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北条氏直

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匿名ユーザー

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北条氏直

統率…神流川の闘いを評価する向きがある
武勇…小田原の役の敗戦によって低く見積もられる傾向
知略…小田原の役の敗戦によって低く見積もられる傾向
政治…小田原の役の敗戦によって低く見積もられる傾向


掲示された数値
統率78 武勇42 知略59 政治56



335 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2009/10/15(木) 01:52:59 ID:jZlqXS+M
313
やっぱ氏直低いなあ
神流川は一益のミス&全部氏邦の功績って解釈なんだろうか

342 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2009/10/15(木) 14:46:18 ID:rxfnSWwF
335
氏邦は元々氏康存命時から歴戦の猛者で
今回数値が上がったのはそれがようやく認められただけだと思う。
実際、神流川では結果的に良い誘いにはなったかもしれないけど
氏邦の隊は破られたわけで、統率の上昇要素ではないと思う。

また滝川の数値が一切落ちていない(それどころか適正などの重要度の関係上、使い勝手は上がってる)
ので肥としてはアレは滝川のミスと言う認識も無いんだと思う。

なのでやはり氏直の数値のみ浮いてる、なんでだろうね。
若干二十歳で残した実績を他の武将で考えても統率80あっても大して問題ないように思う。
今の数値じゃ3倍の兵力居ても滝川に勝てなそうw

352 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2009/10/15(木) 18:14:19 ID:AqI6oVxw
  • 神流川の当時、滝川は上野に入って日が浅く、本能寺直後の浮足立ったところに
同盟者の北条が大軍で押し寄せたら対処のしようがない。アクシデント的な要素が強すぎ。
  • 北条家は毛利家同様一門の力が強く、氏直が家督を継いだといっても百戦錬磨の実父や
叔父たちが健在で、当主を支える官僚機構も優秀。版図は拡大したが本人の影は薄い。


354 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2009/10/15(木) 19:09:43 ID:miMA/y7K
氏直の統率80はないわw

401 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2009/10/15(木) 23:47:26 ID:8Ab698pO
名前       戦法    足騎 弓 鉄 兵 統率 武勇 知略 政治 格付け
織田信忠    鉄砲強化  B C D A D  80  72  59  70   A
松平信康    連撃之二  B C D B C  57  85  35  51   C
北条氏直    鎮静     B D D C D  78  42  59  56   B

なんとなく313参考に弄ってみた
長宗我部と毛利はとりあえず除外
正直信康の武勇高すぎる気がするけど、殿の逸話とかも考慮してこれで
      • 正直信親とか輝元とか入れても戦歴的に一番微妙な気がする
信康単独で軍勢を率いて挙げた戦果とかあったっけ?
いや、軍勢の総指揮やってなきゃ名将じゃないなんて事はないけど






本スレには氏直厨が常駐しているので注意。
やたらと二次史料の「滝川一益事書」を持ち出し、印象操作用語を使ってくる奴がいたらまずコイツだと思っていい。
彼?の過去の書き込みを紹介する。


【負け組】 滝川一益 【関東管領】

957 : 人間七七四年 : 2010/09/04(土) 23:36:45 ID:9nnIEiCe
神流川の戦いって戦国時代の関東で最大規模の野戦なんだっけ?
資料が少ないから詳しくは語れないけど、にわか仕立ての一益側が勝つのは相当困難だよね
運良く勝つか引き分けても、戦後処理をやってるうちに秀吉に先を越されそうだ
後知恵で見ると関東で領国を守っている間に天王山の戦いを迎えた時の方が一益にチャンスがありそう


958 : 人間七七四年 : 2010/09/05(日) 00:24:54 ID:IyGi96bA
神流川の戦いはどうすれば勝てたんだろうね?
信長信忠死亡が知れ渡っても、ほぼ外様状態だった関東諸侯が裏切らなかったってのが凄いよね
その状態で2万近い兵を動員できたんだし、戦力的に勝つのは不可能…じゃないと思う

