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或る朝の風景

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或る朝の風景





「…パパ、どこへ行くの? もうお店開ける時間?」

「いいから、早く着替えるんだ!!」

眠たげな瞳で自分を見上げるまだ幼い娘を急かしながら、マグレブは泣き疲れた妻の肩を抱いた。まだ薄暗い寝室に差す弱々しい朝日が、憔悴しきったマグレブの髭顔にさらに幽霊じみた彩りを与える。

「…ねえマグレブ、やっぱり逃げらっこなんかないわ。今からでもなんとかクモハに頼めば…」

「もう遅いんだ。『ロッベナイランド』の有り様を見ただろう? 俺たちが…馬鹿だったんだ…」

いつもと何も変わらぬ朝。この十数年、マグレブと妻はこうして暗いうちに起床し、階下の小さなコーヒースタンドで夫婦揃って仕事に汗を流してきた。
表向きは堅実で、なにも変わり映えのない毎日。先日、店の持ち主であったメルクリン老人が『不運な事故』で亡くなり、彼の老いた未亡人から、長年の夢であった店の所有権を破格値で買い取るまで…
それまでマグレブの暮らしは、ずっと『王朝』に守られてきた。クモハや光、國哲。まだ所帯を持つ前、皿洗いの青二才だった頃の悪友たちはコーヒースタンドの常連で、先代店主のメルクリン老人も『王朝』への友情の証を欠かした事はなかった。
カーニバルの日、聖ニコライ孤児院に届ける山盛りのサンドイッチにレモネード…そう、マグレブは確かにかつて『子供たち』の兄弟だったのだ…

「… ビコは…死んだのかしら…」

スカーフを目深に被り、娘の身仕度を手伝う妻がポツリと呟く。あの凄惨な制圧戦で彼が生き延びている筈がない。『アンク』は壊滅し…そしてスティーブ・ビコは死んだ。

「…ねえパパ、今日はピアノの先生がみえる日よ? お出掛けするんなら先生に知らせなきゃ…」

娘の才能を惜しみつつ、高嶺の花と諦めていたピアノ。ふらりと来店し、むっつりとコーヒーを啜っていたビコに少し愚痴を漏らしただけで、次の日中古のピアノと若い音楽教師がマグレブのもとに現れた。
しばらくの間、階上から響くたどたどしい旋律にクモハは不審な瞳を上げたが、そのうちすぐ古い仲間たちの質問は止んだ。マグレブが『友情の証』を婉曲に拒み始め、クモハたちは朝のコーヒーを飲みに来なくなったからだ。
長年の付き合いを邪険に絶った店子の行動を、店の所有者であるメルクリン老人は厳しく咎めたのは当然だろう。マグレブ夫婦の解雇すらほのめかした老人は『アンク』への嫌悪まで、露骨に口にしたものだ。
そして、『賎しい浮浪児』どもが来なくなった祝いを是非したい、とビコがマグレブ夫妻に持ちかけたとき、大恩あるメルクリン老人の顔は、マグレブにはもう厄介な『王朝』の回し者としか映らなくなっていた。

『…君が薄汚れた孤児を追い出したのは店の為だろう? 耄碌すると…人間は扱いにくくなる。店の権利の件も含めて、メルクリンさんには俺が…話してやるよ…』

下町に不動産を沢山持っているメルクリンが、そろそろ長年仕えてきた自分たち夫婦に店を譲るのは当然のことだ。そんなマグレブの憤慨にどす黒く笑って答え、配下を伴って店を出たビコ。
その笑みの意味を鼻歌でごまかしながら、マグレブは古ぼけたカウンターを懸命に磨き続けた。そして、メルクリン老人が階段で足を滑らせ、不可解な転落死を遂げたのは、それからすぐの事だった…

「…一体、どこへ逃げるの? この街には逃げ場所なんてないのに…」

妻の言う通り、『王朝』の情報力の前には安全な場所などどこにも無い。『子供たち』の友であったメルクリンの死の真相。マグレブの忘恩。全ては彼らに筒抜けであり、この閉ざされた街には脱出の道は存在しない。ここは『閉鎖都市』なのだから。

「…あ、クモハの足音…久しぶりだね!!」

突然、娘の鋭い聴覚が、階下に恐ろしい来訪者の接近を聴きとった。ひしと抱き合う妻と娘を残し、マグレブは震える脚で部屋を後にした。
もし、噂に過ぎぬ告死天使が舞い降り、自分たち家族をこの陰鬱な都市から飛び立たせてくれたら… そんな夢想を嘲笑うように、店舗へと続く階段がギシギシと鳴る。
清潔に片付いた店の扉を開けると、コートのポケットに手を入れたクモハが薄明の通りを背に立っていた。

「…やあ、マグレブ。」

『アンク』と共に清算されるマグレブの運命は、クモハの悲しげな瞳にしっかり刻まれている。寡黙にクモハを招き入れたマグレブの手は、気付かぬ間に習慣通りコーヒーを淹れ始めていた。

「…クモハ、女房と娘だけは、助けて貰えないか…」

目を伏せていつもの席に座ったクモハは、肩を震わせて長い間黙り込んでいたが、やがてコーヒーの薫りが狭い店に立ち込めてくると、絞り出すような声で、短く友であったマグレブに告げた。

「…それが出来れば…光も國哲も一緒に来たんだよ。マグレブ…」


おわり


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