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31 渡辺 俊介 177/70 右投右打  国学院栃木高 - 国学院大 - 新日鉄君津 - 千葉ロッテ


言わずと知れた世界で最も低い位置から投げる投手であり、現在ではほぼ絶滅寸前の純正アンダースローの系譜を継ぐ投手である。


彼は、自分を後付けの野球選手だと評する。天性の素質ではなく、工夫と努力で一線級まで上り詰めた選手だと。それは彼がアマチュア時代、特に高校までの間は「派手」とか「エリート」などの言葉とは無縁な選手だったことに由来する。中学では3番手の投手だった彼は、父にその体の柔らかさを生かしてのアンダースロー転向を薦められる。自分でも、それまでのオーバースローに限界を感じていた彼は、さして悩むこともなく転向を決意。しかし、高校時代は制球難に苦しみ、当時エースだった小関竜也(巨人)がいたため、常に2番手の位置だった。彼が日の目を見るのは、新日鉄君津に入社し、日本代表に選ばれてからのことである。


そんな彼のルーキーイヤーは、50と1/3イニングを投げて、防御率2.66と、まずまずの成績を残す。
しかし、2年目の2002年。彼は壁にぶち当たる。この年高目を広く取るストライクゾーンが採用され、一部では松坂(レッドソックス)とこの渡辺のためにあるストライクゾーンだとまで言われたが、防御率6.35で0勝という悲惨といっても差し支えない成績に終わってしまう。原因は、何より制球力のなさだった。現在でも決してコントロールがいいとは言えない渡辺であるが、当時はより速い球を、より速い球をという方向に進もうとしていた。投手なら誰しもが持つ本格派への憧れがあったのかもしれない。しかし、彼はそれゆえに自らの持ち味である独特の球筋を生かせない状態に陥っていた。


明けて2003年。前年のトラウマを引きずっていた彼は、この年初先発のオリックス戦で4回1/3を8失点(自責点は7)と散々な結果。本人も「試合に行くのが怖かった」と語るほどだった。しかし、彼はこの崖っぷちの状況から復活する。ラストチャンスとして臨んだオリックス戦で5回2/3を失点2で勝ち投手に。この頃、彼はようやく本格派へのこだわりを捨て、今の緩急を生かし打たせて取るピッチングをするようになる。この試合以来ローテーションに入った彼は別人のような安定感を発揮し、この年初めて規定投球回数に到達。また西武戦で12回完投を記録した(試合は引き分け)。


そして2004年シーズンには自身初の二桁勝利となる12勝を挙げ、2005年には15勝、防御率2.17と活躍。チームの31年ぶりの優勝に大きく貢献することになる。日本シリーズでは、第2戦に千葉マリンスタジアムで先発。阪神打線を4安打に抑え無四球完封勝利した。しかし、2006年シーズンは防御率が常に4点台とやや不安定で低調なシーズンとなり、3年連続の二桁勝利を逃した。与死球はリーグ最多で14個。原因は2段モーションへの対応がうまくできなかったこととWBCでの早期調整によりシーズンに調子を持っていけなかったことにあるようだ。


投球スタイルとしては、最速でも130キロ強のストレート、カーブ、シンカー、スライダーを軸として投球を組み立てる。ただし、彼の変化球は普通の投手とは違う。特にカーブは何種類か持っているが、一般的に言われる曲がり落ちるカーブではなく、タイミングを外すことに特化したカーブを得意とする。この球はテレビの中継などで見てもあまり曲がっているようには見えない。このカーブは2シームジャイロであると言われており、本人もそれを認めている。他にもスライダーはストレートと同じ軌道・速度だが浮き上がらず低めに決まるというもので、普通のスライダーのように横滑りしたり落ちたりする球ではない。 このように縦横の変化などより、とにかくタイミングを外すことを考えて投球を組み立てるところに特徴がある(もちろんシンカーを落として三振を取ったりすることもあるが)。彼の長所として、常に7分程度の力で投げるため、スタミナを消費しにくく完投能力が高いことが挙げられる。また、いわゆる軟投派のイメージとは違い、制球力は高くない。


課題として、アンダー、サイドにはありがちなように、左打者を苦手としており、被打率にすると右打者に比べて1割近く打たれている。ちなみに中でもソフトバンクの松中選手を極端に苦手としている。そのため、2007年シーズンより小宮山悟に教えを仰ぎ左打者対策として2001年から研究していたチェンジアップを使うことに決めた。


(プロ入り後の実績をスカウティング通信簿で点数化)



01年 02年 03年 04年 05年 06年  通算P 平均P

5P  0P   9P  12P  15P  6P   47P 8.8P

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