実際、第一次合戦では勝ってるし、第二次で深追いせずにひたすら粘ってれば案外どうにかなったんじゃないかな
光秀の謀反は三日天下でした。って北条が知れば、北条は速攻で和睦出してくると思うんだよね
織田家に対して勝てないのがわかりきってる分、とにかく下手に出て友好関係を結ぼうとしてた背景もあるし
本能寺の変を知っても信長信忠の死亡が確実になるまでは、一益の上洛の応援までしてるんだぜ、あいつら
後はまぁ、それか圧倒してた第一次合戦で気合で氏直を討ち取るぐらいしかないかw

ただ、これは歴史を知ってる人間が言ってるだけだからな……
光秀が三日天下だったなんて関ヶ原の戦いの早期決着並に予想がつかない
一益が粘ろうとしないで短期決着に走ろうとするのも無理はないっていうか、普通というか……
粘って籠城しても普通は勝ち目ねぇって思うもんなぁ
・関東諸侯は裏切ってはいないが、積極的に戦う気はなかったと「石川忠総書留」に記されている。これもほぼ二次史料であるが。
・第一次の時はまだ氏直本体と合流していない。
・北条が滝川の上洛の応援をしているのは、同時に兵を集めていた事と、後の行動からして本心ではないと推測できる。


959 : 人間七七四年 : 2010/09/05(日) 02:13:45 ID:hCQ55JbB
957
滝川家家記の滝川事書や戦後の第三者的な立場の者が書いた書状(北条滝川武田皆に敬称がふされている事から)
上野国衆勢は緒戦で北条先鋒氏邦勢に勝利し300余り討ち取る奮戦を見せている
元々上野の諸将は70年台前半よりずっと北条家に歯向かう者が多くまた滝川が去って後も
厩橋北条、真田、由良長尾と離反が続いてるため神流川での奮戦は至極自然である
本戦で氏直のとったわざとやられたふりをして陣地にひきよせ、これを叩く戦術が素晴らしいだけ。
実戦経験はまだ滝川に比べたら浅いだろうに戦術センスは流石武田の血を引くだけある
・滝川家家記は後の時代に書かれた二次史料である。
・「第三者的な立場の者が書いた書状」は、筆者も送り先も切り取られて不明。
 これから北条氏に属そうとしている人間が、誰かを調略しようとして北条に都合のいい事を書いた可能性もある。
・そのどちらにも「上野国衆が奮戦した」とは書いていない。
・氏直本体はまだ到着していないので、氏邦隊は少勢だったと考えられる。
・北条に離反している≠織田に従順である
・バカやがネット上で良く使う印象操作用語「だけ」


960 : 人間七七四年 : 2010/09/05(日) 02:48:30 ID:JDRh+tth
織田厨は滝川軍が寄せ厚めだったとか統治期間浅いから仕方ないとか妄想垂れ流して氏直を評価しようとしないから論外
滝川側史料の記録でも敗戦の言い訳的な記述は全くないしむしろ北条側の戦術を詳細にかいてる
ランチェスターの法則から2倍程度の兵力差(滝川事書の記述と若御子対陣の動員兵力などから推測)なら半分くらいの被害があっていいはずだが10分の一の被害で済んだ(史料より)のが氏直の采配
相手が滝川じゃなきゃ竜造寺みたいに戦死してただろーな
・統治期間が3ヶ月と短いのは完全な事実。
・滝川側史料に言い訳が書いていないのは、筆者が正直に書いた事の証明にはなっても、事実と一致している事の証明にはならない。
 前述した通り滝川家家記は後世の人間が書いているからだ。
・北条側の被害は北条側の記録による。つまり注意が必要。
・ランチェスターの法則が当てはまるかどうかは後述。


強引に数値を決めようとする。そして冷静なツッコミを受ける。
961 : 人間七七四年 : 2010/09/05(日) 02:57:32 ID:DHrlXwG1
氏直 統率83 献策を行った松田知略84 大道寺72  滝川 統率84 知略89 
このくらいが妥当

