚えられて楽しいし、覚えたことを元にして考えればまた新しいことが分かるし。それでまた楽しいし」
「勉強自体が目的だから楽しいのね。そういう勉強は私も好きだよ。でも今してる勉強はあくまで手段だし、新しいことよりも反復が多いから。退屈」
「ちょっと分からないな」
「ブイタローには分からないかもね」

 僕の嫌いな言い方だ。今現在の僕では――いや、僕では永久に理解出来ないということが前提なのだ。これまで僕は、自分には無かった概念や感情を数え切れないほど理解してきたというのに。きちんと説明してくれたら、きっと僕にも理解出来るはずなのに。
 それでも塾には楽しいこともある、とカノンは言った。

「かっこいい男の子がいるの。アダチ君ていうんだけどね」

 かなり驚いた。カノンが異性に興味を示したのは、僕が知る限りではこれが初めてだったからだ。

「話も合うんだよ。この間、一緒にダンスフロアーにも行ったんだ」

 嫌な気持ちが胸に湧いた。きっとこれが例の嫉妬とかいうクソなやつなんだと思った。
 でも、今になったからこそ分かることだけれど、そうではなかった。
 ただの予感だった。






 カノンが話す向こうの出来事の内容は、かつてに比べてだいぶ限定的になっていた。
 かつては見聞きした物事を出来るだけ全て、興味のあるものも無いものも話してくれるという具合だったのが、その頃にはすっかり、決まった幾つかの物事についての情報が更新されていくだけとなっていた。
 特に多かったのがアダチ君のことだ。
 でも僕はアダチ君に興味が無かった。だから「アダチ君の話はもういいよ」といかにもつまらないといった具合で言ってみたこともあった。
 それでも、カノンのアダチ君話は留まることがなかった。アダチ君は形を変えて、僕らの話の中に登場するようになった。初めはまるで異なった話題で話していたにもかかわらず、紆余曲折を経て最終的にはアダチ君の話題に帰結する。「アダチ君ならどう思うかな」は、僕にとってカノンの発したあらゆる言葉の中で唯一食傷気味になったフレーズだった。
 その頃のカノンにとって僕は最早、何かを教える相手ではなく、自分の話や気持ちを聞いてくれる相手になっていたようだった。
 それまで教わる立場だったということもあったせいか、なんだかようやくカノンに対等な相手として見られるようになった気がして、悪い気はしなかった。
 それ自体悪い気はしなかったのだけれど、アダチ君の話をする時のカノンは僕にとって不快だった。それ自体不快だし、彼に興味が移る一方で――そう、興味とは移るものだ。何処かへ行く時は、それまであった場所には無くなってしまう――僕やこの世界に対する彼女の興味が失われていくように感じられた。その感覚は僕に不安をももたらした。彼女の興味を失ったものに対する態度はよく知っている。僕も遠からずそうなってしまうのではないか。そのうち僕に会いに来てくれなくなってしまうのではないか。
 僕の胸の内で複雑に絡み合う醜いものたちとは対照的に、アダチ君の話をするカノンの目は、いつか一緒に見た夜空に瞬くどの星よりもきらめいていた。
 初めて僕らを見た時のカノン。絵本を開いて見せてくれたカノン。世界を旅するなかで、様々な景色や出来事に胸を躍らせていたカノン。僕に教えてくれたカノン。
 それらのどのカノンよりも、アダチ君の話をするカノンはうつくしかった。
 あんなうつくしい姿の前では、僕がカノンと共有した全ての物事が、何もかも、全ての時間が、何もかも――何もかも、何もかも、色褪せてしまったようだった。
 色褪せてしまったのは、僕の中の思い出ではない。そしてきっと、カノンの中の思い出でもない。
 僕から見たカノンの中の思い出だ。
 僕には、カノンには僕ら二人の思い出よりもアダチ君との日々の方が輝いて見えているに違いないと思えたのだ。これは最早虚妄だ。
 何故カノンは僕の前でアダチ君の話をするのか。僕はアダチ君に興味なんて無いのに。アダチ君に興味を持つ代わりに、僕に興味が無くなっていくんじゃないのか。僕の中の不快と不安は反復と増幅を繰り返し、やがてカノンへの怒りに転嫁された。
 僕は興味が無いと言ったのに。たった一度でも、僕がアダチ君の話を聞きたいと言ったり面白がったりしたことは無いのに。それでもカノンが僕に彼の話をするのは、何故だろうか。
 そこまで考えた時、辿り着くべき答えは一つしかなかった。
 帽子の一件で、カノンは僕を許してはいなかったに違いない。そうとしか思えなかった。
 ちょっとした諍いも含めて最近の喧嘩はあの件しかなかったし、僕の目には彼女がまだ引きずっているように見えたのに、まだ怒っているのかと尋ねた際にあっさり許したことはいかにも不自然だった。
 つまりこれは報復だ。僕が嫌がることを、嫌がると知っていながらするということは、即ち僕を痛めつけることに外ならない。それ以外の効果はどう考えても期待出来ないからだ。許せなかった。
 僕が許せなかったのは、カノンが報復に出たことではない。
 嘘をついたことだ。
 僕が問うた時、「もういいよ」と言っていたのに。それはもう許したということか問えば、「うん」とも。
 あの時正直に気持ちを吐露して、話し合う機会を持ったなら、きっとまた元の関係に戻れたはずなのに。問題を解消する気も無いくせに一方的に報復に出る理不尽さに、僕は怒ったのだった。
 そしてほどなく僕は怒りに支配された。
 一度頭に血が上ってしまうと駄目なのだ。自制心や理性ではどうにも収まりがつかない。種として激情家である僕の、本能とかいうクソなやつのせいだ。
 本能と理性とは馬と騎手のようなもので、平時は騎手が馬を操れるけれど、ひとたび馬がなりふり構わず暴れ出したなら、騎手は抵抗する間もなく振り落とされるしかない。踏みつけられて再起不能になったとしてもなんら不思議ではない。
 騎手は瀕死の重傷だった。そして騎手を振り落とし打ちのめした馬はどこまでも自在に走り回り、走ることで高揚し、また走る。いずれ誰かに当たって踏みつけても不思議ではない。
 まして馬には踏みつけたい対象がいるのだ。そしてそれを阻止し得る者は、もういない。
 馬が踏みつけたがっているのは、カノンだ。
 僕は思ったことを、思ったようにカノンにぶつけた。
 十八回目の「アダチ君ならどう思うかな」を聞いた時だった。

