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匿名ユーザー

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だれでも歓迎! 編集

一回戦 第十試合 創発亭串子 VS 社会

作者 ◆nac/9nxvbM

「屋台……?」


 第2回創発キャラトーナメントバトル会場。
都会と呼ばれる場所にありながらその格闘場の存在はほとんど知られていない。

 参加選手として招待状を受け取った男もそんな一人だった。
丁寧でありながら暴力的な文面の招待状と、あまりにも不親切な地図に翻弄されながら
やっとの思いで辿りついた開催場所は、ドアを開けるには勇気を必要とする怪しげな建物であった。

 だから心を決めて踏み込んだ先で見た赤提灯に、男は戸惑い、しかし僅かながらに安らぎを覚えた。

「イベントの出店?」

 古ぼけた昔ながらの木製屋台。
煤けた暖簾に赤提灯。赤いビニールの丸椅子が三脚。
繰り広げられる試合の熱気と興奮、喧騒と殺伐が混じりあう異様な空気の中、コンクリートの壁沿いに
まるで別の時間が流れているかのようにその屋台はひっそりと佇んでいる。

「……喉が渇いたな」

 自分に言い訳するように男は呟く。
ちらりと左腕を見る。美人店員に薦められるままに買ったソーラー発電式クロノグラフが光る。
だが機械音痴の男には無用の長物でその機能をまったく理解していない。

 それでも短針の位置が男を誘う。
土地勘がない上に意味不明な案内に迷い、何度か同じ道を歩いた。不親切な地図のおかげで
見栄えのしないダークスーツの下、男の身体はうっすらと汗を浮かばせていた。

 ごくりと喉が鳴る。

 飲んでる場合ではない。
しかし思えば思うほどにその誘惑に駆られていくのはごく自然なことであった。

「……理由なんて幾らでもあるさ」

―― 理由なんて幾らでも……

 声に出し、そして胸の中で唱える。
ゆっくりと屋台に向かい、男は暖簾に手をかけた。


「いまやってるか……い!?」

 声とともに暖簾をたくし上げた右手が止まる。
薄汚れた調理服に身を包み、鉢巻でも巻いた大将が男を迎えてくれる筈だった。

「いらっしゃいませ。どうぞ。大丈夫ですよ」

 白のブラウスに黒いロングスカート。後ろで柔らかく束ねられた黒髪。
薄く紅のはいった唇。そして開いた襟から覗く白い胸元。
何故か男を出迎えたのは、烏龍茶の宣伝で二胡でも奏でていそうな可憐な女だった。

「…………」

―― 二十代前半ってとこか。なかなかいいね。

「……っと。あ、ビール飲みたいんだけどいいかな?」

 挙動不審に陥る直前で、どうにか男は踏みとどまる。

「大丈夫ですよ。どうぞお掛けになってください。メニューはこちらになります」

 促されるままに男は丸椅子に腰をかけた。
すぐさま女はカウンター越しに男の前に袋入りの濡れナプキンを置く。
女の動きに遅れて、ほのかに甘くかすかにあんずを思わせる匂いが漂う。

―― くんかくんか、くんかくんか。

そして振り向き、女はデニム地の首かけエプロンを纏った。

―― ああん、エプロンは無しの方向でー。

 三十代後半。
分別は弁えている。当然男の口から願望が漏れることはない。

「お客さん、ビールは缶ビールでアサヒのスーパードライかキリンのクラシックラガーに
 なりますけどどちらになさいますか?」

「……えっと」

 不埒な衝動を悟られないように、男はゆっくりとホワイトボードに目を移す。
上手いとは言えないが愛嬌のある手書き文字でメニューの値段が連なれている。

   飲み物  ALL300円
 缶ビール、缶チューハイ、缶ハイボール、日本酒(ワンカップ)
   おつまみ ALL300円
 ソーセージ焼き、焼き鳥缶、えいひれ、あたりめ、枝豆、生野菜(トマトきゅうり)

―― 安いと言えば安いけど妥当なところか。まぁ一律300円なら楽勝。

 財布の中身を確認するまでもなかった。すぐさま男は注文を出す。

「スーパードライと、……それと、えいひれ焼いてもらおうか」

「かしこまりました」

 オーダーとともに女が動く。
僅かに雑音をたてた後、透明な使い捨てのコップが男の前に差し出された。

「どうぞ。いまお注ぎします」

「あ。ありがとう」

 言われるままに男はコップを取る。
屋台の中で、いかにも飲み気を誘う爽快な音が響いた。
むけられた缶ビールをコップを軽く傾けて受ける。

―― 飲んでる場合じゃないけど…… まぁ、いっか!  

