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ゴミ箱の中の子供達 第25話

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ゴミ箱の中の子供達 第25話




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 通されたシェルターは想像以上に簡素だった。部屋にはスチールパイプ製の二段ベッドが4つも並んでおり、無造作に
枕が置かれたベッドは各段に取り付けられたカーテンがようやくプライバシーを守っている。ベッド以外の家具が存在しない
この場所はまさしく眠るためだけの場所だ。カプセルホテルでももっと手が込んでいるだろう。あくまで緊急用ですから、と
ホリア・シマは引け目がちに言った。ともあれ贅沢を言える身分でもないドラギーチは構うことなくベッドに転がった。
 ベッドに横になると途端に体中から疲労感が押し寄せてきた。だが不思議とドラギーチの目は冴えていた。二段ベッドの
天板を眺めながら、ドラギーチは今の状況についてぼんやりと考える。最初に思ったことは無断外泊をしているという現状だった。
孤児院では外泊する場合、職員に届出をしなければいけない。守らなければ後で叱られたり、小遣いの額が減らされたりと
罰則も存在する。だがこうやって見知らぬベッドの上で考えていると、それは空の向こうの雲の様に、どこか遠い感じがした。
 ここは自分が行きたかったどこかなのだろうか。マフィアの手が届かない場所なのだろうか。自分の考えが認められる場所
なのだろうか。自分の味方がいる場所なのだろうか。自分をここに連れてきたシマという男の顔をドラギーチは思い浮かべる。
やってることは胡散臭いが、人のよさそうな顔をしていた。
 取り留めのないままにドラギーチはこのシェルターについて考え続ける。その思考はやがて現れた睡魔によってゆっくりと
溶けていった。

 微かな雑踏のざわめきでドラギーチは目を覚ました。目を開けるが視界に入る二段ベッドの天板の世界は薄暗い。部屋に
窓がないからだと理解するには寝起きの頭では少々時間を要した。時間と共に精彩を取り戻したドラギーチの思考は壁を
通して伝わる外の喧騒から現在の時間を推し量りにかかった。正確なところはまったくわからなかったが、ラッシュのピークは
過ぎているだろうとドラギーチは思った。普段の生活ならば、既に学校で一時間目を聞いている時間帯だろう。眠りに付いたのが
遅かった訳でもないから、かなり眠ってしまったようだ。なんだかんだで学校も欠席してしまった。そうぼんやりと考えながら
ドラギーチは体を起こす。途端にドラギーチの太股が軋んだ。思わず小さな呻きを上げたドラギーチは太股をさする。昨日の
疾走のせいだろう、太股の筋肉はこれ以上ないほどに凝り固まっていた。ともあれこの薄暗いベッドから出ないことには
何も始まらない。ドラギーチは悲鳴を上げる両脚を床に下ろして、ベッドから抜け出した。


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 部屋の戸を開けた途端、太陽の光がドラギーチの目を刺した。寝室と変わって、扉の先のシェルターの受付には、カウンターの
向こうの事務スペースの窓から日が差し込んでいた。室内を照らす日差しは、予想よりも幾らか高いようだった。事務スペースで
赤いオーバーオールを着た女性事務員とホリア・シマがなにやら歓談している。シマは受付に現れたドラギーチに気づいた風に
顔を向けると、赤いオーバーオールの女性との話を打ち切って、穏やかに微笑みながら歩み寄ってきた。

「おはようございます、良く眠れましたか?」
「ああ」
「それは良かった。申し訳ありませんがここはホテルではありませんので食事の用意等はしておりません。近くにコンビニや
 レストランがございますので、朝食はそちら等でお願いします」
「ああ、構わないけど」

 シマの言葉をドラギーチは軽く流す。寝床があるだけでありがたい状況だったドラギーチにとって食事が出ないことは問題では
なかった。当面の問題はこれからどうするかだった。学校に行く気もなく、さりとて孤児院にも戻る気になれない今、ドラギーチの
予定は真っ白だった。世界とのあらゆる繋がりを断ち切られて自分が宙に浮いているようにドラギーチは思えた。
 さてどうしようか、とドラギーチが考えていると沈黙を破るようにシマが口を開いた。

