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狸よ躍れ 第3話

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第二話『鬼婆と鬼ババとは似て非なるもの也。鬼ババとは単なるババアな鬼のことでござる』



 かぐわしい花々の芳香に満ちた、花の蔵屋敷の一室。質のよさそうなふんわりとした布団の上で、
なかなか寝付けずにいる迅九郎は、もう何度目かわからない寝返りを打った。

「……息つく暇もない一日であったな」

 この日彼は、思いがけず地獄の住人の仲間入りを果たした。現世において『死んだ』という実感も
持たないままに。

 その上、『実はお前が死んでから数百年経っている』などと、まったく理解を越えることを言われ。
 その意味がわからないにもかかわらず『死んで数百年気付かないなどあり得ない。どこで何をして
いた』と問い詰められてしまった次第だ。

「そんなこと、知ってどうなるのであろう。それがわかれば拙者は、成仏できたりするのであろうか」

 つまるところ迅九郎にとって大切なのは、その一点だけだった。
 なぜ自分は成仏できないのだろうか。現世に未練など残しただろうか。そんなはずはない。あんな
人生に、残す未練などあろうはずもない。

「なんちて、柄にもなく思案などしてみたが、阿呆な頭でどれだけ考えてもわからんものはわからんしな」

 振り切るようにそう言って、また寝返り。生来能天気で、楽天的な性格の侍である。考えてもしか
たないことは考えない。考えてわからないことには、考えなくても答えがわかる日がいつか必ず来る。
そんな思考の持ち主なのだ。

「しかしまさかな。一日の終わりに狸にされてしまうなどとは思いもよらなかったな」

 それが、今日というめまぐるしい一日を締めくくる、最も衝撃的な一件だった。つい数時間前の出
来事である。あの後なんとか人間に戻してもらえたのだが、なかなかに厄介なことになってしまった。

 本当のところ、迅九郎は未だに納得がいっていなかった。
「だって、あの槐角殿の母上様であろう? 立派なバ……い、いかん。これは禁句であった」

 槐角の母である藤ノ大姐(ふじのたいそ)が迅九郎に行ったのは、半永久的に継続する呪いの類だっ
た。この呪詛は迅九郎が「ババア」、あるいはそれに近い発言をすると効果を現わす。そしてその効
果のほどは先刻の通り、迅九郎が子狸に変化してしまうというものだ。

「解呪の祝詞、なんであったかな。あんな長ったらしい文句覚えてられんよ。明日紙にでも書き起こ
してもらわねば。あーあ、面倒なことになったなあ」

 恨みごとを言っている間に、迅九郎はようやく眠気を催してきたのを感じた。おとなしく目をつむ
れば、さっきまで寝付けなかったのが嘘のように、すとんと眠りに落ちた。

「……よく食べるのう、そなた」
 迅九郎が地獄の住人となって初めて迎える朝、花の蔵屋敷の食卓。あきれたような声を上げる藤ノ
大姐の視線の先には、凄まじい勢いで飯を胃袋へとかきこむ迅九郎の姿があった。

 口の中に溜めこんだ飯とおかずを茶で一気に流し込み、答える。

「いやはや、お見苦しい姿をお見せし申し訳ござらぬ。地獄の飯というのがこれほど美味なものだと
は思いもよりませんでした故、ついついがつがつといってしまいました」
「ふふ、そうかそうか。別に咎めはせぬよ。好きなだけ食べるがよい」
「はい! 好きなだけ御馳走になりまする! では、ご飯のおかわりいただきとうござる!」

 元気よくそう答えて、藤ノ大姐に向かって茶碗をビシッと差し出す。すぐさま給仕の使用人がかけ
よってくるが、
「よい、よいのじゃ。まったくふてぶてしい狸じゃのう。現当主の母たるわしに、よもやご飯の給仕
をさせようとは」
 藤ノ大姐はそれを制し、迅九郎が差し出した茶碗を受け取って、そこにご飯をてんこ盛りによそっ
た。

