72番目のスレッド(ED72)の「1」
鹿児島・熊本両県の要望を受けて、はやぶさが運転を開始したのは昭和33年10月であった。
昭和35年7月に20系化こそされたものの、九州島内は依然としてC61やC59が牽引していた。
日本有数の工業地帯の中を走る鹿児島本線の近代化は急がれており、
東からの電化を待たずに門司港・久留米間が昭和36年6月に交流電化された。
早速8月には東芝府中工場で落成したED72 1が試運転・練習運転に入り、
翌年5月にはED72が門司・博多間ではやぶさの牽引を開始した。
赤い機関車がブルーの客車を牽く、その姿は新しい鉄道の時代が九州に訪れたことを物語っていた。

ED72 1が九州鉄道記念館に保存されている。 九州交流電化の立役者であった同機が、
九州寝台特急の最期を看取ることになってしまったのは歴史の皮肉だろう。
ED72 1はかつて颯爽と牽引したはやぶさを、後進のED76が最後まで無事に牽引することを願っているに違いない。

73番目のスレッド(ED73)の「1」
ED72がSGを搭載した旅客機であったのに対し、ED73はSGを搭載しない貨物機であった。
寝台特急はSGを必要としないため、ED72に混じり、
黄色のナンバーも凛々しくはやぶさを牽引するED73の姿が当初より見られた。
そんなED73にも転機が訪れる。43年10月改正での20系客車110キロ運転開始されると、
元空気ダメ管を改造で装備したED73 1000番台(およびED75 300番台)がはやぶさの牽引機に指定されたのである。

ED73 1016が長らく小倉工場で保管されていたが、近年人知れず解体されたという。
1300t貨物列車の福岡乗り入れを見せたかったとも思うが、
九州寝台特急の終焉を見せずに済んだことは幸いと言うべきだろう。

74番目のスレッド(ED74)の「1」
人に限らず、機関車の運命も分からないものである。
ED74は平坦な北陸本線福井以北での標準機となるべくして、
昭和37年に6両が製造された。
しかし、ED74が北陸本線の標準機となる日は来なかった。
貨物列車が1200t化され、EF70が通しで運用されることになったからである。
そしてED74は生まれ故郷からも追われる。

昭和43年10月、ED74は突如として檜舞台に立つことになった。
ヘッドマークも誇らしげに、富士(門司・大分間)を牽引したは、
見慣れぬ大分運転所の区名札を挿したED74であった。

ED74は全機が、第二のふるさと九州でひっそりとその生涯を閉じた。
そしていま、ED74が新天地で意気揚々と牽いた富士、
列車そのものが歴史の1ページになろうとしている。 

75番目のスレッド(ED75)の「1」
ED72とED73は九州電化の先駆者であったが、搭載していた水銀整流器が最大の弱点であった。
そのため熊本電化に際してはED73の代わりに、シリコン整流器を搭載したED75 300番台が製造された。
ED75というと北に向かう寝台特急を牽引する姿に目が行きがちだ。
しかし、先輩格のED73とともに、西に向かうはやぶさの先頭に立った仲間もまたいたのである。

東北で、九州で、ED75は寝台特急を牽き、寝台特急は夢見る旅人を運んだ。
九州からED75の姿がなくなって23年、間もなく寝台特急が九州からなくなろうとしている。

76番目のスレッド(ED76)の「1」
ED75は国鉄技術陣がやっとたどり着いた交流標準機であったが、SGを搭載しておらず、
また軸重制限の厳しい日豊本線と鹿児島本線八代以南には入線出来なかった。
そこでED75に、ED72と同様のSGと中間台車を装備した九州の標準機、
ED76が製造されることになった。かつてDF50やDD51が歩んだ西鹿児島への道を、
ED76は最終ランナーとして走ることになった。折しも昭和50年には客車が24系に、
翌年には銀帯の25形に置き換えらた。ED76は栄光の列車を成熟期に導いたのである。 

成熟期の次に来るのは衰退期、ED76とて例外ではなかった。
JR九州に在籍するのは4両。その4両も静かに舞台から降りようとしている。 

77番目のスレッド(77号機)の「1」
ED76型77号機
1974年4月 三菱重工業三原工場にて製造。新製配置:大分
2001年3月 廃車(最終配置:豊肥久大運輸センター)

EF65型77号機は
1967年3月に東芝府中工場で製造、新製配置は稲沢二。
1968年7月に浜松工場にて改造され、「535号」を名乗るようになる。
改造後の最初の配置は東京。その後、新鶴見・高崎二・高崎機関区と転属し、
現在はJR貨物に所属。

※両機共に『はやぶさ』『富士』の牽引あり
(補足)EF65-535は2008年3月をもって引退しました。

78番目のスレッド(ED75”実質78”)の「149(実質的「1」)」
実質79番目のスレッド(78号機)の「1」
ED76型78号機
1974年 4月 三菱重工業三原工場にて製造。新製配置:大分。
1994年12月   廃車(最終配置:大分運転所)
※九州内での寝台特急牽引などに充当され、晩年は「パノラマライナー・サザンクロス」の専用機にも抜擢された。