「よろしければ一緒にお食事でもどうでしょう? この近くにナゴヤ式のモーニングが食べられる喫茶店を知っております。
もちろん、このおいぼれと食事なんてつまらないかもしれませんが」

 微笑んで、シマは提案する。彼に一宿の恩義がある以上、この提案は断りづらい。ドラギーチは複雑な笑みを浮かべながら
首を縦に降った。

「構わないけど」

 ドラギーチが承諾するとシマは破顔した。童心を思わせるようなシマの笑顔。ここまで喜ばれては後には引けない。もうどうにでもなれ。
時間は幾らでもあるんだ。己をが殴り捨ててドラギーチは嬉しそうに先導するシマの後を追う。その道すがら、自暴自棄の末の無我の
境地に至ったドラギーチの頭に小さな疑問が浮かんだ。ナゴヤ式とは何だろう。初めて聞く単語だった。だがその疑問もすぐに放り捨てる。
それもすぐに分かることだ。それに腐っても喫茶店だ。孤児院の食事より不味くはないだろう。


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 シマと共にドラギーチは喫茶店に入った。内装は黒に近い色合いのフローリングにそれに合わせた黒いアンティーク調の机。
壁は下半分か黒くくすませた板が並び、上半分は明るい白い壁紙が張られている。黒と白の二色を基調とした店内はオレンジを
帯びた明かりに照らされて、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。なかなか良さそうな店内だ、とウェイターに席に通される道すがら
ドラギーチは思った。
 壁際のテーブル席に通され、シマ共々腰を下ろしたドラギーチは早速メニューを開く。写真つきで並んだモーニングメニューを見て
ドラギーチはシェルターを出たときから疑問に思っていたナゴヤ式が何か理解した。コーヒーにトーストが付いている。それだけのことで
ドラギーチは幾分拍子抜けした。ただメニューの写真を見るにトーストはかなりの厚切りでボリュームはありそうだった。種類もバターだけの
トーストから、シナモン、ツナ、ハムエッグ等とバリエーションに富んでいる。空腹が少し気になり始めたドラギーチはこの豊かな選択肢に
どれにしようかと贅沢に悩み始めた。しかしその悩みも一つのメニューを見て止まった。視界に入るナゴヤトーストの文字。初めて聞く
料理だった。写真を見ると例によって厚切りのトーストに、黒いベイクドビーンズのようなものが塗られている。このシンプルなナゴヤ式の
朝食でナゴヤトースト。同じナゴヤの名を冠しているだけに、このトーストはナゴヤ式においてかなり重要な位置を占めている様に思えた。
好奇を抱いたドラギーチはこれを機とばかりに朝食をナゴヤトーストに決めたのだった。
 注文も済ませウェイターが去っていくとシマが穏やかに尋ねてきた。

「昨日はよく眠れましたか?」
「ええ、まあ」
「それは良かった。昨日は大分お疲れのようでしたからね。恥ずかしい話ですがここのシェルターは設備がいい訳ではありませんから、
 市民が不自由をしていないか心配でしてね。よろしければ何か気づいた点とかないでしょうか?」
「いえ、特に」

 シマの問いにドラギーチは小さく首を降った。二段ベッドが4つも並んだあの寝室は余りにもチープすぎる。だがそれも売り上げが見込めない
慈善事業ならば仕方のないことなのだろう。そもそもこちらは施しを受ける立場だ。意見なんて言える訳がない。
 それにもう一つ、ドラギーチが思う。孤児院だって差して変わらない、と。高校生に進級した今こそ二人部屋で部屋を広々と使っているが、
小学校低学年時代は八人部屋だった。部屋の両サイドに並んだ4台のベッドは壁に埋め込み式で、シェルターほど安っぽくはない。
だが部屋の家具はそれと勉強用に使用する共同のテーブルくらいで、ベッドの下の収納スペースと、カーテンを閉め切ったベッドの上の
僅かな空間が当時のドラギーチが持てる個人スペースの全てだった。二段ベッドの中のだけの狭いプライベートはドラギーチにとっては
当たり前のことだった。

「そうですか」

 ドラギーチの味気ない返答にシマは気落ちした様子も見せずに言葉を続けた。


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「所で市民はナゴヤトーストを注文されましたね。市民は意外とナゴヤ通なんですか?」