コップを見つめ、僅かに男はためらう。
しかし水分を欲している体と美人に注がれたよく冷えたビールに逆らえる筈もなかった。

「かぁー、沁みるー!」

 豪快に喉を鳴らし、男はひと息でビールを飲み干した。
どうぞと女が微笑みかける。思わず唸ってしまったことを誤魔化すように、どうもと頭を
かきながら男は残りのビールを受ける。

「お客さん、いい飲みっぷりですね。見てて気持ちいいですよ」

 卓上コンロに火を入れ、手を動かしながら女は男に話しかけた。

「此処に来るのにちょっと道に迷ってね。無駄に歩いて喉が渇いてたんだ。あ、お姉さん
 ビールもう一本」

「はい、いまお出ししますね。確かに此処判りづらいですもんね。初めて来る人はそのまま
 素通りしちゃうことが多いらしいですよ」

「俺もその型だな。同じ道何度も行ったり来たりしてたよ」

 男と話しつつも女の手は着実に回っていた。
慣れた手つきで焼きあがったえいひれを皿に移す。そしてひと声と追加の缶ビールとともに
男の前に差し出された。
 焼きたての熱さに構わず男はマヨネーズを付けえいひれを口に放り込む。
旨みとマヨネーズの風味が混じりあい舌に広がる。磯の香りが熱とともに鼻腔を抜ける。
そしてコップに残ったビールで一気に喉に流し込む。

「くぅーっ」

 またしても声が漏れる。
そんな男を女は嬉しそうに見つめ微笑んでいた。

―― こりゃ当たりだ。

 一律300円のメニュー、およそ料理人には見えない可憐な女主。
ビールが飲めればいいと、たいして期待もしていなかった男の予想は見事に裏切られた。
改めて皿の上を見れば、えいひれの一切れ一切れはまるで七夕の短冊のように綺麗に幅が揃っている。
あらかじめ仕込んでいたとはいえ丁寧な仕事なのは一目瞭然である。
 えいひれをかじりながら新しい缶ビールを開け、手酌で飲む。そしてメニューを眺める。
胃に廻ったアルコールは食欲を増進させ、そして朝から何も食べてなかったことを男に思い出させた。

「……っと、生野菜って何かドレッシングとか付くのかい?」

「トマトにはマヨネーズ、きゅうりにはもろきゅう味噌がつきますが」

「じゃあそれで。マヨネーズは抜いてくれるかな」

「かしこまりました」

 三十代後半、独身やもめ暮らし。
意識しないとどうしても野菜不足になる。箸休めのつもりで男は注文を入れる。
 返事とともに女はすでに動いている。
一切無駄はない。それでいてどこか優雅さを感じさせる立ち振る舞いだった。

「どうぞ」

「あ。どうも」

 何の変哲もない、平凡な切り方のトマトときゅうりが同じ皿に並んでいる。
トマトを口に放り、続けざまに味噌をつけ、きゅうりをかじる。

「…………」

 別に舌が肥えてるわけでもない。
話の口実になればそれで男はよかった。

「お姉さんはどっか店の料理人なのかな?」

「いえ違います。一応調理師免許は持ってますけど、料理人なんておこがましくて
 とてもとても」

 男の質問に、大袈裟に手を振り女は否定する。

「そう。ならいいんだ」

「ちょっと気になりますね。もし差し支えなかったらどうしてそう思ったか教えて
 もらえませんか、後学のためにも」

 興味を抱いたのか、女は笑顔で身を乗り出してくる。
しめしめと思いながら、男はビール片手に女のご機嫌取りに動いた。

「……いや、別にたいしたことじゃないんだけど。切り口がね、シャープというかエッジが
 きいてるというか、ほんとに綺麗に切れてるなって思ってさ。
 独身なんで俺もたまにトマト切ったりするけど道具のせいか腕なのか切り口が潰れるって
 いうか澱むっていうか、もやっとした感じになるんだよね。それで失礼だけど見た限りは
 安そうな道具だしやっぱり腕の差かなって思ってさ」

「食べただけで野菜の切り口の違いが分るなんて凄いですね。お客さんこそプロの料理人
 じゃないんですか?」

「いや、俺はしがない教師だよ」

「うふふ、私もしがない屋台引きですよ。私の場合、ナイフは消耗品扱いなんですよね。
 100均の安物ですけど今日新しく卸したばかりなのでそう感じたのかもしれません」

