コップ一杯分の勇気

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コップ一杯分の勇気 ◆23F1kX/vqc




水平線が薄靄でけぶるように見えたのは、海を隔てる白壁が屹立しているからだ。
大理石の質感を持つ乳白色の壁面は、海面にまっすぐにつき立つ。
遠くへ延びるその先は次第に透けていき、最後にはふっつりと途切れているように見える。
しかし近づけばまたうっとうしく立ちはだかるのは、すでに知っていた。
遠方の視野は明るく、近距離は遮られる。シュムナの霧にまかれたときとはまるで逆だった。
 このわずかに湾曲した壁は、島を中心にぐるりと囲んでいる。
白くて硬い殻が取り囲む様子に、まるで卵だととらは思った。
卵殻がその生命を内包するように一つの閉じられた世界をなしているのだ。
高度を下げて海面に近付くと、空を写して鉛色によどんだ波間から思い出したように魚がはねる。
ひょいと捕えて口に放り込む。
ぐいと飲み込んだ。味も食感も物足りない、ちんけな代物だ。
 ――卵ねぇ。
 いったい何を孵すつもりだか知らないが、
 ――造った野郎の程度がしれるぜ。
近くで見ると白くてまるいが、遠目には透明でまるい。
まるで透明といえば、もうひとつ似ているものをこの前見たなと思った。
が、名称が思い出せない。
 ――あれだよあれ。
 なんだったっけなぁ。首筋をとんとんとたたいても、のどの下のほうにつかえて出てこない。
不満に感じて、とらはつま先でもう一匹を引っ掛けた。
海のなかにはちっぽけな魚がちらちらと日の光を返すし、時折見せ付けるように大魚の影がゆらめくが、それだけだ。
水面が風になぶられてざわざわと小波を立て、海鳥が定期的に空を渡ってやかましい声を響かせるが、それだけだ。
それ以外に満ちているものがここにはない。
 海座頭はどこへ行った。
 船幽霊はどこへ消えた。
 空には衾がいない。森には木霊がいない。川には河童がいない。
家はあるが家鳴りがいない。猫はいるが猫股がいない。
蟻のようにはびこる虫怪がいない。空中に漂う塵芥に魚妖がいない。
 とらを恐れて姿を見せぬわけではない。
そんなとき、ひっそりとうかがう視線や潜めた息遣いがたしかに感じられるものだ。
それらは常にとらを心地好くさせるが、小妖どものにおいがどこにもない。
血のにおいはある。ニンゲンのにおいはある。バケモノのにおいはある。
しかし、においの種類が少なすぎた。純粋すぎる。
草や木のにおい、土のにおい、海のにおい、風のにおい、鉄のにおい。
セカイがセカイであるに足るだけの、必要なだけのにおいはそろっている。
必要なものはそろっているが、必要以上のものは何一つない。
不純物のまったくない、純粋な部品のみでつくられたセカイ。
 ――仙人どもの仕業か。
 とらは舌打ちをした。
 大陸にいたころのことだ。
日本(こっち)ではとんと見掛けないがあちらには仙人がうようよいて、
暇を持て余した連中が――仙人なんて大概暇なものだ――ひょうたんやら木のうろやらに国を作って遊んでいるのを見た。
そこは年中桃の花が咲き乱れ、川は清々しい水を満々と湛え、鳥の羽毛は極彩色に彩られ、妙なる音色がいずこともなく聞えてくる。
ニンゲンどもは夢の国だの楽園だなどと言う。が、とらにはなにが楽しいんだかさっぱりわからない。
