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「三番アイアン」、「リモコン」、「祭」

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「三番アイアン」、「リモコン」、「祭」


292 名前:ワックス・三番アイアン・リモコン 1 ◆16Rf2BBdUE [sage] 投稿日:2008/11/18(火) 05:26:10 ID:9kkgyE/G

一ヵ月くらい前から、わたしの家にはいやなにおいが立ちこめている。
胸にくるような、鼻の内をぬるりと撫でるような、どうしようもなく人工的で、嫌味なにおいだ。
においの原因は知っている。しかし、どうすることもできない。ただ、待つだけ。いつかくる解放を、三月二十八日を――
なんて、理不尽な苦痛なんだろう?
わたしは鼻面に険悪な皺を寄せて、鼻の粘膜に残るいやな臭いを追い払うように、鼻息を吹いた。
もちろん、これでどうにかなるわけではない。息を吐けばどうしたって、この茶の間にいるかぎりは、この空気を吸わなければならないのだ。くまなく例の臭いで味付けされた、汚れた空気を。
「……アケミちゃん?」
不意にかけられた中年男の猫なで声に、わたしはおざなりに返事をした。
「なにか……気分が悪そうだね」
「いいえ」
音をひとつひとつ区切るように答えて、わたしは空騒ぎを続ける夕刻のテレビへ視線をやった。
夕食をとっている。家族の楽しい一家団欒の時間。そのはずの時間。だというのに、わたしと母の間に割り込むように居座っているこの男は、いったい何だというのだろう?
――白々しく問い掛けたところで、目の前の現実は変わらない。
この男は、母の再婚相手。わたしの父。紛れもないわたしの家族。


293 名前:ワックス・三番アイアン・リモコン 2 ◆16Rf2BBdUE [sage] 投稿日:2008/11/18(火) 05:28:18 ID:9kkgyE/G

わたしは横目に、男の頭へ視線をやった。
50近い男の寒々しい頭頂部そのものよりも、それを覆い隠そうと躍起になって寄せ集めたらしい薄く惨めな髪の様子が、苛立たしいほどに見苦しい。
とにかく、ヘアワックスをつかい過ぎだった。広すぎる哀れな額がぎとぎとに油光りして、家中に安っぽい臭いが立ちこめるくらいまでヘアワックスを塗りたくる50がらみの男を、わたしはどうしても受け入れられなかった。
「アケミ」
母が、責めるようにわたしを呼んだ。
「お父さんがお話ししているでしょう」
無視したつもりはなかったが、うっかり聞き流していたらしい。わたしは男に視線をやり、軽くあごをしゃくってことばをうながした。
「……あ。だからね、アケミちゃん」
わたしの苛立ちがわずかに眉間のあたりに現れるくらいの時間をおいてから、男は半開きの口を慌てて動かす。
「今度の日曜日、ひまかな? お父さんといっしょに、どこか行こうか。車、出すよ」
「……」
冗談じゃない、と答えるべきか、前向きに善処します、とお茶を濁すかで、しばし迷う。
その沈黙を勘違いしたらしく、男はだらしない口元にぶよぶよした微笑を浮かべた。
「ゴルフ、知ってるかな? お父さんうまいんだ、少しなら教えられるよ」
「うふ、新しいクラブも買ったことだしね?」
母の少しいたずらっぽい、なんというか春めいた口調が、いやに耳に障った。
父と――わたしが中学校に入学すると同時に亡くなった父と同じようにこの男を扱う母が、わたしはたまらなく嫌になっていた。
大好きだった。そのはずだった。母も、この家も、私の家族も。
全部、嫌いになってしまった。家に立ちこめる強烈なヘアワックスの臭いが、わたしの大事なものをすべて汚したのだ。
「……気持ち悪い」
小さく、呻く。
あ、とつぶやいて、男はテレビのチャンネルを変えた。『世界の衝撃映像100連発』が、『劇的!ビフォーアフター』に切り替わる。
「た、たしかに、ごはんどきに見るモノじゃあなかったね」
わたしは視線を落とした。
愛想笑いと共に言う男の手には、10年くらいこの家にある、あちこち文字のはげ落ちたリモコンが握られている。
夕食時のチャンネル権は、父のものだった。
父の死後は、わたしにあった――母はあまりテレビを見ない人だからだ。
それが、いまはこの男にわたっている。
不愉快だった。
わたしはまだ受け入れていない。認めていない。その気もない。永遠にない。
だというのにこの男は。なにを平然と、そこに座っているのだ? なぜ猫なで声でわたしを誘うのだ? どうすれば――
「あ、ああ、無理かな、ゴルフ。受験勉強、いそがしいよね。無理かな」
どもり気味に言う男におざなりにうなずき、わたしは箸を置く。
(どうすれば――)
「ごちそうさまでした」
(この家を、わたしの家族を、元どおりにできるのだ?)
いくら考えたところで、とうていできっこない――そんなことはわかっていた。修理できないものは、もう捨てるしかないのだ。
胃を締めあげるようなワックスの臭いが、食後の鼻にずるずると這い込んだ。



