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「窓の無い塔」

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「窓の無い塔」




閻魔庁の地下深く、その虚ろな口を開けた無間地獄。地獄の閣僚による慎重な審議を経て、閻魔大帝の裁決を得なければ決して開かれる事の無い恐ろしい『虚無』への縦穴。
魂すら塵となり、転生もかなわぬ完全な消滅という極刑を受ける魂は少ない。しかしこの日、ある条件と引き換えに自らの意志でこの奈落へ墜ちるようとするものがいた。
その名を『我蛾妃』。底知れぬ魔力と邪悪さを備え、幾度となく人界に大きな災禍をもたらした悪霊『蛾我妃』は、悪運尽きて捕らえられ、閻魔庁の広大な敷地の一角に聳える、窓の無い塔に幽閉されて久しい。
しかし今なお狂信的な崇拝者を人界に持ち、『邪神』とすら呼べる魔力を秘めた彼女にその幾多の罪業にもかかわらず無間地獄への引導を渡す者は居らず、今日まで冥府の住人たちは少なからぬ戦慄を常に感じつつ、忌まわしい虜囚の塔を見上げてきたのだった。


(…閻魔庁は、我蛾妃の請願を受諾し、無間地獄への放逐を決定するものとする。)

獄卒長紫角は、未だ彼の前に姿を見せぬ統括長官が、おぼろげな霧のなかから下した信じられぬ通達に低い唸りで応えた。

「奴の…要求については!?」

(…君たちの関与するところではない。)

「し、しかし…」

先日、我蛾妃から突然の呼び出しを受け、最初に彼女の申し出を聞いたのは他ならぬ紫角だった。鬼たちの長であるこの精悍な牛面の指揮官に、長い拘禁を経て未だ妖艶な我蛾妃は、そのどす黒い本性を微塵も感じさせぬ柔和な笑顔のままで囁いた。

『…赤子の魂が喰いたい。』

恐ろしい言葉を発するふくよかな唇。無邪気そうに細く下がる目尻。全てが彼女の肉体に食い込む禍々しい拘束具とひどく不釣り合いだった。

『…囚われの身にもほとほと飽いての。されど、ひもじいまま死ぬるのはまっぴらじゃ。真っ白な…罪汚れの無い赤子を喰ろうて…』

…それから、安らかに無へと還りたい。初めは彼女らしい策謀もしくは邪悪な冗談と考えた紫角は全く取り合わなかった。
しかし彼女が閻魔大帝と直々に話したいとまで言い出すに及び、牛頭大将紫角は我蛾妃にしばしの猶予を乞って、閻魔大帝に代わる彼ら獄卒の新しい統率者『統括長官』にこの未曽有の事案を上申したのだった。

「…では、奴に赤子を呉れてやると!?」

罪と迷いに満ちた魂に溢れるこの三界で、穢れなき子供の無垢な魂は最も尊ぶべき宝、と考えるのが地獄の鬼だ。長く我蛾妃の処刑に凄まじい抵抗と甚大な被害を想定していた地獄の法廷にとって、この度の要求は千載一遇の好機であるのは確かに真実だ。
しかし地獄の倫理を曲げてまで、罪無き赤子を生贄に捧げることは、紫角のみならず全ての獄卒が断じて承服できることではなかった。

「お言葉ですが閣下!! 我々は…」

(…以上である。)

紫角が鼻息荒く睨んだ茫漠たる闇のなかに、一切の感情を覗かせぬ上司、『統括長官』の強く静かな気配はすでになかった。



「にゃあっ!! ら、嵐角さまあ!!」

慈仙洞嵐角。生まれ落ちてすぐ、哀れにも命を落とした嬰児の魂が集う『慈仙洞』を管理する女鬼である。
身の丈六尺を優に超える逞しい躯と豪放磊落な性格はおよそ子守には縁遠く人に映るが、その母性溢れる胸に赤子を抱え、幾千の泣き声が響く慈仙洞狭しと駆け回る彼女を慕う者は多い。

「…嵐角さまあ!! り、竜が、おっきな竜が閻魔庁のほうに飛んできましたぁ!!」

そして、ゆさゆさと揺れる胸を窮屈そうにエプロンに収め、慌ただしく慈仙洞に駆け込んできた少女の名はチャナ。野暮ったい三つ編みの髪は夜魔族らしからぬ蜂蜜色だ。

女官見習いとして宮廷に上がったのだが、悲しいかな城内の小うるさい作法や派閥の確執について行けなかった彼女は、追い出され路頭に迷っているところを唯一の取り柄である巨乳を嵐角に見いだされ、赤ん坊の世話係として慈仙洞で働いているのである。

「…神仙界から来た監視の竜だね…いよいよ我蛾妃が塔を出た…」

武装した部下と共に慈仙洞を出た嵐角は、その鋭い眼光で遥か我蛾妃の塔を睨み、獄卒長紫角の密命を思い出しながら愛用の戦棍を握りしめた。
『誰の命令であろうと決して赤子を渡すな』だ。新参の『統括長官』が何者か知らないが、もとより大切な赤子には指一本触れさせない。

