「『スイッチ』を押させるなあ――ッ!」

 アラストールが雷のように叫んだ。
 その叫びとほぼ同時に、シャナは飛び出していた。
感じる時間は油のよう。床に落ちた油がじんわりと広がっていくような、奇妙に緩慢な時の流れが、シャナの身体を通り抜けていった。
 蹴り出した足が、重い鎖を引き摺っているかのように動いている気がした。 
 伸ばした腕が、重い泥の中を掻き分けているように動いている気がした。
 間に合わない。一秒にも満たない刹那の間隙で終了した思考が、その無情なる結論を弾き出した。目標との距離が遠過ぎた。このまま突っ込んでも、凶行を阻止することは不可能だ。
 だが、少女は諦めなかった。瞬き一つした後にやって来るであろう、確定した悲劇の光景。その程度では彼女は止まらない。
最後の最後まで、彼女が『希望』を捨てることは無い。
 シャナは、凶手に倒れた空条承太郎のことを想った。
 崩れ落ちる間際まで、それを阻止するための戦いを止めなかった彼のことを想った。
故に、止まらない。今この瞬間に自分の持てる全ての力を爆発させる。

「はあっ!」

 シャナが裂帛の気合と共に投げ付けたのは、承太郎の学生服のポケットに入っていたボールペンだった。
 それは何の変哲もないただのボールペンに過ぎなかった。
 だが、フレイムヘイズとしての腕力、経験則で編み出した効率的な力の伝え方。
その力と技術が絶妙にかみ合った投擲である。投げられたボールペンには、『スイッチ』を破壊するのには十二分の威力が込められていた。
 一筋の黒い軌跡が、空間を切り裂いて飛ぶ。
 回転し、唸りを上げて飛ぶその様はライフル弾にも似た。
彼女の最後の賭けは、狙いあやまたず目標に着弾――しなかった。

「!」

 彼女の最後の賭けが、その軌道を不自然に変えた。いや、変えられた。
 軌道を変えたのは、どこからともなく舞い降りた一条のリボンだ。
叩き落とすでもなく、止めるでもなく、まるでレールの上で滑車を滑らせるようにして。明後日の方向に飛んでいったボールペンが、壁に突き刺さった。
 その妙技を成し遂げた本人、ヴィルヘルミナ・カルメルが先のアラストールに負けず劣らず叫び返す。

「いいえ! 限界でありますッ! 押すッ!」

 ヴィルヘルミナの指先が、『ターボパワーガスコンロ』の『ターボスイッチ』に触れた。

「今でありますッ!」

 アラストールとシャナが色々な意味で絶句する中、彼女はスイッチを押した。













「……申し訳ありません、奥様。このようなことになり、弁解のしようもないのであります」

 見ている方がいたたまれなくなってる位に落ち込んで、ヴィルヘルミナが謝罪した。

「あの、カルメルさん……失敗は誰にでもありますよ。そんなに落ち込まないで下さい」
「ヴィルヘルミナ、ホリィもこう言ってくれてるし……また次に頑張ればいいじゃない」
「う、うむ。結果は芳しくなかったが、奥方のためを想って為そうとしたことなのであろう?」
「限度っつーもんがあるだろ。何でおかゆが爆発するんだ?」

 口直しのコーラを飲み終わり、空き缶を机の上に置いた承太郎がホリィ達の慰めに異論を差し挟んだ。
 まだ口の中に味見をさせられた時の強烈な味が残っているらしく、眉間の皺は常の1・2倍増しだった。
 頭痛がする。吐き気もだ。まさか、この空条承太郎が気分が悪いだと?
 この空条承太郎がおかゆ如きに味覚を破壊されて……立つことが出来ないだと?
そんな驚愕の中、意識を失うまでヴィルヘルミナの調理(という名の凶行)を食い止めようとした一分間。それは、彼にとって今迄の何よりも長い一分間であった。
 体調を崩したホリィの為、特製のおかゆを作ろうとしたまでは良い。
 だが、その作り手は他ならぬヴィルヘルミナなのである。
『天道宮』時代のシャナも彼女が作った薬膳を口にしたことがあるが、見た目、味と共に強烈過ぎて、シャナは食べるのには相当苦労した。
シャナがもしその製作過程を見ていたら、「い……今のは……カブト……い……いえ!見まちがいだわ! きっとココナッツのスジかなにかよ……」といった感じの現実逃避をしたくなったに違いない。
流石にカブトムシは入っていなかったが、それ位材料・製作過程共に凄まじいのである。アラストールとシャナが、時がぶっ飛ぶかどうかの瀬戸際だと言わんばかりに焦ったのも無理からぬことであった。
 ヴィルヘルミナは、海よりも深く後悔し、山よりも高く反省した。
 キッチンに壊滅的な被害をもたらした事もそうだが、妙なテンションに身を任せてしまったことも同じ位後悔して反省した。
 何が「限界であります」なのか? 何が「今であります」なのか? 
 自分でも意味がわからない。思い返すと顔から火が出るくらい恥ずかしい。
何故、あんなことを口走ってしまったのだろう? 何故、そうしなければならないというおかしな気持ちが間欠泉のような勢いで湧いて出たのだろう? 
頭を抱えたい気分だった。
 客観的に見れば、アラストールやシャナとてそれなりにはおかしなテンションだったのだが、ヴィルヘルミナは気付かなかった。


 その後、皆の励ましによりヴィルヘルミナは何とか立ち直った。 
 しかし、空条家のキッチンはこの一件で使い物にならなくなり、全面改装を余儀なくされたという。

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最終更新:2008年03月02日 19:34