EF65型78号機
1967年3月 汽車製造大阪工場にて製造。新製配置:稲沢二
1968年7月 浜松工場にて改造され「536号機」を名乗る。
改造後最初の配置は稲沢二。その後、東京→新鶴見→沼津→吹田二
→東京→新鶴見→高崎二→高崎機関区と流転し、1987年にJR貨物に継承。
1998年12月に廃車された(最終配置:高崎機関区)

※両機とも現役時代は「富士」「はやぶさ」をはじめとする
東海道・山陽・九州ブルトレを牽引した実績を持つ。

 80番目のスレッドの「1」
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす

軍勢を失いながら西へ追われた平家一族、
本数を減らしながら、九州へ走り続けた寝台特急。
関門海峡の激しい潮流が、平家再興の願いを断ち切ったように、
次のダイヤ改正が、九州行きブルートレインの歴史に終止符を打とうとしている。 

青い流星は梅の花を横目に観ながら、春一番をその体に受け、
最後の日まで今までと変わりない走りを見せるに違いない。
しかし、染井吉野がやっとその蕾みを開こうとする頃、
老雄は静かに終着駅に滑り込む。
そしてかつての僚友「あさかぜ」「さくら」「みずほ」
「なは」「あかつき」「彗星」たちが待つ、栄光の鉄路へ旅立つのである。

81番目のスレッド(EF81)の「1」
昭和16年7月、明治からの願いであった関門トンネル(下り本線)が開通した。
下関が終着駅であった初代富士は、翌昭和17年から長崎・長崎港へ延長となり、
EF10が関門間の牽引にあたった。昭和36年、北九州交流電化が完成すると、
関門トンネル門司側出口付近にあるデッドセクションで交直切替をするため、
初の交直流機EF30が製造された。EF30の増備はしばらく続いたものの、
昭和48年、EF81がその汎用性の高さから、門司機関区に投入されることになった。
関門専用機は運用区間の短さと特殊性から決して華々しい存在ではなかった。
しかし昭和59年2月、下関駅の様子はいつもとは違った。そう、旅人を
九州へ導くEF30とEF81にヘッドマークが掲げられていたのである。 

昭和61年11月、民営化後の旅客仕業を担当するため、大分運転所に
6両のEF81が転入して来た。JR九州に継承されたその6両もいまや2両。
出入区を兼ねて大分・下関間の富士や彗星を牽引したことも思い出となった。
残されたEF81 410とEF81 411が、九州へ直通する最後の寝台特急を
関門海峡の底から引き出す日々も残り少ない。


101番目のスレッドの「1」   (2009/3/9)
スハネフ14-101…元はオハネフ24-16としてこの世に生を受けた。

分割併合運転を得意とする14系寝台車が全国に運転網を広げるにあたり
ディーゼル発電機を搭載したスハネフ14が不足する事態となり、
3両のオハネフ24がスハネフ14に改造された。詳細は以下の通り。

オハネフ24-16⇒スハネフ14-101
オハネフ24-17⇒スハネフ14-102
オハネフ24-18⇒スハネフ14-103

三兄弟の内、次男の102は1982年3月15日早朝、寝台特急紀伊に運用中、
機関車付け替えのため停車していた名古屋駅にて飲酒乗務中の
DQN機関士が運転する凸DD51に激突され、不慮の死を遂げる。
三男の103は1998年に天寿を全うした。

今年2月22日、菓子メーカーの藤二誠社から異母兄弟と思われるヨハネフ14-101が誕生した。
ヨハネフ14-101はテールマークにはやぶさを掲示し、客室内にチョコクランチと携帯ストラップを装備。
その内容は鉄オタの購入心の秘孔を直撃し、多くの鉄オタがヨハネフ14-101を探し求め、
各駅、2ちゃんねる情報を元に各地を彷徨う姿が多数、目撃された。

首都圏では3月13日に東京駅に降臨との予告アリ。

103番目のスレッドの「1」
1964年10月、寝台特急としての富士号の運転が始まった。
その年に登場したのが103系量産車である。
103系は山手線・京浜東北線に投入され東京~横浜間で寝台特急の横を走り出した。
ブルトレの横を走る沢山の乗客を乗せた103系は東京の複々線を象徴するようだった。

しかし、1985年に大きな転機が訪れる。
同年山手線に205系が投入され103系の置き換えが開始された。
1988年に置き換えは完了し、ブルトレの横を走る黄緑一色の電車は過去のものとなってしまった。

山手線置き換え後も京浜東北線の103系は青い車体を光らせブルトレの横を走り続けた。
しかし、1992年に901系が登場しその後量産型として209系が登場。
ハイペースで置き換えは進み、1998年3月に京浜東北線の103系は運用を終了した。
あれから11年、東海道を走る寝台特急も姿を消そうとしている・・・

最終更新:2012年03月08日 00:00