誰かがこうあれかしと望んだ、カンペキなセカイ。
すべてが仙人の思い通りの、瑕疵なく造られたつまらない世界だ。
 この世界を造ったのは、ととらは思う。あの神を名乗るやつらだろうか。
八百万分の一の神の座になんの価値があるんだかこれまたさっぱりわからない。
沼の鯰だって年を経れば主と呼ばれ、いずれ妖怪変化になり、さらに年数を重ねればその沼沢の神となる。
ニンゲンだって土地神に認められ神具を得れば神になる。
 ヒヨッコの『神』がどんなやつだか知らないが、とらは一つだけ知っている。
神とはその土地や、ニンゲンや、妖怪どもに認められてはじめてそうとされるものだ。
自分から神を名乗るのは、威張りんぼうのうぬぼれ野郎と決まっている。
 ――気に入らねえな
 鼻先に積もった雪をべろりと舐めとった。
まるみを帯びた天井から、湧きでるように降る雪片にもやはり雪妖の気配がない。
カタチだけはうしおの時代に似せた白々しいこの町が気に入らない。
妖怪を『余分なもの』と切り捨てるその態度が気に入らない。
新参者の神のくせにふんぞり返って姿を見せないのが気に入らない。
 空からふわりと降り立ち、灰色の建物のてっぺんに爪の先が触れたとき、
やっと引っ掛かっていた単語がぽんととれた。
そうだ、あれだ。うしおのガッコで見た、まんまるで透明な、
「ふらすこ」








 屋上の扉が開いた。
雪輝ははっと身をこわばらせた。
ついきょろきょろと周囲を見回す。
 ロビーは相変わらず人の気配がなく静まりかえっていた。
壁にかけられた時計の秒針がコチコチと音を立てる。
正時になったら鳩がないて電子音にあわせてピエロのような音楽隊がくるくると踊る。
今鳴らなくてよかったと雪輝は思った。きっと飛び上がっていただろうから。
 安っぽいビニールのソファーで眠る由乃の寝顔を見ていると少し気持が落ち着いた。
静かな寝息をたてて、よく寝ている。
本当なら、病室のベッドで体を休めるのが一番だろうけど、それはやめた。
由乃が退出経路を確保したがったからだが、雪輝自身も上の階を使いたくなかった。
かつて人間で、現在はただの肉片と化してしまったものの近くにいたくなかった。
幽霊がいるとも思わないけれど、いないとも思わない。
あの近くにいたらまた自分の空想は、悪いものを作り上げる。
白い壁にとびちった赤が思い出される。気をそらさないと、そこに人面を見つけてしまいそうだ。
だからきっと、病院はいつも真っ白にしてあるのだ。
死を塗りこめるほど真っ白に。
 雪輝はもう一度日記を見た。
扉が開いたのは、今起きたことじゃない。これから10分後のことだ。
10分。たったの10分。雪輝に手渡された松明のともし火はたったそれだけだ。
 ――由乃を起こそう。
 名前を呼びかけたところでとまる。
扉を開けて入ってくる誰かは、悪人だろうか?
この新しいサバイバルゲームに乗って、雪輝たちを殺しに来たのだろうか。
それとも人殺しを否定して仲間を求めて来た人だったりはしないだろうか。
由乃は雪輝の身を過剰に案じて、もしかしたら手を差し伸べてくれるかもしれない誰かをむやみに傷つけないか?
そうだ、もしかしたら鳴海歩が訪ねてきたのでは。
彼なら、雪輝日記で由乃が寝ていることもわかるはず。
まずは、雪輝が様子を見たほうがいいのかもしれない。
 でも、もし悪人だったら?