 不敵な笑みを浮かべてシマは言う。自分は何か凄い注文をしたのだろうか。それを否定すべくドラギーチは慌てて首を降った。

「いえ、別にナゴヤ通とかそういうのじゃ……そもそもナゴヤが何か分からないし……」

 しどろもどろで答えるドラギーチに、ふふ、とシマは楽しげに笑った。

「ナゴヤというのは、日本の一部なんですよ」
「ってことはこれも日本食?」

 日本食といえば魚とライスと思っていただけにドラギーチは驚いた。そんなドラギーチにシマは更に楽しげに笑う。

「パンが違いますよ。それにナゴヤトーストは日本などで使われている小倉餡という物を……おや、噂をすればなんとやらですね」

 シマが視線をそらすと、その先でお盆を手にしたウェイターが来るところだった。テーブルの脇に立ったウェイターはまず二人の前にコーヒーを
置いた。続いてシマの前に注文通りのバタートーストを並べ、最後にドラギーチの前に件のナゴヤトーストを滑るように置いた。机に並べた品が
正しいか確認したウェイターは、ごゆっくりお召し上がりください、と言って去っていった。
 いざ現れたナゴヤトーストをドラギーチは注意して検分する。皿に乗った親指の太さを超える厚切りのトーストは程よい狐色に焼かれている。
ナイフが斜めに入り、2つの台形に分割されていた。トーストの真ん中には、さながらパンケーキに乗ったアイスクリームの様に、黒いベイクドビーンズの
ようなものが山を作っている。これが先ほどシマが言いかけた"オグラアン"というものだろうか。これはしょっぱいのだろうか。"オグラアン"の黒の威容に、
味が想像もつかなかった。覚悟の余り生唾を飲み込んで、ドラギーチはナゴヤトーストに手をつけた。トーストの角を掴んでドラギーチはゆっくりと
持ち上げる。トーストの片割れが浮かび上がり、分割線を無視するように盛られていた"オグラアン"が中央から地割れを起こした。崩れ、皿に
こぼれそうになった"オグラアン"をトーストの端ですくい上げて、ドラギーチはその端を恐る恐るかじった。
 始めに感じた味はトーストの香ばしさだった。思い切って咀嚼する。すると、"オグラアン"の味と思しき物がドラギーチの口全体に広がった。
それは甘さだった。砂糖を相当効かせた甘さだ。ドラギーチは思わず目を見張る。甘いが、いや甘くて、美味しい。あのベイクドビーンズを
黒くしたような"オグラアン"は、ベイクドビーンズとはまったく異なる調理方法をされているらしい。砂糖を強く効かせた味に、ふとドラギーチは
思いつくものがあった。ジャムだ。"オグラアン"というのは、とどのつまり豆で作ったジャムなのだ。そしてこの豆のジャムこと"オグラアン"の甘みに、
トーストの香ばしさと、トーストに塗られたバターが素晴らしい程に調和していた。その美味しさにさらに数度咀嚼すると、更に独特の触感が伝わった。
シマはパンが違うと言っていたがその通りで、始めはふんわりとしていたパンは咀嚼を繰り返すと口の中で弾力を帯び始める。トーストといえば、
カリカリに焼いて、さくさくとした触感が当たり前だと思っていたドラギーチにとって、噛めども噛めども口の中で一つにまとまるこの独自の弾力は、
異文化を垣間見て感動に近いものがあった。

「美味しいですか」

 ナゴヤトーストの意外な美味しさにドラギーチが感激しながら頬張っていると、シマが嬉しそうにたずねてきた。ドラギーチは口の中のナゴヤトーストを
飲み干してから答える。

「はい」
「それは良かった。この近くにはナゴヤのラーメン"スガキヤ"が食べられるところがありますから、お昼はどうでしょう」
「ええ、それは是非」

 流石にヌードルはドラギーチも食べたことがあった。だがそれはどれも中国式ばかりだ。"スガキヤ"という言葉は初耳だった。ナゴヤトーストを
味わいながらドラギーチはまだ見ぬ"スガキヤ"について考える。これも甘いのだろうか。この"オグラアン"がたっぷりと乗っているのだろうか。
甘口小倉ラーメン。そんな単語がドラギーチの脳裏をよぎった。もしかしたら更に日本風に抹茶が混ぜられてるかもしれない。甘いヌードルなど
聞いたことがない。だが、甘くともいい塩梅に味付けがされているのだろう。ドラギーチは今日出会ったばかりのナゴヤというブランドを信仰に
近い形で信頼しつつあった。