「もう僕のところに来ることなんてないじゃない。ずっとアダチ君といればいいんだよ」

 カノンの相貌が崩れ、いつか見たことのある表情が現われた。最近見た顔のような気がしたけれど、いつだったかは思い出せない。

「ごめんね」
「謝ることないよ。そうしなよ」
「ごめんねブイタロー。私」

 そうするわ、か。もうアダチ君の話はしないわ、か。どちらかだと思った。
僕の予想は外れた。
 代わりに、いつの日か胸に湧き上がった予感が現実のものとなった。

「勘違いしてた」

 何もかもが、崩れ去る時だった。もっとも、その時の僕にはそんなことは分からない。分からないということすら、分からない。

「勘違いしてた。でも、それが勘違いだって、思いたくなかったの。認めたくなかった」

 何もかも、何もかも。

「もう、ここへは来ないわ。ごめんね。本当にごめんなさい。こんなの、私の思い込みかもしれないんだけど、でも、確かめたくなかったの。恐かったから。もうこれ以上突きつけられたら、私はきっと耐えられないから、だから、逃げてた」

 僕は呆けていたんだと思う。何か言った記憶がまるでない。

「逃げるために、嘘もついた」

 カノンは暫し立ちすくむ。

「嘘はつかないようにって、言ったのは私なのに。ごめんね」

 そして僕に歩み寄ろうとして。
 やめた。

「ブイタローには……分からないと、思うけど」

 僕の嫌いな言葉だ。きちんと説明してくれたら分かるかもしれないのに。でも説明出来なかったのは、カノンが恐れていたからだそうだ。――カノンは何を恐れていたというんだ? これこそが、何より大切な気がする。

「もう無理。恐いのに、それに耐えてブイタローと一緒にいることは出来ないよ。――ううん、何のことかなんて、分からなくていいの。お願いだから、分かろうとしないで。それが、私は何より恐いの」

 それとは何だ?
 カノンは背を向けた。カノンがこんな風にそっぽを向いたことは前にもあった。こちらは思い出すまでもない。強く印象に残っている。帽子のことで喧嘩をした時だ。

「じゃあねブイタロー。ばいばい」

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