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「霧笛を待ちながら」

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「霧笛を待ちながら」




怜角に手を貸して『いすぱにあ』に続く霧深い桟橋を渡りながら高瀬剛は弾んだ声を上げた。

「…この店は旨い海鮮焼き飯を食わせます。自分が最近、一番贔屓にしている店であります。」

波に揺れて重い軋みを上げる『いすぱにあ』は異国の幽霊船だ。なぜか三途の河口へ迷い込み、座礁して立ち往生していたところを酒呑系列の企業に乗組員ごと買い取られたこの船は、改装の後シーフードレストランとして営業を始め、かなりの繁盛を見せている。

「…やあリカルド、展望席は空いてるかな?」

のっそりと二人を迎えた給仕、長身で鷲鼻の船幽霊に声を掛けながら、剛は伴った美しい女鬼、怜角を店内にエスコートする。その颯爽とした立ち振る舞いは、生前は優秀な軍人だった剛らしい、堂々とした快活さに溢れていた。

「…昨日は貴女が来てくれて、本当に助かった。全く『渡し守』の偏屈さには、ほとほと手を焼いておる次第でありまして…』

先の大戦で戦死して以来、三途の川から冥土へと上陸する亡者の移送業務に就いている剛は、しょっちゅう頑固な『渡し守』と衝突する。
昨日も危うく融通の利かない『渡し守』が亡者の引き渡し拒否を始めそうなところを、たまたま居合わせた怜角の協力で無用のトラブルを回避できたのだ。

「…高瀬さまは、何故移送のお仕事を? ずいぶん長く此処に留まっておられるようですが…」

普段は無口な怜角が控えめながら朗らかに問いを発する。昨日の礼だと宿舎に押し掛け、強引に彼女を食事に誘ったこの朴訥な元軍人は、亡者が鬼に抱くある種の畏れを全く持たぬ、怜角の知る数少ない人物の一人だ。
休日のほとんどを宿舎で過ごす怜角が、こうして様々な魔の行き交う賑やかな沿岸地域に仕事以外ど足を運ぶことは本当に珍しかった。

「…話せば長くなります。あ、章魚の和え物も旨いですよ。」

屍鬼めいた赤毛の給仕に次々と料理を注文しながら、剛は自らの経歴をぽつり、ぽつりと怜角に話し始める。名前の通り怜悧という形容がぴったりのこの鬼に少しはにかみながら話す剛は、かつて『軍神』と呼ばれた男だった。


先の大戦は人の世だけでなく、この地獄界にも未曽有の大混乱をもたらした。日夜到着する膨大な死者に、神代以来の旧態依然とした体制では対応出来ないと判断した閻魔庁は非常事態を宣言した。
すなわち能力ある亡者を獄卒の補佐に任命し、夥しい戦死者の管理に当たらせるという方策だ。戦場にも等しい阿鼻叫喚の巷となった賽の河原でも冷静さを失わず、常に民間人死者の優先に尽力し続けた青年将校、高瀬剛陸軍中尉に白羽の矢が立ったのは当然のことだった。
優秀な士官として南方戦線に出征し、部隊を救うため華々しい戦死を遂げた軍神高瀬中尉。まだあどけなさすら残す彼の軍組織や戦況に関する深い知識に助けられ、地獄界はこの難局を辛うじて乗り切ったのだ。
そして月日は流れ、悲惨な戦争被災者が地獄に運ばれてくることはなくなったが、その卓越した業務能力と誠実な人柄で『渡し守』や獄卒幹部の厚い信頼を受けた高瀬中尉は、転生の資格を保留して地獄に留まり、仕事を続けているのだった。


「…や、怜角さんの事も聞かせて下さい。自分は、どうもその、女性と話すのが下手で…」

「あ、はい…」

湯気を立てて並び始めた海の幸を前に、怜角が少し憂いを帯びた瞳を伏せたとき『いすぱにあ』の重い扉が乱暴に開いた。ドヤドヤとなだれ込んできた一団を見た剛がガクリ、と頭を垂れる。
その集団、戦後六十余年を経て未だ彼を苦しめる旧軍の亡霊は、二人の寛ぐ眺めの良い展望席へと、脇目も振らずに突進して来た。

「…こちらでしたか!!高瀬小隊長殿!! 」

震える手で敬礼を送る迷惑な来訪者はみな時代がかった軍服を着ていた。しかし…曲がった腰と皺だらけの顔が、この野暮な来客がかなりの高齢である事を告げている。
への字口でちらりと怜角を眺めてから、老軍人の一人は直立不動らしき姿勢で言葉を続けた。

「…本日、戦友である田宮上等兵がこちらに参りますっ!! 高瀬小隊長殿におかれては、何故こんな所で油を売っておいででしょうか!!」

「…まだ船は着かんだろう…それより貴様、御婦人の前で失敬だぞ!!」

「…別嬪な鬼殿でありますな…」

申し訳無さそうに怜角の顔色を窺う剛の横で、年老いた日本兵たちは興味津々たる眼で呆気に取られる彼女を眺めている。この老人たちこそ、剛が未だ地獄に留まっているもう一つの理由だった。