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 ドラギーチが想像力を働かせていると、シマが話を降ってきた。

「所で市民は何か趣味をされてるんですか」

 自分の趣味の話を振られ、ドラギーチは多少かじった自分のエレキギターを思い浮かべる。中古で買った、赤く、くたびれたギターだ。
買ったばかりの頃は有名バンドを夢見て夜中だろうがかまわずかき鳴らしていた。だが、最近は触るのがどうも億劫で、週に二三度、
体が覚えたコード進行を軽く流すばかりだった。

「音楽を少し」

 ドラギーチも音楽そのものは聞いていた。最近のバンドの流行もチェックはしていた。だが音楽を生産する側から消費する側に、
ただ怠けたいという理由で回った負い目が、ドラギーチの答えを小さくさせた。しかし、引け目がちなドラギーチの答えを構わないとばかりに
シマは楽しげに声を上げる。

「音楽ですか。いいですよね音楽は。ちなみに音楽と言ってもいろいろとありますが、市民はどのような音楽がお好きで?」
「ロックや、ポップスとか」

 この老人にエレキギターなんて騒がしいだけではないか。そう思って、ドラギーチは更に恥ずかしげに答える。だが、シマの笑顔は崩れなかった。

「ロックですか。実は私も若い頃は良く聴いていたものです。私の時代といえばトップナンバースにフリーズルス、そしてなによりフォーリング・ロックス
 ですね。今の方には少々古臭いかもしれませんけども」

 感慨深げにシマはバンドの名前を並べる。どれもロック界に名前を残した往年の名バンドばかりだ。腐ってもロックを志したドラギーが知らないわけが
なかった。

「いえ、知ってます。ロックスと言えばフルネス。確かに時代を感じるけど、当時の、満たされない、っていう思いがひしひしと感じて、好きな曲です」

 フルネスはロックスが初期に作った代表的な歌だ。何度も反復されるギターのコード進行は今でこそ古臭いかもしれない。だがコードに合わせて
ヴォーカルが繰り返す、満たされない、何をやっても満たされない、という叫びにも似た歌声は、歌詞に込められた世界への不満を痛切に印象付ける。
一時期音楽論をこじらせて、現代の音楽は総じて価値がないとこき下ろし、古い時代の音楽に没頭していた頃のドラギーチが、当時の持論を
固めるかのように何度も何度も繰り返し聞いていた曲だった。

「おや、今の方でロックスをご存知とは。市民は随分と音楽に精通なさってるのですね。歳を取るとどうしても新しいものについていけなくなって
 しまいますし、よろしければ最近のバンドでいくつか市民の卓識を聞かせてもらえませんか」

 とどのつまり、お勧めを教えてくれ、というシマの提案する。彼なりに音楽を愛し、音楽についての独自の意見を曲がりなりにも持っていたドラギーチが
それを断るはずがなかった。

「そうだな、最近のバンドといってもいろいろとあるけど……」

 空を見つめて、ドラギーチは思案する。ドラギーチの頭に浮かぶメジャーやインディーズを問わないバンドの数々。ドラギーチにはメジャーよりも
インディーズの方が一家言あるのだが、インディーズだけにバンドもどうしてもマニア受けの感があった。相手はロックの一線を追うことを止めて
久しい人間だ。ここは王道を勧めるべきだろう。


25-6/8

「サマルカンド、かな」

 ようやくドラギーチが一つのバンドの名前を挙げる。するとその名前に何か覚えがあるのかシマは記憶を探るように視線を空に逸らした。
それもそうだとドラギーチは考える。このバンドは現在のメジャーにおいてトップに君臨する超有名バンドだからだ。

「聞いたことがあります」
「今一番流行ってるバンドだから聞いたことがあるはず。ギターのコード進行がしっかりしていて、メロディラインが綺麗な、正統派のロックバンドなんだ」
「ほうほう」