962 : 人間七七四年 : 2010/09/05(日) 02:59:39 ID:DHrlXwG1
逆に氏康 綱成は過大


963 : 人間七七四年 : 2010/09/05(日) 09:58:32 ID:vHyLlK1h
なんでいきなり数字がでてくるのか




964 : 人間七七四年 : 2010/09/05(日) 10:27:27 ID:Gxi0bKLd
958
信長信忠死亡が知れ渡っても、ほぼ外様状態だった関東諸侯が裏切らなかったってのが凄いよね

北条ですら京都周辺がどうなってるか確実に掴むのにだいぶ手間取ってるわけで
関東の小豪族が、実際に中央の情勢がどうなってるかを確認するには随分と時間を要した。
関ヶ原の時の東北勢みたいなもんで、よくわかんないまま属した連中がほとんどだろう
だから実際に事実が知れ渡った頃にはみんな北条に寝返ってる。
あと、一益が自ら本能寺の変を諸豪族に知らせて求心力を得たって話もあるけど
実際には「信長は討たれてないよ」って偽情報を国人に出した一益の手紙も残ってて
真相がよくわからんうちに戦がはじまっちゃったんで、
そのまま一益の下にいた連中は北条と一時的に戦ったまでだと思う
的を得ている。




ランチェスターの法則にツッコミ。
965 : 人間七七四年 : 2010/09/05(日) 11:07:48 ID:WiPEny0M
960
混戦での戦いならランチェスターどうりの損害になるだろうが
互いに陣形組んで戦う以上期待どうりの損害率になることはないぞ
・もちろんこの時代に陣形を組まない戦いなどほぼ存在しないはずである。


彼はすでに荒らし認定されていた。
966 : 人間七七四年 : 2010/09/05(日) 12:45:29 ID:pifJhXFn
触れるな危険


まだ粘る。
967 : 人間七七四年 : 2010/09/05(日) 13:54:09 ID:BViXLmSb
964
倉賀野とかはともかく真田も北条隆弘も由良も長尾も北条を裏切ってる上本能寺前も由良長尾以外敵対
上野はいわば反北条色の掃き溜めだろ
北条の徹底管理型統治嫌がって自治権認めた他勢力頼ってるから神流川でも奮戦して氏邦を倒した
965
陣形を崩したり敵を釣り出して包囲したりするのが戦術というもんだろ
普通に戦えば大損害のところを見事な用兵によって最小損害ですんだ
・徹底管理型統治が嫌ということは、織田の統治も受けたくないという事である。
 つまり真田~の人たちは織田にも北条にも属したくなかったという事。だから積極的に戦わなかったのだろう。


落ち着いた人たちもいる。
968 : 人間七七四年 : 2010/09/05(日) 17:12:43 ID:WiPEny0M
967
戦術とか用兵とか言い出したらますますランチェスターどうり
の損害率からは外れるぞ

969 : 人間七七四年 : 2010/09/05(日) 17:32:41 ID:eX2dvst6
資料が少ないのに詳しく語ろうとしなくて良いよ
ここまで誰も「北条は弱い」とか書いてないのに熱くなる事も無い


往生際の悪い……
970 : 人間七七四年 : 2010/09/05(日) 20:30:12 ID:4QP9ivbW
969
史料はちゃんと残ってるしこんな詳細に合戦状況わかる合戦なかなかないだろ
とりあえず>>959>>960くらい読め
軍記ではなく記録として残ってるのに詳しく語らないとか基地外だな
これが評価に値する合戦じゃないなら評価に値する合戦なんて存在しないな
968
意味不明
普通に戦ったら大損害受ける⇒偽退却釣り込み戦術で最小被害で済んだ
ちゃんと日本語くらい理解しろ
戦闘を有利に進めるのが戦術なのにランチェスター法則とおりに
被害なくて済んだ事評価しないとか基地外だな
・「ちゃんと残ってる」と言えるほど残っていない。
・軍記と記録はカテゴリーが違う。「軍記ではなく記録として」という言い方は成り立たない。
・陣形を組まず「普通に戦ったら」という前提はおかしい。
・「日本語くらい理解しろ」「基地外」 