294 名前:ワックス・三番アイアン・リモコン 3 ◆16Rf2BBdUE [sage] 投稿日:2008/11/18(火) 05:30:28 ID:9kkgyE/G


『三月二十八日までの辛抱だ!』
朝、中学校の制服に着替えるとき、わたしはいつも自分にそう言い聞かせる。
わたしの志望校は本州の進学校だ。寮もある。合格しさえすれば、入寮は三月二十八日から。
その日から、わたしは、この忌まわしい家のある九州を出て、ひたすら勉強だけをしていればよくなるのだ。
夢のような話だが、夢で終わらせるつもりはない。だから、この『呪文』を唱えれば、ヘアワックスの臭いでよどんだわたしの部屋にも、一陣の清涼な風が差し込んでくるような気分になれる。
今日は日曜だ。予備校の自習室は7時20分から開放される。
参考書と筆記用具をチェックしなおしてカバンに詰め、単語帳とハンカチとティッシュをポケットに入れる。
鏡に向かって、自分の顔を確かめる。見慣れた顔。幸いなことに父に似て通った鼻筋と、これも幸いなことに母に似てぱっちりと開いた目。
少しだけ、笑顔をつくる。顔がくしゃっとつぶれて目尻に三本のしわができるこの表情は、我ながらあまり美しくないのだが――父にそっくりだから、気に入っていた。
梳いた髪にほつれがないか、部屋に差し込む朝日にすかして確かめる。
今日も、とりあえず異状なしだ。肺に忍び込むよどんだ空気のことはつとめて考えず、わたしはカバンをとって、部屋を出た。
部屋のドアが背後で閉まるのと重なるように、耳障りな中年男の声が聞こえる。

……かし、アケミちゃんの……
……大丈夫なの?

声は、母の寝室から聞こえた。母とあの男が、こんな朝早くの寝室で、なにごとかを囁きあっている。
むかでの交尾を見るような不快さと、手がつけられないくらいまで進行した虫歯の穴を覗き込むような好奇心が、汚れた胸のうちでぞわぞわとからまりあった。
立ち止まって、耳を澄ます。

……大丈夫さ。栄転だよ。S市支店の規模はウチの社でもトップなんだ。
……そんな遠くに引っ越すなんて、大変じゃないかしら。今から準備したほうが……

S市。
心臓が、止まった。
S市。S市!
わたしの志望校がある場所だ。本州の、はるか遠くの、あの男がいないはずの!


295 名前:ワックス・三番アイアン・リモコン 4 ◆16Rf2BBdUE [sage] 投稿日:2008/11/18(火) 05:36:41 ID:9kkgyE/G

……アケミちゃんのためだからね。ああ、万が一落ちちゃったら、蹴る用意はできてるんだ。
……あなたったら……そこまでしなくってもよかったのに。
……折角できた家族だからね。ばらばらにはなりたくない――

頭が真っ白になっていた。
聞いていられなかった。
聞きたくなかった。
忘れたかった。
消えたかった。
「あ……ああう」
変な呻き声が、喉から漏れる。カバンの重さにふらつきながら、わたしは玄関へ向かう。
逃げられない。離れられない。家族だから。父だから。娘だから。
(そんな……)
そんな。このいやな臭いを吸い続けなければならないなんて。あのいやな中年男の手にリモコンを委ね続けなければならないなんて。そんな。
(そんなこと、許されるはずが――)
玄関にたどりついた。よろめきながら靴をはく。
(何かあるはず。どうにかできるはず。どうにか)
焦っていた。靴ひもさえうまく扱えず、何度か蝶々結びをほどいてはまた結ぶ。
(……)
ふと、手が止まった。
玄関脇に、大きなゴルフバッグが立て掛けられている。
あの男のものだ。
靴ひものほどけたスニーカーをひきずって、それに近寄る。
あの男のものだけあって、強烈な例のにおいが染み付いている。鼻をつまみたくなりながら、わたしはバッグのファスナーを下ろした。
じゃら、と金属質の音が鳴り、中に詰められた数本のゴルフクラブが顔を出す。
あの男が居座る家に帰ってきて、あの男の臭いをかいで、あの男の声を聞き、場合によってはあの男に笑いかけることさえしなければならない。
そんな生活から、そんな毎日から、わたしが――非力な女子中学生である佐渡明美が抜け出すことのできる、たったひとつの方法。
(つまるところ……)
クラブのなかでもひときわ新しい、傷のないものを、両手にしっかりと握り締める。
(これしかない)
傷のないもの。
男の頭が完全に潰れるまで、曲がらずに使えそうなもの――
そう、これしかないのだ。
わたしは笑った。母の目に凶器を映して、父の笑顔で、笑った。



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