 ――やっぱり、由乃を起こそう。
 結局、雪輝には由乃に頼るしかない弱い人間だった。
自身を守りきれる自信なんかまったくない。
由乃とは違った意味で、由乃がいなければ生きていけない。
起こして相談しよう。少なくとも由乃は、雪輝の身を第一に考えてくれる。
そっと手を伸ばして肩に触れようとしたとき、また雪輝は手を止めた。
日記に新しい記事が追加されている。
そこには我妻由乃の死が、はっきりと記されていた。




 心臓が、どくどくと鼓動を告げる。
あんまりひどい速さで拍動しているので、耳の奥がじんじんと痛いくらいだ。
そんなに早く血液は体の中を循環しているのに、パニッシャーの銃身を支える指先が冷たくて仕方がない。
 あと2分。あと2分でそいつは角を曲がる。この廊下の角に姿を現す。
金の毛並の捕食者。由乃を食い殺すライオンまがいの怪物。
雪輝はただ一人でそいつを待っていた。自分の力だけで、怪物を殺すために。
 結局、由乃と一緒に戦うという選択肢を選ぶことはできなかった。
日記は由乃の死を予知した。疲れきってふらふらの由乃は、雪輝をかばって化け物の前に立ちその鋭い牙で殺されてしまうのだ。
由乃と一緒に逃げる、という選択肢もだめだった。
においで足跡をたどられ、病院を出たところで由乃はその鋭い爪に切り裂かれてしまう。
由乃を守るにはやるしかない。雪輝が、やるしかない。雪輝しかもういない。
雪輝を友達だと言ってくれた秋瀬或は、この見知らぬ土地で死んでしまった。
もう大事な人を誰も死なせたくないんだ。友達も、家族も、――恋人も。
 指は冷える一方なのに顔が妙にほてって、たまらなくなって口をあけた。
嗚咽をあげるように新鮮な空気を飲み干す。
ごくりとつばを飲むと、やたら大きく響いてどきりとする。
喉がからからだった。
廊下の行き止まりに白い影が現れた気がして、雪輝は引き金をひきかけた。
すんでのところで抑える。まだだ。少なくともあと1分半はそいつは来ない。
雪輝の恐怖心が勝手に幻を見ているだけだ。
ぐるぐると渦巻く闇に、また少年の幻覚を見てしまいそうで、あわてて首を振る。
だめだ、違うことを考えなきゃいけない。もう一度おかしな影を見出して、銃を撃たないでいる自信がない。
空想をしよう。空想、楽しい空想を。
この貧弱なこころをもたせるだけの空想を。
 このパニッシャーを操るのはどんな人だろう?
 こんな重い武器を扱うのだから、背が高くて肩幅が広いだろう。似合うのは、襟のたった黒い服。
皮肉めかして斜めに笑い、そしてきっと、煙草を吸っている。
そんな想像をしていると、奥から二番目の、切れかけの蛍光灯がパチンと鳴った。
びくりと身をすくませる。空想に逃げることもできなかった。
再び指先に力をこめ、瞬きをするのも恐ろしく廊下の先を凝視する。
 もうすぐだ、もうすぐ。
時間の感覚はもはやあやふやだった。
もう一時間もこうしてそいつを待ち続けているような気もするし、まだ10秒もたっていない気もする。
あと1分? それともあと5秒?