 特別な答えを求めていた訳ではない。
きっかけになり話が弾む。男の狙い通りだった。


「お姉さんはいつも此処で店開いてるの?」

「何か大会やイベントがあるときは結構此処にいますね」

「不躾で悪いけど、この値段でやっていけるものなのかい?客側としては嬉しいけど」

「ええ、何とかなりますよ。平均すれば原価は四割切るくらいだし、それに手間がかかる
 ことはあまりやりませんから。売り上げの半分が私の取り分ってところですかね。
 あと今やってる大会の主催に知り合いがいるんで此処場所代掛からないんですよ。
 それも大きいですね。その代わり水も電気も一切使えませんけどね」

 男の質問に嫌な顔ひとつせず、女はざっくばらんに答える。

「なるほど。でも三席だし客回転しないと売り上げ上がらないんじゃないか?」

「ええ、そうなんですけどね。実を言うと屋台形式は暇なときだけで、忙しいときは
 椅子しまっておつまみのメニュー消して小袋のスナック菓子100円で売るんですよ。
 もう観光地の自動販売機と同じです。値段に納得できなければ買うなと。それでも
 やっぱり飲みたい人は結構買ってくれますからぼろい商売ですよ」

 そう言って女は舌を小さく出して笑った。

「なるほどねー。あ、ビールもう一本」

 女の話にうまくやるもんだと男は感心する。
そして残ったビールをコップに注ぎ、一気に飲みきる。

 はい。間もなく、どうぞ。
タオルで水気を切り女は男の前に缶ビールを置く。
確かに自動販売機。女の言葉を思い出し男はくすりと笑う。
銀色の缶をぼんやりと眺め、三本目と頭で数えたあと男は腕時計に目を移した。
この屋台に入って二十分、約束の時間まで二時間半。と複雑な面構えのクロノグラフが示している。

―― まだ大丈夫。余裕だ。

 ビールを手に取り男はプルタブを開けた。
爽快な筈の音もさすがに三本目となるとありがたみは薄い。それでも男はビールを飲み続ける。
女に気を使い横を向き手をあてておくびをひとつ。

「えーっと、焼き鳥缶て焼き鳥缶だけかな?」 

「いえ、ゆで卵と葱の串焼きが付きます。お客さん葱大丈夫ですか?ダメならソーセージ
 付けますけど」

 邪魔にならないように静かに小さな丸椅子腰をかけていた女が立ち上がった。

「葱焼きか、いいね。それたのもうか。それと一緒にワンカップも」

「かしこまりました。お酒、冷やですけどいいですか?」

「ああ、それで構わないよ」

 男の声にはいと返事を残し女は準備に取り掛かる。
まな板を叩くリズミカルな音のあと、卓上コンロに火がつく。


 だいぶ冷めてしまったえいひれをビールと一緒に流し込む。
そして男はまた腕時計を見る。たいして時は経ていない。それも判っていた。

 そっとスーツの左胸に手を添える。

―― それにしてもどうして俺なんだろうね? ふさわしい奴は他にいただろうに。

 スーツの内ポケット。
男は自答する。まるで生地越しに伝わる違和感に話しかけるように。

―― だから俺は……

「おまたせしました」

 ことりという音とともに、男の前に料理とワンカップ酒が置かれた。

「あ、……ありがとう」

「どうかされましたか?」

「あ、いや、ちょっと考え事しててね。何でもないよ」

 気遣う女に、男は何事もなかったように答えた。
そして料理とカップ酒を引き寄せる。

「そうですか。お客さん七味使われますか?」

「ああ、そうだね。ほしいな」

 葱焼きが二本、半分に割られたゆで卵の上に焼き鳥缶の具が乗っている。
手渡された七味をとんとんと振りかける。カップ酒の蓋を中身がこぼれないよう慎重に開ける。
 カップ酒に鼻を近づける。
甘くむせかえりそうになる独特の香りが男を襲う。ビールと混じった胃液が少しだけ上がってくる。
それでも構わずに男は一口ごくりと飲み込んだ。

「……さすがに日本酒は効くな」

「昼からワンカップって相当イメージ悪いですよね。ダメ人間の象徴みたいで。
 同じ昼酒でも蕎麦屋とかうなぎ屋だと粋に感じるんですけどね」

 飲み慣れないのか顔をしかめる男を見て女はちょっと意地悪げに笑う。
それが男に向けられた言葉でないことは男も理解している。

「はは、確かに」

―― その通り。試合前に酒飲むバカどこにいるって。

 苦笑を浮かべ男は頭をかく。
そして無造作に葱焼きを口に運ぶ。焼けた塩、七味、苦味、そして甘みが混じりあう。
余分なたれを落とし缶詰の焼き鳥をつまむ。

「なんていうかこれはこれで普通に旨いんだよな」

「あはは、すいません手抜きで。ほんとにコンロに乗っけて暖めただけですから。
 でも便利ですよね。酒のつまみにもなるし、葱と一緒に炒めれば焼き鳥丼になるし、
 そこに卵落とせば親子丼ですから」