 ドラギーチの言葉をシマは興味深げに相槌を打った。熱心に話を聴いてくれている。そう思うとドラギーチの舌は良く回った。

「サマルカンドはいい曲ばかり出してるけど、人に進めるならならステイアライブ。辛いことから目をそらして、ただ楽観的に生き続ける、っていう思いを
 バラードにした曲なんだ。全体はしっとりと切ない感じだけど、ドラムが効いていて、力強さも感じるんだ。ギターとベースも綺麗で、二つがいい感じに
 重なり合って、本当に切ないハーモニーを聞かせてくれるんだ。そしてヴォーカル。ヴォーカルのヴィリー・ガラゲルの声がほんとにマッチしてて、
 メロディに沿った切ない声なんだけど、それでいてこの歌の主題の、それでも生き続けるんだ、っていう力強い響きがあって、ほんといい声なんだ」
「そんなにいい歌なんですか。知らなかったのが少々恥ずかしくなりますね」

 音楽に関して蓄積していただけに、ドラギーチの口はもう止まらなかった。

「そもそもサマルカンドはガラゲル兄弟のすごく挑戦的な発言で勘違いされてるところも多いけど、音楽はしっかりと作りこまれていて、単純な
 ぶっ壊すだけのロックばかりじゃなく、ステイアライブみたいなバラードやポップスまで作れる一流のミュージシャンなんだ。ヴォーカルの
 ヴィリーもギターのノエルも技術は一流だし、歌詞も苦しさとか、なんか、生きるうえでのもやもや、みたいなのを凄く繊細な感じに書いてるし、
 メロディも主題に完全にはまった最高なのを作ってる。いろいろと悪いことも言われてるけども、でも、トップになるだけのほんと凄い力を
 持ったバンドなんだ」
「市民の言葉を聞くと、実にロックですね。昔のロックスを思い出します」
「そう、ロックスみたいにいろいろな面でロックなんだけど、音楽は正統派。今のバンドなら断然サマルカンド」
「市民の一押し、というものですかね。今度聞いてみたいと思います。他にはありますか?」
「そうだな、サマルカンドに並ぶバンドといったら、サマルカンドに名指しでライバル視されたシーモアかな」
「ほう、そのシーモアとはどいうバンドでしょうか」
「代表的な曲と言うと……」

 シマに促されて、ドラギーチの舌は良く回った。突いて出る言葉は長年ドラギーチがため続けた音楽に関する評論だ。それを吐き出すのは
この上ないほどに心地よかった。既にテーブルの上のトーストとコーヒーは冷めてしまっていたが、それすらも構わないほど、言葉はいくらでも
出てきた。だが、溢れる思考の言語化に忙殺されていた脳が、代表作の選考で小休止したとき、今までずっと黙殺されてきた別の思考回路が
その側面を突いた。全ての思考が停止して、ドラギーチは気づく、自分は大切なことを言っていない。こんな肥大化したバンド評などどうでも良いと
思えるほどに重要な事を。


25-7/8

「……聞かないのかよ」

 つい先ほどまでの楽しげな空気を消し去って、真剣な声でドラギーチは言った。シマの眉が困惑したかのように上がる。

「俺が家出した理由を、あんたは聞かないのかよ。理由も聞かないで泊める所まで用意して、それでいいのかよ」

 シマはドラギーチに一宿の施しを与えた。なればこそ、ドラギーチはシマに己が施しを受けるに足りると説明する義務があり、
シマには説明を受ける権利がある筈だ。いや、シマが持つ権利も義務だ。困窮してる者とそうでない者を選り分けるのは施しを
与える側の義務だ。でなければ施しはただの散財に成り下がり、撒き散らされた富は狡猾な者が残らず食い尽くして、真に
助けを必要としている者に届かなくなるからだ。だがシマはその義務を履行しようとしなかった。シェルターにドラギーチを
泊めるときは何も聞かずにベッドまで案内した。喫茶店で会話の機会を手にしても、下らない音楽談義に花を咲かすだけだった。
ドラギーチの内実を掘り返す気をシマは一分も見せない事。それが説明する義務を持つドラギーチには居心地が悪く感じた。
 いつの間か落ちた視線の端にシマのコーヒーカップを収めて、ドラギーチは問い詰める。答えはすぐに返ってきた。