「…チャナ、奥に入ってな。」

「で、でも…」

「大丈夫。大丈夫だから。

嵐角たち鬼が絶対の忠誠を誓ってきた閻魔庁が、法と正義を曲げてまで我蛾妃の処刑を断行するとは思いたくなかった。
しかし、彼女と仲間がこの慈仙洞の赤子たちを守り抜いても、生贄の赤子の魂など幾らでも不正に入手出来るのも現実なのだ。堕天狗、ベール・シンジケート…

「…せめて、聡角がいてくれればねえ…」

緊迫する地獄の空気をビリビリと感じながら、この優しき女鬼はため息を洩らす。閻魔庁獄卒隊の副官、明晰な頭脳と俊敏な判断力を持つ青鬼の聡角は、この厄介事が持ち上ってすぐに閻魔庁からの別命で姿を消しているのだ。
彼がいれば、このような反乱まがいの緊張状態は避けられたかも知れない…
いずれにせよ無間地獄の蓋は開いた。今頃紫角たち本隊は我蛾妃を塔から連行し、長い回廊を恐ろしい無間地獄に向けて行軍しているに違いない。果たして我蛾妃は奈落の傍らで、最期の晩餐にありつく事になるのか…


「…そういえば、聡角どのの姿が見えんの…お風邪でも召されたか…」

朗らかに軽口を叩きながら、絢爛たる衣装に身を包んだ我蛾妃は、自らの血塗られた生涯を終える『無間地獄の間』へ優美に歩を進めた。立ち並ぶ冥府の文官と、この地下まで自分を連行した鬼たちを見回した彼女は、愉快そうに小首を傾げる。

「…さて。」

美しく死化粧を施した顔に、相変わらず悔悟や諦念の色はない。だが策略と欺瞞に満ちた我蛾妃の生涯を知る紫角たちはいかめしい態度で彼女の監視を緩めなかった。

「…閻魔大帝陛下の代理到着までしばし待つよう。」

白髭の文官がうわずった大声を上げる。部屋の誰もが、非常事態に備え閻魔庁の上空に集結した神仙たちの強大な気に脂汗すら浮かべていたが、我蛾妃は全く気にも留めぬ素振りで、軽やかに奈落の縁へと歩み寄る。
人界では深い地の底にあるとも言われてきた死者の集う異界、地獄。そしてその最深遠に存在する無間地獄。逃れる術のないその虚無を覗き込んだ彼女は無表情にその感想を告げた。

「…なんと…深い…」

恍惚とも戦慄ともつかぬ謎めいた面持ちで我蛾妃がその美しい顔を上げたとき、突如として重苦しく澱んだ空気にそぐわない素っ頓狂な声が『無間地獄の間』に鋭く響いた。

「お、お待たせしましたニャ!! 閻魔大帝よりの下賜品…ですニャ。」

飛び込んできた声の主は細身の躰を濃紺の仕着せに包んだ女官だった。緊張に耳をピンと立てた夜魔族の彼女は、その胸にしっかりと幼い赤ん坊の霊体を抱いている。

「宮廷…侍女長!?」

ざわめきを抑えられぬ部下たちのなか、紫角の瞳が暗く曇った。彼が信じてきた地獄の秩序は崩れ去ったのだ。清浄な輝きを放つ赤子の魂がどこから運ばれのかは判らないが、紫角と部下たちの儚い抵抗は、たった今空しい徒労に終わった…

「…ほほ…大儀であった侍女長どの。それでは、頂こうかの…」

優雅に侍女長の抱く赤子を受け取った我蛾妃は、獄卒たちの憤怒の視線を浴びながら嬉しげに獲物を眺める。果たして新たな指導者は、惨い犠牲の上にこれからも地獄の安泰を築いてゆくのだろうか…

「可愛いやのう…なんとも旨そうじゃ…」

居並ぶ幾人かがたまらず眼を背けるなか、手の中の赤子をじっと見つめる我蛾妃の姿は、まるで鏡に映る自らの顔を眺めているようにも見えた。しかし、その邪悪な眼差しをまっすぐに見つめ返す、まだ恐れを知らぬ赤子の魂はキャッキャ、と明るい笑い声を立てる。

「…可笑しいか?」

低い声だった。いつもの道化じみた嘲りの声音ではない、真摯とも言える我蛾妃の問いに赤子はまた愛らしい高笑いで答える。悄然と逞しい肩を落としていた紫角がゆっくりと顔を上げた。

「…そうよのぅ…可笑しいのう…浅ましい人喰いの浅ましい最期…可笑しいのう…可笑しいのう…」

詠うように囁き続けるこの罪深い妖姫がかつて誰かの娘であり、母であったのかは誰も知らない。だが紫角は顔を伏せた我蛾妃の頬を伝い、赤子の柔らかな頬に落ちた一粒の雫を確かに見た。

