創作発表板@wiki

「無明の岸辺へ」(後編)

最終更新:

mintsuku

- view
だれでも歓迎! 編集

「無明の岸辺へ」(後編)





『…では、大帝陛下の健康を祝して、乾杯!!』

複雑な視線を注ぐ地獄界首脳に囲まれ、ジョーイ・ベリアルはグラスを高々と掲げた。この急遽準備された晩餐会が始まっても、敵将ジョーイ・ベリアル来訪の意図を看破できる者はいない。
閣僚の中にはあらゆる憶測を一蹴し、彼の即時逮捕を主張する者も少なくなかった。だがしかし、みすみす討ち取られる為に単身、しかも全裸で敵地を訪問する馬鹿が果たして大宇宙に存在するだろうか?
とりあえずは離宮へ賓客として迎え、各界の情報を収集しつつ様子を見る。これが御前会議の末、閻魔庁が下した最終的な結論だった。

『…ベリアル殿下、人間界で御社のタンカーが座礁したとの知らせが…』

ぎこちない会食の間じゅう、ひっきりなしに飛び込むベリアル・コンツェルン受難の知らせ。敏感に首領の失踪を嗅ぎつけた数多い敵対勢力が、泣き面に蜂とばかり攻勢に出たのは明らかだ。

『…おお、ご心配なく。閻魔大帝陛下への拝謁は全てに優先します。下らない雑事は弟たちが…上手く処理するでしょう。』

大帝の鋭い眼光の前では、流石の魔王子も弟たちが致命的な失策を犯さぬよう祈るしかなかった。どうやら恐るべき召還術の正体が、閻魔庁の秘密兵器ではないらしいことがせめてもの救いだ。生きて帰れさえすれば捲土重来の機会はきっとある…

『…我々魔族は、みな兄弟です。私は、不毛な敵対心をまず自ら正したい…』

…後に地獄の住人たちが伝え聞いたところによるとベリアルは、自分の愛情不足が義妹リリベルにひねくれた妄想を抱かせた原因だった、と涙ながらに語り、閻魔庁に全面的な賠償を自ら申し出たという。
ともかく、魔王子ベリアルの土壇場勝負は効を奏した。結局閻魔庁は彼の提示した調停案を受け入れ、不可解で大幅な譲歩に首を傾げつつも、それなりの敬意を払いこの招かれざる客をゲヘナゲートから母国へ送り返したのだった。


「…ズシッ!! いるっ!?」

「…ああ、ユキちゃん。お饅頭を食べないか?」

血相を変えて駆け込んできた由希を呑気に迎えたズシは、彼女の尋常ではない様子にも動じることなく、相変わらずの機械いじりを続けていた。

「…お饅頭どころじゃないよっ!! これっ!!」

由希が突きつけたまだインク薫る新聞には、『号外』の迫力ある黒文字とともに局部修正入りで白人男性のヌードが大きく踊っている。『ジョーイ・ベリアル投降』。隠せぬ喜びを湛えた紙面には、一昨日の顛末が詳細に記されている。
だがそんなことよりも由希を激しく動転させているのは、他ならぬ…自分の言葉がこの大事件を引き起こしたかもしれない、という事実だった。

「…あ、上手く行ってたのか…何らかの計算ミスで到着点がズレたんだな…」

…やはりベリアルの地獄堕ちはズシと彼の装置、そして自分の軽率な言葉のせいなのだ…改めて膝を震わせた由希は、当たり前のように頷くズシを茫然と見つめた。

「…やっぱり…」

「…良かった。今から召喚式に不備が無いか再検証するところだったんだ。これで『本番』に取りかかれるよ…」

強張った表情で唸りを漏らす装置を見つめていた由希は、ズシの呟きにびくりと小さな身体を竦ませた。この異世界の魔道士は、昨夜由希が一睡も出来ない程苦しんだ恐ろしい行為を、再び繰り返すつもりなのだ。