 それを恭しく両手で受け取って、迅九郎。
「ああ、これは大変失礼を致した。そんなことには考えも及ばず、拙者はまことに浅慮でござった。
大姐様によそっていただいたこの飯、一粒一粒噛みしめながら食しまする」
「ふむ、よい心がけじゃ。味わって食べるがよいぞ」

 誇らしげになって、満足げに鼻を鳴らす藤ノ大姐。妙なところで生真面目な迅九郎は、神妙な面持
ちで上品にご飯を口に運んでいる。
 そうして食べる速度を遅くしたことで、迅九郎はようやく気付いたことがあった。

「大姐様、槐角殿の御姿が見えませぬが」
「なんじゃそなた、今頃気付いたのか」
「恥ずかしながら、今の今まで飯を食うことに夢中になっていたというか集中していたというか熱中
していたというかで、槐角殿の在不在はまるで意識の外でござった」
「……槐角は飯以下か。まあよいがの。槐角は一足先にご飯を食べて、閻魔庁へ向かったのじゃよ」
「閻魔庁……ああ、槐角殿の仕官先でござるな。そうかそうか朝早くから大変でござるなあ……?」

 迅九郎はふと、唐突に疑問を持った。この食卓には席がたくさんある。そもそもこの相当広そうな
屋敷に、まさか槐角と藤ノ大姐、二人しか住んでいないのだろうかと。その疑問を大姐にぶつけてみ
ると、

「いいや、そんなことはないぞ」
 とそっけなく返された。それ以上はあえて聞かないことにして、迅九郎は昨晩寝付く前に考えてい
たことを、忘れないうちに頼んでみることにする。

「大姐様、そのう……」
「ん? なんじゃ?」
「昨日の件なのですが」
「ふむ。わしがそなたにかけた呪いのことかの」
「いかにも。それで、もし拙者がまた狸になってしまった時のために、あの解呪の祝詞を紙に書き起
こしていただければなーなんて思っていたりするのです」

 また狸になる、つまりまた藤ノ大姐をババア呼ばわりするのが前提の話である。それ故おずおずと
低姿勢で切り出す迅九郎に、藤ノ大姐はふむうと顎に指を添えながら視線を向けてくる。

 その装いは昨日と同様、着物を適当に着つけたようなしどけないもので。迅九郎の中ではもう鬼の
女性は破廉恥な服装を好むものという勝手極まりない思いこみが固まりつつあった。

 女鬼全てを敵にまわしそうな妄想を迅九郎が広げるさなか、藤ノ大姐は
「ふう、まあ仕方ないかの。ほんにあれはちと長いからのう」
 などと言いながら、心なしかうきうきと書をしたためてくれた。

『花蔵院に咲く美しく麗しい藤の方 嗚呼何卒この身の愚かさをお赦し下さい
 御身の御髪は どれ程上質の絹も敵わぬ滑らかさ
 御身の御肌は どれ程丹念にこねた餅も敵わぬ瑞々しさ
 その御姿は まさにうら若き童女
 嗚呼何卒 我が身の愚かさをお赦し下さい 我が身の浅はかさをお赦し下さい』

 改めて文字で見せられるとなんと寒気のする文言かと、迅九郎は愕然とした。そもそも迅九郎は相
変わらずこの見た目童子な鬼を内心ババアだと思っているわけで、この文言はその内心に真っ向から
反する内容だ。

「まあ流石にそうそうないと思っておるが、もし何か間違ってそなたがまた狸になったような時は、
その祝詞を心の中で唱えるのじゃ。そうすればそなたは人間の姿に戻ることができるからの。まあ、
流石にそうそうないと思っておるがの」

 くどい。このくどいところもいかにもババアだ。密かに思ったが、口に出すとまた狸になってしま
う。そうすればこの思ってもいない藤ノ大姐への美辞麗句をつらつらと暗誦せねばならない。気が滅入る。

「大姐様。わざわざ紙に起こしていただき恐悦至極にござる。これで拙者、気軽に本心を口に出すこ
とができまする」

 藤ノ大姐の表情がピクリと強張ったような気がしたが、丁重に礼を言っているのにそんなはずない
だろうと思い直して、迅九郎はご飯てんこ盛りの茶碗に再びを手をつけ始めた。


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