雪輝は耐えきれずに時計を盗み見た。
 まもなく、秒針が12時を回ろうとしている。
全身から汗が吹き出した。ついに、だ。これから60秒の間に化け物が現れる。
引きかえしてくれたらいい、祈るように念じた。
引き返して、テープを巻き戻すみたいに階段を上って、屋上の扉を開けて、去っていったらいい。
どんな理由でもいい、違和感を覚えてとか、ちょっと用事がとか、ほかの人間に狙いをかえてでも、なんでもいい。
 時計を見る。7秒。まだ現れない。
なんで日記を秒単位でつけなかったのか悔やまれる。
何月何日何時何分何秒、コンマの単位までつければよかった。
 時計を見る。16秒。まだ現れない。
パニッシャーの銃口が震えている。
きちんと狙いを定めなきゃ、と思えば思うほどに震えは悪化する。また息が苦しくなってきた。
 時計を見る。22秒。まだ現れない。
雪輝の鼓動はこんなに早いのに、秒針はのろのろと進む。
緊張感で押し潰されそうだった。
早く来てほしい。いや、来てほしくない。
 穴をあけそうなほど必死に見つめる曲がり角に影が現れたのに、雪輝は一瞬ためらった。
また妄想が生み出した影かとほんの一秒疑ったのだ。
そうでないと知れたとき、引金を雪輝は、すがるようににぎりしめる。
 機関銃の激しいうなり声がリノリウムの床にこだまする。
ひどい反動だった。胸ぐらをがんがんとゆさぶられているようだ。
パニッシャーが言う事を聞くわけなんかなく、前へ前へという一点だけは雪輝と意気をあわせて弾丸をぶちまける。
コンクリートの壁がけずれる。病室の仕切りがきしんで中のカーテンレールが見え、それも流れ弾ではね上がってくだけた。
細かいガラスのこすれる音が、掃射の中にかき消える。
 時間も忘れて無心で撃ち続けると、ガツンと衝撃を伴って不意に機関銃が静止した。
思わずつんのめり、あわてて足を踏みしめる。
なぜ連射が止まったのか理解できず、やみくもに引金を押してからはじめて気付いた。
弾切れだ。撃ちつくしてしまった。
 日記では、と義務のように脳を捻りだす。
日記では、怪物がその恐ろしい爪をこれからたててくる。牡馬を狙うグリフォンのように鋭い爪を。
 右からだ。右から来る。
無差別日記は雪輝本人のことは予知しない。右からくる爪撃を雪輝は免れられるのか、わからない。
だから、今やるべきだ。今この足元にある銃倉を拾いあげ、機関銃に弾を補充して、化け物に向かって撃ちつくすべきだ。
弾倉を替える練習だってした。
迅速に、とはいかないけれどちゃんと古いのを捨てて新しいのをはめることが雪輝にはできる。
弾倉は雪輝の右のかかとの横に用意してあって、手を少しおろすだけで届く。
あの化け物の爪を思い出してみろ。熊より鋭い大きな爪だった。
あんなので引っかかれたら、雪輝なんてひとたまりもない。
熟れすぎたトマトのようにぐんじゃりと崩れてしまうだろう。
 なのに、雪輝の指は一本も動かなかった。
時計を見つめたまま動くことができない。
爪で切り裂かれるはずのその時間をのろまな死神のように刻む時計の針から、魅入られたように目をそらすことができなかった。
ついに針はそのときを指し示しす。かちりと針の音が耳の奥に鳴り響く。
そのとき、ふっと煙草のにおいを嗅いだ気がして、雪輝は我に返った。
 右だ。右から来る。
くらつくような火薬臭の中、渾身の力をこめてパニッシャーを引き上げる。
その瞬間、硬いものがかち合う短い音が響いて、鋭い痛みが肩に走った。
パニッシャーごと体が吹っ飛ぶ。
「チィッ」
 舌打ちが煙の中に聞こえた。
よく磨かれた床に叩き付けれて、暗転しかけた目を必死に向ける。
涙のにじんだ視界に、そいつの足が入った。
足、だ。確かに足だ。並んで立つ二本の足。
でもそれは、とても毛むくじゃらで、まるで獣のような。
ひっと喉が鳴る。
雪輝はゆるゆると目をあげてそいつの顔を見た。
「ば、ばけもの……!」
 とらがにいいと満足げに笑った。
「若ぇ女のにおいがしたと思ったがよ、おめぇ小僧かよ」