「そんなことですか」

 ドラギーチの問いをまるで些末だと言わんばかりに、シマは切り捨てる。ドラギーチの視界の端のコーヒーカップが持ち上がり、
同時にドラギーチの視線も持ち上がった。絶句するドラギーチの視線の先で、シマは涼しい顔でコーヒーを啜る。二人の間に
降りしきる沈黙を楽しむように、カップを傾けるシマの手はゆるやかだ。注視するドラギーチをもったい付けるように、やっと
カップから唇を離したシマの顔は、出会ったときと変わらぬ穏やかな微笑だった。

「市民は言いたいのですか?」

 シマの言葉の向こうで、カップがソーサーに座る音を立てた。


25-8/8

「自分が家出したその訳をお話したいと、そう思っていらっしゃるのですか?」

 切り返すシマの言葉にドラギーチは言葉を詰まらせる。理由を話すつもりはなかったからだ。ドラギーチが家出した理由。
闇夜をたった独りで駆けてまで抜け出したかった物。それは孤児院の暗部だった。マフィアの手駒の生産施設と言う孤児院の影。
それを白日の下に晒す事など出来るわけがなかった。
 押し黙るドラギーチにシマは続ける。

「家庭の事情と言うのは、とても難しくて、繊細です。無理に触ればたちまち砕けて、誰もを傷つけてしまいます。だからこそ、
 市民が言いたくないのでしたらば言わなくていいんです。いつか市民が話す気になれた時、その時に話していただければ、
 それでいいんです。ですので、その日が来るまでは家庭の事情なんて忘れて、楽しく語り合いませんか? その方がずっと
 ずっと幸福ではありませんか?」

 シマの問いかけにドラギーチはまた答えられなかった。答えに相当する言葉がドラギーチには思いつかなかった。シマの言葉は、
世に関する問題に対しての、一つの答えなのだろう。頑なに閉ざされた個人の事情を下らない老婆心で暴いても、それはただ
当人を辱めるだけで終わる。告白と言うのは当人からすれば己の恥部を晒すことであり、それを強いるのは当人にとって屈辱に
他ならないのだ。そして当人達を陵辱をする彼らは、善意という免罪符をもって自分が正義の側だと主張する。あまつさえ、
その拷問に耐えて口を閉ざすものに対しては善意を踏みにじる人でなしだと罵るのだ。当人達が恥辱に耐え忍んでいるのに対し、
罵り声を上げる彼らの胸中はさぞ心地よいことだろう。相談事になったときから当人と彼らの間の対等関係は失われ、当人達は
教えを請う憐れな信者と成り下がり、彼らは当人の問題をたちどころに解決する救世主の皮を被れるのだから。被れるのは所詮
皮だけで、彼らの言葉が悪魔の囁きである事に変わりはないのに。だからこそ世間はお節介になり、世間は要らぬ親切心で
溢れかえる。その善意の心で憐れな迷い人を地獄へと突き落とすのだ。この、世の不条理を理解しているからこそ、シマは
その善意を振りかざさないのだろう。問題は当人達は恥ずかしくなくなる程に形を変えるまで時を待つのだろう。当人達が進んで
悩みを打ち明けたとき、二人は救世主と信者と言う格差のある関係から、大切なパートナーとして対等な立場に立てるのだから。
それこそが、本当の慮りなのだろう。シマの誠意を感じたドラギーチは言葉の代わりに、小さく頷いた。
 首を縦に降ったドラギーチに満足げに微笑んだシマは、付け加えるように口を開いた。

「それと、それでも忠告させていただけるのでしたらば、1つ。人は過ちを犯すものです。市民が間違っている可能性はありますが、
 一方で周りの世界もまた間違っている事もあります。自分ばかりを責めるものではありません」

 シマの言葉がドラギーチの心に突き刺さった。世界に裏切られ、世界を敵だと思ったドラギーチにとって、世界の方が間違っているという
シマの言葉はもっとも欲した自己肯定の言葉だったからだ。世界の間違いを認められることで、ドラギーチは自分が受け入れられたかの様に
思えた。そもそもシマは宗教家だ。世界が間違っていると吹聴する事こそ、彼らの本分なのかもしれない。肝心のシマの宗教をドラギーチは
まだ聞いていない。それはもしかしたらドラギーチの信仰とはかけ離れたものかもしれない。それでもドラギーチは思う。彼の言葉を信じても
いいかもしれない、と。なぜならここに仲間がいるのだから。


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