「だ、駄目だよっ!! 『本番』って、一体今度は誰を…」

精一杯の大声を上げても振り払えない、目眩がするような戦慄。由希を縛り上げるその感情の中心には天命を冒涜した恐怖よりも…死んでから片時も心を離れない、恋しい両親の姿があった。
試運転で強力な悪魔を容易く呼び寄せた装置だ。もし、由希がズシに頼めば…

「…アンジュを呼ぶんだ…」

「…アンジュ…さん?」

聞き慣れぬ名前と差し出された一枚の絵が、由希の思考を現実に引き戻した。しかしズシが描いたと思しき『彼女』の肖像は、ほとんど顔を背けた妙な構図だった。そのうえ全く不必要に緻密な背景がいかにもズシらしい。

「…幼なじみさ。ガミガミ怒るし恐いけど…本当は優しいんだ。」

柔らかくなだらかな肩の線と、意思の強そうなしっかりとした顎…由希を産み、育てた母にどことなく似た女性だった。かつてのズシと同じ世界、すなわち生者の世界に『アンジュ』はいるのだろう。

「駄目だよズシ!! ここは地獄なんだよ!? ここに来る、っていうことは…」

「…なぜ? ここはみんな優しいし、異形も人間も仲良く暮らしている。今アンジュがいるところよりずっと楽しい…」

激しい動悸のなか、突然由希の眼には作業に没頭するズシの横顔が、まるで厳かな神のように見えた。離別の苦しみや悲しみを越えられる、彼の素晴らしい力。一緒に三途の川を渡った幼い弟たちは、母との再会をどんなに喜ぶだろうか?

(…でも…それは…間違ってる…)

「…駄目っ!!」

由希は知っている。同じ地獄の小学校に通う幼くして召された友達はみな、毎日屈託なく遊び、学びながらも、眠りに就く前に必ず枕を濡らしている事を。
もし全ての亡者が未練のままに生と死の厳粛な掟を破り、愛する生者たちを地獄に呼び寄せてしまえば…

「…やっぱりいけない!! アンジュさんを呼んじゃいけないっ!!」

毅然と顔を上げた由希はもう一度叫んだ。しかし、カラカラに渇ききった彼女の喉からは、不思議そうに首を傾げるズシを説得する言葉は滑らかに出て来ない。

「…ア、アンジュさんだって…地上に家族がいるでしょ!? もしこっちに来ちゃったら…」

「…彼女は孤児だ。僕と同じように。」

にべもない答え。しかしズシは確かに由希の言葉に耳を傾けていた。彼は類いまれな頭脳の代償に少し…想像力が欠けているのだ。由希は拳を握りしめ、彼の心に届く言葉を必死に探し続けた。

「で…でもアンジュさんは…もしかしたら好きな人がいるかも知れない!!そう、いつか結婚したいなぁ…って思ってる人が!!」

思いつくまま叫ぶ由希の脳裏で、見知らぬアンジュは母の姿をしていた。父と出逢い、結ばれる前のうら若き母の姿。『クラス一の美人だった』という父の言葉は、はたして本当だったのだろうか?

「…もしかしたらもう結婚してて、そう…赤ちゃんがいるかもしれない!!」

虚弱な赤ん坊だった由希。しかし両親は惜しみない愛で、彼女を腕白な小学生へと育てた。始めは泣きながら通ったスイミングスクール。そう、いくら溺れても、決して母に飛び込んでもらう訳にはいかない渾身の力泳を、由希は今なお続けているのだ。

「…それで、それで…また赤ちゃんが産まれて…忙しくて、忙しくて…」

…その弟たちも今は、自分と一緒に『こちら側』の住人だ。由希はもう自分でもなにを言っているのかよく判らなかったが、静かに装置から離れたズシの手は、彼女の震える肩に伸びていた。

「…ちょっぴり家計が苦しくなっちゃって…お仕事へ出るために車を買って、弟たちを保育園に入れて…それ…で…」

ズシの白衣をギュッと握りしめた由希の唇から、絞り出すような涙声が途切れる。…もしかしたら最後の朝、自分たちが車内で兄弟喧嘩など始めなければ、まだ車に慣れない母は運転を誤ることなどなかったかもしれない…もしか…したら…