 凍りついたように後ずさることもできず、雪輝はただぶんぶんと首を横に振った。
こいつは由乃のことを言っている。雪輝は由乃を守ると決めたのだ。
とらは拍子抜けしたように、ぐいと雪輝に顔を近づけた。
雪輝は再びひっと泣き声をあげ、少しでも遠ざかる。
「なんだ、じゃあおめぇ女か?」
 またぶんぶんと首を振る。とらが難解なクイズを見たような表情だ。
わかんねぇ奴だなあ、と不平を言う。
雪輝を頭から下までじろじろ見て、しばらく考え込んでいたがふと口を開いた。
「おめぇうしおを知ってるか」
 蒼月潮という名が名簿にあったのは知っている。放送で名前が呼ばれなかったのも知っている。
でも、元の世界でもこの会場でも、雪輝と彼は知り合ったことがない。
けれど、雪輝は知っていた。この問いに素直に答えればどうなるかを。
だから、雪輝はうなずいた。今まで横に振っていた首を縦に振った。
ザザッとノイズ音が走る。未来は変わった。
とらが残念そうにそうかと言う。
「女みてぇにやわらかくてうまそうだが、」
 雪輝は横目で日記を確認した。
「うしおのやつ、」
 知らないと答えたら、 
「おめぇを食ったら怒るだろうなあ」
 食い殺されていた未来が、
「でもまあ、」
 知っていると答えたために書き換わり、
「ばれなきゃいいかッ」
 この爪に引き裂かれる。

 一発の弾丸が、圧倒的な力の差をチャラにしてくれる。

 すさまじい破裂音がして銃口から何かが飛び出すのを雪輝は見た。
何か、ではない。ほんのわずかの差のぎりぎりのところで、雪輝はロケット弾を射出したのだった。
機関銃とは比べ物にならない反動でもう一度体は跳ね上がり床に背中を打ち付ける。
砂埃で視界の閉ざされた中、バックパックだけは引き寄せて雪輝は必死にその場を離れた。
やたらめったらに足を動かしながら、日記を見る。
 まだとらは死んでない。
適当なところにかくれてはだめだ、犬のようにするどい嗅覚で、雪輝の居場所を嗅ぎつけてくる。
血を止めなければならない。
血のにおいをごまかせて体を休めるところ。うってつけの場所が一箇所ある。
 ――2Fレントゲン室。
 飛び散った人間の破片、千切れた内臓やべちょべちょした無数のかたまりが目に入り、雪輝は吐きそうになった。
口許に両手を当てて無理やり抑えこむ。
それでもこらえきれず、涙とともにかすかな嗚咽がこぼれた。
目をそらしむせ返る死のにおいを嗅がないように口で浅く息をする。
一度息を飲み込むと、鈍い動作でバックパックを開いた。
 痛い。全身が痛くてたまらなかった。
消毒液を肩の傷に振り掛けると、さらに激しい痛みが骨髄を駆け上がった。
涙を浮かべながら持てる力を総動員して悲鳴を耐える。
3rdの剣に刺されたときだって、ここまで痛くなかった。
あの時は秋瀬君が来てくれたけど、その彼はすでに死んでしまった。
いつも冷静で、かっこよくて、頭がよくて、秋瀬或は雪輝とは正反対だった。
雪輝がこうありたいと願う、まさにそんな少年だった。
でも、もう彼は助けに来てくれない。
彼が死ぬような場所なのだ。
雪輝が死ぬのなんて、未来を予知するまでもなく当然なんじゃないか。
 そこでふと、3rdに殺されかけたことを事実と受け止めている自分に気づく。
雪輝が3rdに倒されたことなんてない。雪輝が3rdを倒したのだ。
いったいいつそんな話を吹き込まれたのだろう。
 昼間の夢だってそうだ。
 ――母さんの眼鏡に、神社で穴を掘る僕。
 たったそれだけの、単語だけを並べたようなあやふやな夢なのに、漠然と両親の死をイメージしている。
そしてそれが、現実だと思えてならない。
夢を見たから現実なのか、現実だから夢に見るのか。
雪輝にはもうどっちなのかわからなかった。
デウスが空想の世界に現れたのか、空想したからデウスが生まれたのか。
未来日記は、この殺し合いは、雪輝が空想したからこそ顕現したのか。
それとももしかして、ほかの誰か、どこかの何者かの空想に因果しているのか――?
