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「図書室」、「未熟者」、「味」④

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「図書館」、「未熟者」、「味」④




664 名前:「図書室」「未熟者」「味」 1/3:2009/02/03(火) 07:07:02 ID:n6+tDtb3


その日の午後、私は馴染み客のF氏から電話を受けた。
曰く、「蔵書をいくらか引き取ってほしい」とのこと。
F氏は、その道には知られた稀覯本のコレクターである。
彼の屋敷には、彼のコレクションのために特別にしつらえた一室があり、
古書を生業とするものなら垂涎ものの奇書・珍書がひしめいているのだ。
譲られることになる品への期待は勿論だが、
ことのついでになかなかの眼福も得られるかも知れぬ。
私は、身支度もそこそこに、店先に「臨時休業」の札をかけると、
いそいそと彼の屋敷へ向かった。


「それでは、こちらのお値段でいかがでしょうか。」
引き入れられたのは応接室だった。
私は広げられた蔵書を丁寧に調べると申し出た。
「ああ、そうだね」
F氏は金額を一瞥すると、さほど興味もなさそうに答えた。
「今度、以前お探しとうかがった戯曲集の中巻が手に入りそうなのですよ。
 よろしければ是非お持ちしますが」
「ああ、そうだね」
F氏はまた、上の空の調子で答えた。
「しかし、いつもながら素晴らしい蔵書です。」
私は彼の様子にいくらかいぶかしいものを感じながら、応接室の書棚を見渡し水を向けた。
「そうそう、以前見せていただいたエクトーレ全集の初版、
 あれは素晴らしかった。是非もう一度拝見したいものです」
私はちらり、とF氏の表情を伺う。
「それは、図書室に入れてあるのだ。」
……それでは、図書室へ。
そう導かれる事を半ば期待しての言葉だったが、F氏の言葉は途切れたままだった。
私はひそかにため息をつくと、手荷物にまとめた本を脇に携え立ち上がった。
「それでは、良い品をありがとうございました。
 またお売りいただける品などありましたらお呼びください。」
一礼をして部屋を辞去しようと扉へ歩を進めかけたとき、
それまで心ここにあらずの風情だったF氏が、ふと首を巡らせた。
「ねえ、君。」
「はい。」
「近々、蔵書を処分しようかと思うんだ。」
「と、言いますと」
「全て。」
私は思わず、F氏の顔をまじまじと見つめた。
「全て、ですか。」
「ああ。」
予想外の申し出に、私が接ぐ言葉を失っていると、F氏は言った。
「いや、全てとは言えないな。君の期待には添えまい。どれだけが残るものやら」
「……何か、ご事情があるのですか。」
私が問うと、F氏はきゅ、と眉根を寄せた。
「正直、どうしたものかと思っているのだ。」
F氏は、組んだ手の上に頤を乗せる。
「近頃、私の図書室に、妙なものが棲み付いたのだ」
F氏は、言葉を切った。
「困ったことに、あれは」
ほう、と息をつく。
「本を、食うのだ。」


665 名前:「図書室」「未熟者」「味」 2/3:2009/02/03(火) 07:07:43 ID:n6+tDtb3
暗い廊下を進み、F氏はひとつの扉の前で立ち止まった。
「静かに」
彼が音を立てずに扉を細く開いた。手招きされて、私はその隙間へと顔を近づけた。
鼻腔をくすぐるのは、身になじんだ古書の匂いだ。ぼんやりとした灯りに照らされて中の様子が見える。
天井までの据付けになった梯子つきの書棚が列を成している。
以前この部屋に招かれたときの記憶にあった一分の隙もない書棚は、しかし今、あちこち抜けが出来ていた。
手当たり次第に抜いた本を積み上げたのだろう、床は高低さまざまな塔が形成されている。
本の山にうずもれるように、一脚の椅子が見えた。腰掛ける人影が身じろぎをする。
暗色の上着の背中ごしに、ちらりと紙の白が翻るのが見えた。本を、読んでいるものらしい。
「聞こえるかい。」
そう囁かれて、私はようやく、先ほどから聞こえていたはずの音に気付いた。
低く、またしわがれたように高く。奇妙に上下する音は、室内で本を読む人物から漏れてくるのだった。
時折、ひきつるように息を呑み、すする水音が入る。
「ああして、泣くのだ。泣きながら、本を読む」
むせび泣く声がひときわ大きくなった。流れる涙をぬぐう腕が、袖口からのぞいた。
白い毛に覆われた腕が、そして横顔が見えた。その姿は獣だった。