 女の話に相槌を打ちながら男は着実にカップ酒を減らしていく。
ゆで卵を崩し焼き鳥のたれとからめ葱焼きですくっていく。そして酒の残りを
確かめ、先に出ていたえいひれと野菜もあと少しというところまで食べ進めた。
 大きく息を吐く。
腕時計に目を移す。そして女に声をかける。

「お姉さん、最後にもう一本ビールいいかい。それと何かマジックとかあったら
 貸してほしいんだ」

「これでいいですか?」

 最初に缶ビールを、遅れて数本のマジックペンを女は男に差し出した。

「うん、ありがとう」

 マジックを受け取り転がらないように置く。
缶ビールを開け、なにか決心したかのようにぐいぐいと煽る。
三本の缶ビールとカップ酒。そして缶ビールをもう一本。無遠慮におくびが出る。酔ったなと男は思う。
そしておもむろに内ポケットに忍ばせていた招待状の入った封筒を出し、カウンターに広げた。

―― これで終わりってな。

 マジックを取る。
そして思いをぶつけるように、男は黒いマジックで招待状に書きなぐった。


   戦う者としての矜持。
  どこにもない。はじめから。
  だから俺は試合を放棄する。


―― 控えの選手もいるはずだし、俺出ても場違いだし、無問題、無問題。

 かたりと音を立て、マジックペンが転がった。
訳も判らずに、それさえも可笑しく愛しく思えた。間違いなく男は酔っていた。自分が思う以上に。


「お客さん、選手の方だったんですね」

「あれ?何でばれた?」

 女の問いに男は上機嫌で答える。
相変わらずの笑みと軽やかな声。
男を選手と知っても、カウンターの向こうの女は何も変わりはしなかった。

「すいません。見るつもりはなかったんですけどね。さっき言いましたよね大会の主催に
 知り合いがいるって。それで招待状の封筒見たことあるんですよ。いいんですか?こんな
 ところで油売ってて」

 しばらく下を向いたあと、しかし男は何もなかったように答える。

「うん、確かにさっきまで選手だった。でももう選手じゃないよ」

「……どういうことですか?」

 僅かに表情が曇り、かすかに声のトーンが変わった。
女の変化を気づきもせず、男はべらべらと喋り始めた。


「俺は棄権する。今日はそれを言いに来たんだ。酷いんだぜ、この招待状。電話番号の記載
 間違ってるのかそもそも人がいないのか知らないけど、事務局電話しても全然誰も出ないし
 ファックスにも留守電にもならないし転送にもならないんだ。
 それでもう面倒だからばっくれようとも思ったんだけどさすがに大人としてまずいかなって
 思って此処に出向いたわけ」

「……棄権って、それでいいんですか?この大会に出るってそれなりに名誉なことですよね」

 女から笑みが消えた。
しかし気にもせず男は赤ら顔で大いに語った。

「ああ、別にいいよ。確かにはじめは浮かれていたさ、中学高校とそれなりに暴れていたし
 何とかなるかなってね。悪そうな奴らみんな友達って頃が俺にもあったし、不良の溜まり場に
 入るのも別になんともなかった。でも冷静に考えれば俺なんか出ても無駄なのは最初から
 判ってたことなんだ。
 お姉さんも此処の関係者なら判るだろ、この大会に出る面子がどんな奴らかって。百戦錬磨の兵、
 いや化け物じみた奴らの集いだぜ?ヤンキー崩れの俺なんて命が幾らあったって足りないよ。
 そんな大会になんで俺みたいなショボい奴が担ぎ出されたのかって話しさ」

「でもやってみなくちゃ分らないんじゃないですか? 結構番狂わせありますよ?」

 女は食い下がる。
男は自虐気味に笑いながら答える。

「はは、無理だね。同じ世界で生きる横綱と幕下なら番狂わせもあるかもしれないけど
 俺はその土俵にすら上がれないって言うか上がりたくない男だ。それこそ瞬き一つでダウンが
 関の山さ」