 壁を蹴飛ばす振動に、雪輝は思索から引き戻された。
驚きに心臓が早鐘を打っている。声を立てなかったところだけはえらいと思う。
「こらっ雲外鏡っ! 姿を見せやがれっ!」
 あいつだ。震える指先で携帯電話を引っ張りだす。
日記によると、雪輝の居場所を嗅ぎつけたわけではないらしい。
しばらく隣の部屋でガタガタするようすが記されている。
けれどいずれ、とらはこの部屋を訪れ雪輝を見つけるだろう。
「ここは確かに異界よ。しかし鏡というのも一個の独立した異界だろ。
だったら『そっち』から『こっち』はつながってるに違いあるめぇ。
獲物に逃げられてこっちはくそっ腹が立ってんだ、さっさと出やがれトンチキ鏡ッ」
 怪物が仲間を呼び寄せようとしている。
雪輝は恐怖で息を荒げた。
とら一匹だってこんなに恐ろしいのに、これ以上化け物が増えたらぞっとするどころの話じゃない。
日記には、まだ仲間が集まる知らせはない。でも、10分以上後のことはわからない。
仲間が応える前に、とらを動かさないといけない。
重圧で目がかすむ中、雪輝は携帯電話のキーを押した。
 キィンッと甲高い音が病院内に走る。
続けて人の声が響き始める。場所は、レントゲン室から対角線上にある4F奥からだ。
「こ、この虎模様のバカばけものっ。ぼ、僕が怖くて逃げ回ってるなっ。
4階のナースセンターで待ってるぞっ。ここまで来てみろよ、こここ腰抜けっ。」
「わしが腰抜けだとォ? てめぇ首の根洗って待ってろォ!」
 ドガンと扉を蹴破る音がして、化け物が飛び出していく。
雪輝は携帯電話の通話を切り、へなへなと崩れ落ちた。
とらが向かったその場所には、拡声器がセットされている。
携帯電話から外線にかけて、コール音をゼロに準備した電話機から留守番機能を使ったのだ。
とらが駆けつけて怒りに任せてナースセンターの奥の扉を開けると、FN P90が全弾撃ちこむようになっている。
うまくとらが死ねばいいな、と雪輝は思った。
でも、そんなにうまくいかないこともわかっていた。
日記に、FN P90の銃声は記されていない。
雪輝のトラップが稚拙すぎて作動しなかったのかもしれないし、とらがだまされたことに気づいたのかもしれない。
 血で汚れた服を捨て、レントゲン室の横から清掃員のものらしき服を見つけて取り出す。
時計を見る。まだすこし時間はある。
武器はあんまりない。パニッシャーをとりに行く時間もない。
とらに反撃できるなら、これが最後の機会だろう。
 雪輝はそっとレントゲン室を抜け出して、階段の前まで移動した。
一階へ向かう階段が下に、三階へ向かう階段が上に伸びている。
あの考えを実行するなら、三階に行かないといけない。
一度は確認した病院の配置を思い出す。
 上りの階段に踏み出しかけて、急にぞうっと体が冷えた。武者震い、なんて立派なものじゃなかった。
あの怪物と勝負する? そんなん勝てるわけないじゃないか。
負けるに決まってる。そして、レントゲン室の二人のように、ぼろぼろの肉塊にさせられるのだ。
いやだ、と思った。死にたくないと思った。
 ――もう、由乃なんてどうでもいいんじゃないか。
何度雪輝のために身を投げ出したからといって、あいつは元々ただのストーカーだ。
あんなやつ死んだっていいんじゃないか。
雪輝のためなら死んでもいいと言っていた。
なら、ここで今すぐ階段を駆け下りてその足で病院を後にして、
雪輝が逃げ去ったからといって、由乃がとらに食い殺されたとしても、それは本望なんじゃないか。
 雪輝は重い足を前に踏み出した。一度ぐっと目をつぶり、階段を一気に走りぬける。
口の中で小さく、呪文のように唱えながら。