「あれは」
「ありていに言えば、山羊なのだ」
「山羊、」
私が聞き返すと、F氏は頷いた。
「最初は、ほんの小さな山羊だった。ある日、この図書室に現れたのだ。二ヶ月前になる」
部屋の薄暗がりの中、その白は自ら発光しているようだった、という。
その山羊は読書用の足休めの上に立ち、口を動かしていた。
「食っていたのだ、本を。ダルゴーの評論集だった」
その場面を思い出したのか、F氏は一瞬渋い顔をした。
「それは、また」
「私は当然、つまみ出そうと近付いた。すると」
喋ったのだ、という。
「ここはどこだ、と、幼い声で」
「私の図書室だと答えた。すると、泣き出したのだ。帰りたいと言って。母が恋しいと」

ほとほとと涙を落とす様子があまりに寄る辺なく、気の毒に思ったF氏は小山羊に尋ねた。
「どこに帰るというのだ。」
「かあさまの匂いのする扉がたくさんあるのに、どれを選べばいいのかわからないの」
扉、とは本のことであろうと見当をつけたF氏は、書棚から別の一冊を引き出し山羊に与えた。
山羊はためらいがちに本に鼻を近づけると、やわらかそうな頁をむしり、と口に含んだ。
「かあさま、かあさま。」
山羊は、咀嚼しながら、再び大粒の涙を流しはじめ、母を呼んだ。

「そして泣くのだ。帰れない、これは違うと言って。」
F氏は淡々と続けた。
「排泄はしない。ただ、日に日に大きくなった。本を食べて」
「ある日、二本足で立つようになった。語彙も豊富になり、泣かずに会話が出来る日もあるようになった」
図書室からは一歩も出ずに、奇妙な飼育は続いた。
日々人臭さが増してくる山羊に、試しに上着を与えてみると、喜んで羽織った。
「あるときから、本を食べなくなった。『読んでいる』ように見えた」
「しかし違ったのだ。あれは文字を『呑む』ようになった。」
山羊が「読んだ」本からは文字や図の一切が消えていた。残るのは幾冊もの白紙の本。
「やがて体の成長は止まった。そして、みるみる年老いていったのだ。」
F氏は、ふつりと言葉を切った。
「鼻が利かなくなった、とこぼしていた。」

「本当はもう、母の匂いもおぼろげにしか思い出せないのです。」
ある日山羊は、F氏にそう言い、自嘲したような笑みを漏らしたのだという。
「私は、もう国には帰れないでしょう。きっと……もう既に食べてしまったのです。
 私は帰る道を探すうち、いつしか本というものの、
 ひとつとして同じもののない、目くるめく味の虜になった。
 そして夢中になるうちに、帰る道すら食いつぶしてしまったのだと、思うのです」
そうして山羊は、深々とF氏に向かって頭を下げた。あなたには大変申し訳ないことをした、と。


666 名前:「図書室」「未熟者」「味」 3/3:2009/02/03(火) 07:08:18 ID:n6+tDtb3
「おそらく、あれはもう長くないのだ」
F氏は、そっと図書室の扉を閉めると言った。
「私と言葉を交わすこともなくなった。
 ただ、ああしてひとりでこっそりと泣くのだ。本を読みながら。ここに現れた頃と同じように」

「……なぜ私に、この話を。」
「さてね」
私の問いかけにに、F氏は考えるような仕草をしてみせた。
「私はね。正直、自分のことをいっぱしの収集家で、愛好家だと思っていたんだ。
 人々の思考、知識の殿堂。本というもののすばらしさに心酔していた。
 本の世界にこそ無限の宇宙が広がっていると」
彼は一旦言葉を切り、は、はと声を出して笑った。
「それがどうだ。あれに出会って……全てがどうでもよくなった。
 世界のあらゆる知識も、あらゆる物語も、全てが。」
「 …… 」
「君を呼んだのは、私の中に残った未熟な収集家としてのせめてもの良心、といったところか。」
「しかし、」
「そして、観察者として。」
F氏は、私の目を見て言った。
「私は、この先一生涯読み返すであろう、私だけの物語を手に入れようとしている。
 けれどね、どんな物語にも頁を繰る者、観察者が必要だよ。そうは思わないかい、君」
私は、返すべき言葉を見つけられないまま、F氏の瞳が妙にきらめくのを見ていた。
「そのときが来たなら、また連絡を入れよう。」
F氏はそう言うと、ゆっくりきびすを返した。






あの屋敷から戻った私は、あの場で過ごした
歪んだ夢のようなひと時を、何度も思い返した。
扉の隙間から垣間見たあの山羊は、「本物」だったのか?

ひと月が経ち、ふた月が経った。
やがて、それを思うたびに感じていた奇妙な焦燥感も薄れてゆき
脳裏にこびりついたかすかな不安感を残すだけとなり。

あれから、2年が経とうとしている。
F氏からの連絡は、絶えて無い。


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