971 : 人間七七四年 : 2010/09/05(日) 22:21:04 ID:Gxi0bKLd
滝川スレで北条の強さを熱く語り過ぎてる自分も場違いだと気付けよ


972 : 人間七七四年 : 2010/09/06(月) 11:46:19 ID:HcHzCwiu
680
そうだとしたら尚更この時の北条の軍事行動は早すぎないですか?
開戦決定からわずか9日~12日?で4万を超える兵が実際の戦闘行動開始するってのは当時の常識からしたらどうなんだろう?
・北条は本能寺の変を知ったすぐ後から軍勢を集め始めていたためです。 


973 : 人間七七四年 : 2010/09/06(月) 11:55:30 ID:U0MnB53P
その手の「数万の軍勢が~」ってのは大半が誇張込みだから
滝川サイドからしたら、「それだけの軍勢で攻められたので致し方なく撤退した」となるし
北条サイドからしたら、「滝川に臣従していた国人層がめっさいたのに、それだけの兵を急遽集めて打ち勝った」となるわけだし

実際に誇張抜きで数万規模の兵が戦った合戦なんて関ヶ原とか大阪の陣くらいじゃねーの?
誇張が入っているというのは全くそう。理由については疑問符が付くが。



974 : 人間七七四年 : 2010/09/06(月) 12:05:03 ID:sQMspaYk
滝川側史料の滝川一益事書読め。
滝川は1万8000の兵集めてこのうち10000の上野国衆の活躍が書かれてる
ちなみに北条4万は天正壬午の若御子対陣の兵数が2万だった事からも
小田原合戦時34000だった事から普通にありえない。
・滝川一益事書には上野国衆の活躍は書かれていない。前述の通り二次史料ではあるが。
・天正壬午の乱は遠隔地で行われているので、この時より兵数が少なくなるのは当然。さらに良質の史料に乏しい。


975 : 人間七七四年 : 2010/09/06(月) 12:15:57 ID:HcHzCwiu
じゃあ例えば1万でも1万5000でもいいけど
誇張抜きで当時1万超えたらかなりの大軍だよね?


976 : 人間七七四年 : 2010/09/06(月) 12:22:29 ID:AyzhmVIm
滝川側の動員は戦後の書状より上野衆(倉賀野や小幡等)が集まって
北条方と戦闘に及んだ旨が書かれまた滝川事書にも具体的兵数が書かれてるので
大軍を動員した戦いだったのは間違いない。
神流川合戦記などだと滝川軍34000という馬鹿でかい数字が使われてるくらいで、
この戦いがいかに大規模な物だったかを物語るものだろう。
・前述の通り、戦後の書状は筆者もあて先も不明。もちろん正確性も不明。
・滝川事書は二次史料なので、兵数はさらなる吟味を要する。


977 : 人間七七四年 : 2010/09/06(月) 17:08:52 ID:IzfR8s27
972
北条の軍勢は明らかに過剰。織田方に領土削られまくっていた時期で
北関東はもちろん北武蔵の諸豪族や房相一和があるにも関わらず里見氏
ですら滝川一益と接触をとっていた。そんな時期に4万人もかき集めること
なんて不可能。

975
そりゃもちろん大軍。でも、当時の近畿地方では大軍を集められるような
時期になっていたのは確かだし、関東だって天正壬午の乱ではかなりの
大軍を集めていた。山崎の戦いでは秀吉軍4万vs光秀軍1.6万、賤ヶ岳の
戦いでは秀吉軍5万vs勝家軍3万。
・織田は北条の領土を削っていない。
・里美は滝川氏に本能寺の変が事実かどうか問い合わせている。当然の事だろう。ちなみに神流川の戦いでは北条軍に参加している。