「由乃が死んだら、僕は一人だ。由乃が死んだら、僕は一人だ。由乃が死んだら、僕は一人だ」
 秋瀬或が生きていたら、放送で名前が呼ばれなかったら、雪輝はこの場を逃げていたかもしれない。
脇目もふらず、恥も外聞もなく逃げ去っていたかもしれない。
だって雪輝は弱いから。どうしようもなく弱いから。
だけど、秋瀬或はもういない。
雪輝を助けてくれるのは、もう誰もいない。ただ一人、我妻由乃を除いては。
こんな化け物だらけの島を雪輝一人で生き延びることはできない。
由乃がいなくなったら、雪輝は死ぬ。死なないためには由乃が必要だ。
だから、雪輝は戦わないといけない。雪輝が生きるために。
どんなに情けなくてもいい。どんなにかっこわるくてもいい。
震える足をここにとどめてくれるのなら。由乃を見捨てないですむのなら。
 三階への階段を上りきり、日記だけをしっかり見る。
未来の自分はいつも冷静に周囲の状況を記してくれる。
 目的の部屋に忍び込むと、ドーナツのように丸いCTスキャナがあった。
ここもまた、病院の他の部屋と同じように白に塗り込められていて、スキャナの寝台にはやっぱり白いシーツがかけられている。
雪輝はCTスキャナの陰に隠れるようにうずくまった。
表面積を少しでも減らそうとするように体を小さく小さくする。
ほんのわずかでもはみだしたら、そこから皮膚が溶け出してしまいそうだった。
できることなら、あのシーツにくるまってなにもかもを忘れてしまいたい。
デウスに会ったときのように白い布の中で空想に耽ったら元の世界が現れるんじゃないか。
でも、雪輝は、確かに歯の根はあわないけれど、うずくまりながらもCTスキャナに電気が通っていることを確認した。
それと天井と、入り口も。
探索時に見たとおり、スキャン室には入り口は二つあって、たぶん患者用ともう一つは雪輝が入ってきた医師用のドアだ。
あいつが来るのも医師用の方だ。
時計を見る。もうすぐだ。でもあと少しだけ時間はある。
 とらがその巨体をぬっと現したのは、定刻通りだった。
「ここかよ、小僧」
 ドアをけやぶるようにして、進入してくる。
「あれは"てれび"だろ。
なんのにおいもしねえからな。このわしがだまされるかよ!」
拡声器のことを言っているのだろう。
知っていることが自慢で仕方ないというように、とらが得意げに胸を張った。
 怪物の横腹には、ロケットランチャーによるものだろう、さっきはなかった大きな穴があいていた。
なんであんな穴があいて普通にうごけるんだろう。
人間ならとても生きていられるような傷じゃない。
本物の化け物だった。雪輝は恐怖で息を飲む。
「よくもわしの腹に大穴あけてくれたなあ」
 一気にとらが踏み込み距離をつめる。
雪輝はダブルファングを握り締めたまま、ますます小さくスキャナに隠れた。
ぎゅっと目をつむり、頭を抱えこむように耳をふさぐ。
とらの爪が風を切る。ここまで届くことを想像し、泣きそうだった。
でも雪輝にはわかっていたのだ。この化け物がどこに踏み込むのかわかっていたのだ。
カッと閃光が走り、空気が膨らんだ。一拍をおいて爆風が巻きおこる。
スキャナの破片がばらばらとふりそそぐのを雪輝は感じた。耳なりの中、遠くに怪物の咆哮が聞こえる。
 雨流みねねのメモ爆弾は、貼りつけられたFNP90の弾倉に引火して見事に火花を散らせていた。
でもまだだ。これでもまだあいつは死んでない。体に穴が空き、足が吹っ飛んでもまだ死なない。
いったいどうしたら死んでくれるのか、涙ぐみそうになる。
 雪輝はよろよろと立ち上がった。
三半器官がおかしくなって、嵐の船のようにふらふらする。
左手のダブルファングをとらに向け、撃ちはなつ。