『冥土で逢おう』

迂闊にこんな約束をしてはならない、と高瀬剛は痛切に思う。
遥か昔、確かに剛はこの言葉を遺言にして、部下たちを守り壮絶な爆死を遂げた。その英雄的行為で命を救われた剛の部下たちは皆彼の言葉を胸にしっかりと焼き付け…そしてその過半数がその後、とんでもなく長生きしたのである。
最初の一人が冥土にやって来たときは剛も感涙に咽んだのだが、すぐに彼は容易ならざる事態に閉口することになった。この類の生前での口約束は霊魂の世界において、のっぴきならぬ拘束力を持っている。
比較的早くやってきた部下に説得された剛が男らしく地獄に腰を据えたのをいいことに、どこからか軍服を調達し、無許可で野営基地まで造営したかつての部下たちは、
あの時居合わせた戦友が全員揃うまで地獄を離れないと勝手に決め、冥土の住人に迷惑を掛けつつ剛につきまとい続けているのだった。


「…なのに、倅は自分が倒れるとすぐに、自分が女房や職人と汗を流した工場を閉鎖して、生産拠点を全部中国へ移したのでありますっ!! よろしいですか!? 素晴らしい靴ベラとは…」

…せっかくの展望席はむさ苦しい一団に占拠され、いつの間にか二人の初デートは『田宮上等兵の到着を待つ宴会』と化していた。図々しく怜角の隣に座りこんだ岡野伍長が、また生前の愚痴をまくし立てている。
終戦後、さまざまな産業界で活躍した者も多いのだから、いいかげん余所で盆栽なりゴルフなりでも楽しめばどうか、と剛はいつも言うだがこの困った老人たちは全く聞く耳を持たない。

「…申し訳ありません。せっかくのお休みを下らない長話で…」

しかし、消え入りそうな声で詫びる剛に、アルコールで頬を少し赤らめた怜角は明るく答えた。『いすぱにあ』名物の強いラム酒で、既に全員がかなり酩酊している。

「…いえ、うちの紫角隊長だって蹴鞠の話になるとすごく長いんですよ。『俺が源実朝に蹴鞠の極意を伝授してやった』とか…」

勝手にまたオードブルを追加した老人たちと愉しげに談笑する怜角を見て、剛は苦笑しながら思う。士官学校から南方戦線、そして僅か二十歳でこの冥土へ。つくづく自分は女性と縁がない性分だ。
今度生まれ変わったら、多少は艶っぽい人生を歩めればな。…怜角のように清楚な女性がいつも傍らにいるような…
窓から見える水面に、賑やかな幽霊船の灯りは映っていなかった。大航海時代、家族のもとへ帰ることが出来なかった水夫たちが、遥か異郷の地獄で調理と接客に追われている不思議。
遠からず全ての戦友が揃ったとき、果たして自分はどこへ行くのだろう。果てしなく流転する自らの魂に、いつか寄り添うもう一つの魂は現れるのだろうか…

…柄にもなく感傷に耽る剛の隣りに、グラスを片手に悪戯っぽい笑顔の怜角がそっと移動してきた。どきまぎと灼けるようなラム酒を一気に飲み干した剛は、賑わう店内に照れ隠しのような大声を張り上げる。

「…おおいリカルド!! ラムを樽で追加だ。それから貴様ら!! 焼海老が食いたい者は挙手しろ!!」


…微かに聴こえた霧笛に、短い微睡みに落ちていた剛は眼を開けた。肩に感じる重みにそっと視線を送ると、同じく睡魔に襲われたらしい怜角が癖の無い漆黒の髪から短い角を覗かせ、剛に凭れて愛らしい寝息をたてている。
彼女の神秘的な芳香に酔いながら、相変わらずの喧騒に満ちた店内を剛が見渡したとき、もう一度死者たちの到着を告げる霧笛が低く響いた。

「…船が着いたぞ!!」「田中上等兵だ!!」

興奮した部下たちの呂律の回らぬ叫び。ふらつく脚で席を立ち始めた彼らの歓声に、剛は名残惜しく怜角の肩を揺する。

「怜角…さん。」

「…あ…」

「大丈夫ですか?部下が到着したようなので、ちょっと行って参ります。」

我先に駆け出す老人たちを見送り、剛は静かに席を立ったが、むくりと椅子から腰を上げた怜角は、危なっかしく揺れながら剛の腕に縋った。

「わ、私も…お供致し…ます…」

揃って底無しの酒量を誇る筈の鬼が、ふらふらと覚束ない足取りで出口を探すのが可笑しかった。

「…無理しないで下さい。自分は田中上等兵を迎えたら、また奴らに付き合って朝まで軍歌の合唱です。今日は本当に…ご迷惑を掛けました。」


剛は姿勢よく踵を合わせ、怜角に宿舎まで送れぬことを謝罪した。二人が寄り添って深い霧に包まれた幽霊船を出ると、リカルドが手回し良く差し向けた鬼火が足元を照らす。

「…高瀬さま、私…まだまだ呑めますよ…」

…怜角の小さな囁きと、桟橋を駈ける老兵たちの気の早い万歳の唱和が重なり合って、少し火照った剛の耳に届いた。

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