「…………」

 少しだけのしおらしさが女を無言にする。
しかし男のそれも束の間だった。すぐに尊大な口ぶりで続けた。

「それに俺の対戦相手はなんとか串子っていう名前の女なんだ。まぁ、もし試合しても俺が秒殺
 されるのは決定事項なんだけどさ。
 だけど、その女が化け物じみた強さでも、たとえ女の皮をかぶった正真正銘の化け物だとしても
 俺は女に手を上げるつもりはないね。俺にとって女とは愛でるものであって戦うものではない。
 男女がリングの上で戦いを語り合ってどうするよ馬鹿らしい。男女が語り合うのはベッドの上って
 相場は決まってるんだぜ。なぁ、お姉さん」

「……言いたいことは判りますけど、……なんていうか全然説得力無いですよお客さん」

 悪寒でも感じたのか、女は腕を組みぶるりと肩を震わせる。

「あれ、そう? おかしいな順番間違えたか。まぁいいや。
 そういうことで俺は棄権する。だからもう選手じゃない。でも俺は大人だから他人に迷惑を
 かけるつもりはさらさらない。
 選手集合時間まで二時間、試合開始まで実質三時間の余裕がある。
 まずこれから俺が事務局に棄権を伝える。
 控え選手が何人がいるはずだから事務局は選手を手配して試合編成を変更する。
 俺の対戦相手は俺みたいなヘタレじゃなくて骨のある奴と試合が出来る。
 一人だけだけど、選ばれた控え選手も本選手として試合に出られる。
 観客も秒殺で終わる試合よりも遥かに面白い白熱した戦いが見られる。
 ははっ、どうだい?俺が棄権するだけでこんだけメリットが増えるんだ。
 逆に俺に感謝してもらいたいくらいだね」

「……お客さんがまっとうに選手として出場するのが一番迷惑をかけないことだと思いますが」

 もはや男はたちの悪い酔っ払いに成り下がっている。
あきれ顔を通り越し蔑む目で男を見つめ、女は言い放った。


「おや、お姉さんひょっとしてS? 俺みたいなヤサ男の公開処刑見て悦ぶタイプ?」

 女の問いに答え、男はニヤニヤと笑う。

「ち、違います!そういうことじゃなくて!」

 強い否定。
しかし舐め回すように女を見て男は更に続けた。

「ははーん、どうやら図星だね。いいねいいね、お姉さんエナメルスーツとか似合いそうだから
 女王様に転職したら売れっ子になるんじゃね?」

「……お客さん、ちょっと飲みすぎのようですね。……そろそろ事務局行ったほうが
 いいんじゃないですか」

 男を睨む。
もう女の瞳には憐れみの色しかなかった。
だがそれも通用しない。男はからかうように女の顔色を伺った。

「あれ、もしかして怒った?」

「怒っていません!」

 まったく男は懲りていない。
しかし、そろそろ潮時かと思ったのか内ポケットから札入れを取り出し立ち上がる。

「可愛いなー、怒りに震える肩。ってそろそろ本気で怒られそうだからやめとくよ。
 ご馳走さん、旨かったよ。これ、お勘定三千円。お釣りはとっといて。少ないけど。
 それで教えてほしいんだけどお姉さん、ここの事務局ってどっち?」

 楊枝入れから爪楊枝を取り、男は露骨に歯の掃除を始めた。
その姿は百人に聞いたら百人とも近寄りたくない酔っ払いと答えるだろう。
だが、女はちょっとだけ意地悪そうな笑顔を浮かべ男に話しかけた。

「……そうですね。事務局の場所判りづらいのでチップのお礼に私が案内しますよ」

「え、そう? 悪いね。じゃあひとつお願いしようかな、手取り足取りね」

 思わぬ返事に男はまんざらでもなさそうな笑みで答える。
 すぐさま女はカウンターを廻り、男の隣に立った。

「かしこまりました。じゃあ一緒に行きましょうか」

 そして促すように男の腕を取り、通路奥へと消えていった。



 第十試合、開始予定時刻五分前。突然会場が怒号で揺れた。
それは急遽試合を棄権した男に対する、観客の怒りの声だった。
 ふざけるな!金返せ!逃げるな!卑怯者!腐れ外道!などなどなど。
地響きのようなブーイング、罵声、怒声がいつまでも会場内に鳴り響いた。
 しかし、その声が男に届くことは無い。
平和そうな顔で何事も無かったように白いベッドの上で眠る男には――



 第十試合 創発亭串子 VS 社会


【一回戦第十試合  社会、棄権(女にいきなり場外乱闘を仕掛けられ失神KO、病院送り)により、創発亭串子 不戦勝】

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- 創発亭串子 二回戦 第五試合
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