爆発をまともにくらってのたうつとらに、その銃弾は外れた。
あくまで左手で、怪物に銃撃をしかける。とにかく連射、連射だ。
当たらなくったっていい。
まともに狙いをつけないで当たらないのはわかっている。
これは、牽制だった。
本命は天井だ。
視界がぐらぐら霞むなか、必死に見据えて右手の銃を一点に向ける。
パニッシャーよりは軽い、しかし十分に重い音を立てて弾は飛び出る。
天井のおかしなところに当たるばかりで、いくらやっても外れるだけだった。
ダーツは得意だけれど、射撃なんかほとんどしたことがない。
機関銃なんてもっとしたことがない。
拳銃で4thを撃ちぬけたのは、あの時あの場でこそ起こすことができた一つの奇跡だ。
 早く、早く当てないと。
半泣きになりながらとにかく引金を絞る。
早くしないと、身動きのとれなくなった化け物は、爪による攻撃をあきらめて、
「しゃらくせぇっ」
 とらが口を開ける。その中では炎が渦巻いて――。
ほとんど同時にカキンと甲高い音をともなって、それは弾けとんだ。
ひどい熱に焙られる瞬間に、激しい水が降り注ぐ。
スプリンクラーが、作動した。間に合った。
とっさにかばった両腕は火傷をおったようだけれど、ひとまず雪輝は生きている。生きている。
壊れたスプリンクラーはたえまなく水を降らせてとらの火を無効にする。
すでにスキャン室には水が張りはじめていた。
雪輝は躊躇なくCTスキャナの後ろに手を伸ばした。
「僕は……僕は、」
 それを引きずり出すと水たまりに叩き込む。
「由乃といっしょに戻るんだああああ!」
 スキャナを稼働させるための高電圧流が、水を渡ってとらと雪輝を包みこんだ。
バチバチと激しく水が鳴る。ひどい蒸気のなか、雪輝は分厚いゴム長靴で走りぬけた。
廊下に飛び出したところで、大きすぎるサイズの長靴につまずいて転ぶ。
痛い、と思った。痛みを感じる。こんなにぼろぼろだけど、まだ生きている。
雪輝はもがきながら日記を取り出した。
あの化け物もさすがにもう死んだだろう、という気持がある。でも確かめないと安心できない。
自分の目で見る勇気なんてない。
ダブルファングの重い射撃で腕がしびれて、雪輝は携帯電話を取り落としかけた。
火傷もあって、おもしろいくらい手が震える。
やっとのことで二つ折りに指をかけたとき、背後からぬるりと現れた。
「わしは火と雷の化生でな、雷撃はあんまし効かんのよ」
 水びたしの怪物が、扉によりかかるようにその片方の足で立っていた。
もう、悲鳴も出なかった。
力の抜けた手でじたばたしながら最後に残された銃を向ける。
「また"てつはう"か」
 とらが心底嫌そうな顔をして避けるようなそぶりを見せる。
しかし鉛の玉は、とらのたてがみにパチンとはねかえった。
また撃つ。パチンとはじけた。
空になるまで撃ち尽す。なんてことはない。立派に見えたが妙に軽く、それはおもちゃの銃なのだった。
とらが余裕の表情で、一歩、飛び跳ねて近付く。
その様子から目をはなせない。
バックパックから、やっと指にひっかかったものを無我夢中で取り出した。
「こ、来ないで……」
 雪輝はよたよたと立ち上がって、飛刀を構えた。
「来ないでよ……。来るなああ!」
 めちゃくちゃに飛刀をぶんまわす。
もう力なんてかけらも残ってなかった。剣の重さに振り回されて足元もおぼつかない。
しかしその偶然の一撃がとらの横っ面に伸び、
「オマエいいセンいってたぜ」
 大きな獣の手に刀身を捕まれて、雪輝は硬い爪が、するりと入り込むのを感じた。





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