「…なにやら…喰う気が失せた。」

ぽつりとそう呟き、我蛾妃は静かに立ち上がる。向かい合う紫角に見せた菫色の瞳に、涙の跡はもう微塵も残っていなかった。

「…もともと、男の子はあまり口に合わんしの…紫角どの、手間を取らすがこの子が人界のどこか良い母に生まれるよう、計らってやってくれんか…」

差し出された赤子を、紫角の太い腕がおずおずと受け取る。彼が我蛾妃の願いに答えようと乾いた唇をそっと開いたとき、数百年の齢を重ねた悪霊我蛾妃は一匹の華やかな蛾のように、永遠の虚無が待つ無間地獄へその身を踊らせた。


「…隔壁確認。『無間地獄』閉鎖します。」

誰もが複雑な想いを胸に秘め、寡黙に閉ざされてゆく無間地獄の前に立っていた。閻魔庁を取り巻く神仙の気配も消え、激しい脱力感のなか紫角は不器用に抱きかえた赤ん坊に呟く。

「…良かったな。すぐに…」

「いいから早く降ろせ。獣くさい。」

赤ん坊はぎろりと紫角を見上げて無愛想な言葉を発し、一瞬獄卒長としての威厳も忘れてグゥと驚愕の鼻息を洩らした紫角の腕からひらりと飛び降りた。

「な、な!?」

「殿下!! ご無事でしょうかニャ!?

呆然と見守る一同のなかで、いそいそと走り寄る侍女長だけが赤ん坊の正体を知っていたようだった。やがて妖しく光る赤ん坊の霊体は急激に成長し、十歳ばかりの少年、誰もが知る地獄の皇太子の姿となった。

「…ペッ!! 『口にあわぬ』のはこっちだっつーの!!」

顔をしかめた彼が床に吐き出したもの、それは一匹の小さな芋虫だった。弱々しく蠢くその赤い幼虫は、待ち構えた侍女長の手で素早く小さな瓶に収められた。

「捕獲完了ですニャ!!」

「…で、殿下!! これは一体…」

ようやく我に返った紫角が目を白黒させながら尋ねる。ちょっと…ついていけない展開だ。

「…我蛾妃の極小化された魂だよ。奴がこっそり涙に忍ばせて僕の体に染み込ませたんだ。」

「我蛾妃の…魂!?」

「赤子の魂に極限まで圧縮した自分の魂を隠して、お人好しのお前ら鬼の手で人界に転生させる…なかなかの名演技だったけど、奴の企みはハナっから僕にはお見通しだった。」

得意げに語りながらもチンチン丸出しの主人をマントで被いつつ、侍女長は説明を補足する。

「…シンプルな変身こそ難しいニャ。『穢れなき魂』ニャんて特に殿下とは程遠いですし…」

「…うるせーよ。」

彼女の策略を見抜き、見事に裏をかいた年若い皇子に畏敬の念を抱きつつ、紫角は我蛾妃の大芝居にまんまと騙された自分を恥じた。獄卒の長として部下に顔向け出来ぬ大失態だ。

「…ま、気にすんな。お前らに作戦を教えないほうが我蛾妃を油断させられる、っていうのも、僕の計算の内だ。」

「…恐れ入ります…」

そのまま黙り込んだ紫角を宥めるように、次なる閻魔大帝は弾んだ声を上げた。

「…さーて、我蛾妃の塔がめでたく空いたから、僕専用のゲーセンでも造るかな。いや、改築して分譲マンションにすれば…」

「…殿下!! 宮廷女官の宿舎も老朽化がひどいですニャ!! ここはひとつジャグジーとムード照明付き夜這い大歓迎女子寮に!!」

「全力で却下。」

臣下たちが唖然と見守るなか、二人の主従関係とは思えぬ息のあった掛け合いは延々と続いた。


(…おい聡角、持ってきてやったぞ…)

『殿下』の思念と共に、赤い毒虫が封じられた小瓶が、コトリと聡角の机の上に現れた。

「…恐れ入ります。上首尾だったようですな。」

立ち上がり恭しく頭を下げた聡角は、小瓶の中でもがく虫を興味深げに見つめる。紫角や仲間たちには気の毒だったが、『移魂』の専門家である自分が立ち会えば用心深い我蛾妃の警戒を招く、という聡角の判断は正しかったようだ。

「…見事ですな。霊子配列まで変えて完全に正体を消している。もっとも知能も魔力も赤ん坊程度ですが…」


(…そして構成霊子の98%が純粋な『悪』。いっそ無間地獄へ捨てたほうが良かったんじゃねーか?)

「…いえ、残る2%の部分と話してみたいのです。まあ、そこまで育つにはどれだけ掛かるか判りませんがね。」

(…テメ!!…て…!!◎#☆!!)

…遠い空間の向こう側で、なにやら『殿下』と侍女長らしい意識が騒がしく争い始めた。再び瓶の中をそっと覗き込んで微笑んだ聡角は、もう一度年若い主に丁寧な感謝の言葉を送った。

「…感謝致します、『統括長官』閣下…」

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