978 : 人間七七四年 : 2010/09/06(月) 18:08:50 ID:U0MnB53P
山崎とか賤ヶ岳の実数もだいぶ誇張入ってると思うけどなあ
徳川とか豊臣とか政権取った側の史書は改竄多いし
敗者の資料は残らないし


979 : 人間七七四年 : 2010/09/06(月) 18:13:10 ID:MIr0pvBH
んな事言い出したらキリがない
すべての戦で兵数にけちつけなくちゃいけなくなる
・全ての戦で兵数を吟味するのは当たり前の事である。それを「けちをつける」とは、歴史学を考える態度ではない。


980 : 人間七七四年 : 2010/09/06(月) 18:39:56 ID:KWlpTT00
兵数だけじゃなくまだ取ってないのにこの城攻め取ったとか
まだ出兵してないのに攻め込んで平定は間近であるとかよく書かれてるしな
そっちの方にもいちゃもんつけなくいけなくなる
一応一次資料類や信憑性おける記録類ならそれを反証する材料ない限り
信用すべきだろう
じゃないと歴史考察自体ができなくなり都合いい妄想ばかり通るようになる
・その通り、「いちゃもん」をつけなければいけない。それをせずにどうやって「信憑性がおける」かどうか判断するというのか?
それこそ都合のいい妄想が通るようになってしまうことだろう。



信長の野望で過大過小されている武将五十九人目



84 名前:名無し曰く、投稿日:2009/03/31(火) 03:56:37 ID:OHTOIDZJ
滝川の統率が89なのに氏邦が74、氏直に至っては57ってのは明らかにおかしい

87 名前:名無し曰く、投稿日:2009/03/31(火) 09:46:43 ID:G8ozp/Vr
84
氏照すら79、氏規は73
どうも北条家にとって80は大きな壁の様だ
尤も70台すらそれほどいない気もするのだけど
やっぱり北条家って個人の能力よりシステムで拡大していった家なんかね


92 名前:名無し曰く、投稿日:2009/03/31(火) 16:59:42 ID:0OYcZdus
84
統率だけの問題じゃないんだがな。
滝川は統率 武勇 知略が89 81 84と戦闘に関する能力が全て80越えの戦闘マシーン。

氏邦は74 77 62、氏直なんて57 42 35とこんだけしかない。
これじゃ5万で取り囲んでも2万に普通に負ける。
DS2でも相変わらず氏直は雑魚評価だし。


95 名前:名無し曰く、投稿日:2009/03/31(火) 18:28:29 ID:v0xFN/tB
84
戦後の北条、滝川サイドから見て第3者的なものが書いたと思われる書状でも陣城に引きつけて叩くとあるし
滝川側資料の滝川一益事書で、はっきり伏兵で出てわざと寡兵で出て
弱弱とひいて敵が深く追ってきた所を4方から取り囲んで戦う戦術が事細かに書かれてるのにな
敗戦の言い訳というか一益が実力で負けたわけじゃない、みたいな弁明も全くなされてないのに
北条の被害は某書状で300滝川一益事書で1000、滝川の被害は滝川事書で7000と
完膚なき大勝なんだから氏直はもっと評価されるべきだ
・上述の通り、「第3者的なものが書いたと思われる書状」は正確性が全く不明。
・滝川一益事書は滝川側の史料といっても、後世に書かれた二次史料。
 「四方から」というのはこの時代お決まりの「周囲全部から」という意味の言い回しだが、事実かどうかは不明。
  なぜなら周りを全部囲まれていたのなら一益は逃げ出せなかったはずだからだ。
 ちなみに「事細かに」というほど書かれているわけではない。
・弁明されているかどうかはあまり関係がない。
・前述の通り、滝川一益事書と同じ二次史料である「石川忠総書留」には、上野国衆は積極的に戦う気がなかった、とある。
・18000のうち7000も死んだというのは戦国時代の常識から考えて多すぎる。

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