短くても光溢れていた十年の生涯。涙しか呼び覚まさぬ『もしも』を積み重ねても、あの眩しい日々は決して戻らない。
それならば、父母が与えてくれた不滅の魂を遥か再会の日まで磨き、誇らしく輝かせ続けよう…

「…ユキちゃん、僕の想定は、かなり甘かったようだ。視野に入れるべき可能性をたくさん教えてくれてありがとう…この装置は…壊すことにするよ…」

ズシは神ではない。しかし幼い魂の慟哭をしっかりとその心で聴きとった若い魔道士の姿は、あらゆる者が心に描く全能の存在に、とてもよく似ていた。

「…さ、ユキちゃん。危ないから…」

由希を優しく宥めながら、ズシは傍らのハンマーに手を伸ばす。そのとき泣き続けていた由希が、白衣の裾に顔を埋めたまま、小さな囁きを洩らした。

「…ね…ズシ、機械を壊す前にひとつだけ…私のお願いを聞いて…」


…カタカタ…

子供部屋の不審な物音に、佳世子はぼんやりと蒼白い顔を上げた。由希たちとの思い出が詰まったあの部屋に入るのは、この悪夢のような日々で最も辛いことの一つだ。
だが、ひょっとしたら慈悲深い侵入者が、抜け殻のような自分の生を終わらせてくれるかも知れない。
子供たちを失って以来、ずっと続いている耐え難い耳鳴りのなかそう思った佳世子は、雨戸を閉め切ったリビングを亡霊のように横切って、ふらふらと二階にある子供部屋へと向かった。

…カタカタ…カタ…

物音は、軋む階段の音に混じって続く。しかし佳世子の浅い眠りは何度、残酷な幻聴に破られただろう。…由希の、真の、拓の明るい笑い声。
しかし狂ったように彼女が駆け込む薄暗い子供部屋には、いつも寂しげな玩具たちがあの日のまま転がっているだけだった。

ドアを開けると佳世子を包み込む、子供たちの甘い匂い。胸を締め上げる、暖かい日差しのような残り香だ。そして彼女の落ち窪んだ目に映る玩具は遠い遠い倖せの化石。その中に、カタカタと震える見慣れた木箱があった。

(…ネズミ?)

由希が幼い頃に買い与え、そのあと弟たちが受け継いだ四角い積み木のセットだ。色鮮やかに五十音が印刷されたこの積み木で、由希はよく弟たちに平仮名を教えていたものだ。
箱の隙間からうっすら洩れる光に佳世子が驚いていると、木箱の振動は唐突に止んだ。
…几帳面だった由希は、いつもちゃんと順番に平仮名を並べ、積み木を片付けていた…膝をついた佳世子がそんな回想と共に手にした木箱は、なぜか驚くほど軽い。

(…由希…)

懐かしい箱の手触り。佳世子はそのとき確かに娘の息遣いを感じた。すぐそこに…由希が微笑んでいるような…
コトリ、と木箱の蓋を開いてみる。するとぴったりと詰まっていた筈の積み木は、たった五つを残して、箱の中から消え失せていた。

『あ』『い』『し』『て』『る』

何処かで、くふふっ、と由希が笑った。日々佳世子も知らぬ新しい世界を切り拓いてきた彼女が、驚く家族によく見せた得意げな微笑み。
子供たちは暗く冷たい世界にいるのではない。少しだけ遠い場所にいて、こうして変わらぬ愛を胸に、佳世子の愛し子であり続けているのだ…
やがて、茫然と積み木の文字をじっと見つめる佳世子の喉から、澱んだ闇を振り払い、冥府にまで轟くような嗚咽が迸る。
…この涙が涸れたとき、由希が残していった五つの積み木が心の穴をぴったり塞いでくれる。そうしたらもう一度立ち上がって、家じゅうのカーテンを全部開けよう…そう佳世子は思った。


おわり



+ タグ編集
  • タグ:
  • シェアードワールド
  • 地獄世界

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

目安箱バナー