いじめ


①自分より弱い者に対して一方的に行う
②身体的・心理的な攻撃を継続的に加えている
③相手が深刻な苦痛を感じている
 起こった場所は学校の内外を問わない

弱いものをいじめることは人間として絶対に許されないということを指導しなければならない。いじめられた生徒の立場になって考えることが重要。いじめていた生徒は家庭教育の在り方に大きなかかわりを持っていることも参考にする。やも負えない場合はいじめていた生徒を出席停止にすることもあるが、これは懲戒ではなく、周りの生徒の妨害、学校の秩序を守るためにとられる処置である。



いじめについて考えたことを貼り付けます。

去年の1年の世相を表す漢字は「命」だった。
 去年は特にいじめによる子供たちの自殺が相次いだ年であったと思う。仲間はずしや嫌がらせが横行し、中学生や高校生、小学生までもが命を絶ったというニュースは何回も耳にした。学校生活が死を招く原因の一つになってしまったということからか「命」という文字が際立って見えてくる感じがする。
去年のいじめの始まりは。一月に死亡した北海道滝川市の小学六年生の事件であった。
「なぜか私の周りにだけ人がいないんです。六年生になって差別されるようになりました。私はほとんどの人が信じられなくなりました。」
このような遺書が去年の十月になって明らかになった。これに関して、学校や教育委員会の対応に批判が集中し、全国からの抗議は二千件を超えた。市教育委員会は当初、事実関係を否定していたものの、途中からいじめを認め、遺族の家を訪れた経過がある。このような光景は、この事件に限らず、テレビなどで報道されるニュースでも、初めは校長を初め、学校側は「知りませんでした。」など、いじめの責任が学校にあることを認めない発言を何度も聞いている。しかし、それに対して親は学校に対して責任をおしつけ、言及している様子を良く見るが、果たして、家庭のほうには問題がなかったのであろうか、と疑問をもつ。確かに、いじめが起きていたのは学校であるが、子供が抱えている悩みに気づかず、最終的に自殺をさせてしまったことは、親にも十分責任・問題はあると思う。本来子供を守るために協力しなければいけない学校と家庭が今は、問題などに対して、お互いに責任などを押し付けあっている気がしてならない。
いじめ問題は様々な現代社会の醜い部分、隠している部分、汚い部分など様々な“悪”を映し出しているような気がする。また、報道が引き金になったという指摘もあったらしく、報道のあり方にも課題も残している。
 しかし、いじめに関する話題は今に始まったことではない。1980年代は全国各地でいじめの問題が広がった時代だとも言われている。この始まりは、「このままじゃ生き地獄になっちゃうよ」との遺書を残して、東京都の中学二年の鹿川裕史君が自殺をしたことからだ。これは、級友たちが「葬式ごっこ」をしてからかったことで、ずいぶん問題となった事件であったという。
 この事件からもう20年以上経った。しかし、いじめはなくなるどころか、より悪徳なものとなり、増え続け自殺者が後をたたない。このことからも、いじめを無くすことはそうとう難しい問題であることを感じる。また、いじめは解決してもいじめられていた日々がトラウマとなり、ずっと苦しめられる者であると思う。犯してしまった過去はゲームのようにはけせないのだから。リセットボタンを押せば、もう一度最初からできるなんてことは絶対にない。消すことも出来なければ、修正することもできない。そのため、私はいじめをいかにして未然に防ぐかということが重要ではないか、と考えている。
 私なりにいじめが起きてしまう原因について考えたが、いじめの始まりとしては、こどものストレスが一番の原因だと思う。また、これについては家庭が大きく関係している。子供は(特に小さい頃は)一日の大半を家庭で過ごす。しかし、その家庭が夫婦の仲が悪かったり、いつも家に一人でいたり…のような問題があると子供はどんどんストレスはたまっていく。また、家が嫌でもうどうしようもなく我慢できなくなってしまったとしても、家出をしようにも、そんなにお金はもっていないし、たとえ親と絶縁してもいい覚悟を決めても、子供は自分の力で働き、食べていくことなどはできない。そのため、いくら嫌でも親に従うしかないのである。また、子供はまだ人格形成ができあがっていないため、不安定になって当然の時期である。そのため、大人には、親には逆らえない…でもこのままでは、自分がおかしくなってしまう。そう思った子供は、学校で自分よりも弱そうな他人にあたり、気づつけ…結局はいじめにつながってしまうのではないか。と思う。そのため、家庭でたまっていったストレスが学校で吐き出されたり、子供が学校でいじめをしてしまう原因は、このような子供独自の無力さのようなものも関係しているのではないか、と思う。したがって、私は、そのストレスがたまった子供が我慢できなくなる前に教師が気づき子供の吐き口になってあげればいいのではないか。と思う。毎日自分の生徒の様子を観察して、少しでもおかしい、と思ったら、生徒と話、生徒との信頼関係を気づきあげていくことがたいせつなのではないか、と思う。日々の生活から、信頼関係を築いていくことで、いち早く生徒のいへんに気づき早期治療・対策ができると思う。また、生徒と信頼関係があることは、生徒の心にも大きな支えを作ってあげることになり、なにかあったときに、自分ひとりで溜め込まず、相談にきてくれるかもしれない。このようなことから、私は、教師と生徒との信頼関係を築きあげていくことが、いじめを防止するための第一歩であると思う。なのでそのために、教師はせいと一人ひとりの家庭環境はあらかじめ調査しておいたり、生徒の情報は出来る限り得ておくべきだと思う。また、様子を毎日確認し、何かあれば、家庭とも話す。家庭からも信頼されるように(家庭と一緒に協力してできるように)心がけることも大切であると思う。生徒一人ひとりと日記のようなものをやり取りして、生徒の情況を知るのもいいと思う。
 いじめ問題を減らしていくためには、家庭と学校が協力し、こどもを育てていく意識をそれぞれにもたなければいけないと思う。

 以上。私がいじめについて考えたことです。みんなもどんどん書いてください´∀`♪


私も考えたことを書きます。重大なテーマなだけに、考えれば考えるほど、文章にできなくなってしまいますね・・・。


社会全体の責任


『学校や教育委員会はなにをやっているのか。』よく批判家が使うフレーズである。
なぜ責任を放棄している自分達を棚に上げて、学校を悪者にできるのか。

学校批判で必ず、『どうして自殺に至る前にいじめに気付かなかったのか』『どうして助けることができなかったのか』と言われる。いじめられた子供にしか関心を向けず、いじめた子供はほったらかしである。
いじめを行う子供がいる限り、いじめは無くならない。いじめを行う背景には、何らかのの問題があるはずであり、その問題を改善させなければ、悲劇を繰り返すことになる。
いじめを行う子供の問題には、学校内だけでなく家庭や地域、社会の全てが関わってくる。にもかかわらず、全責任を学校や教師に押しつけるのはおかしいだろう。
大人が責任のなすりつけ合いをしているようでは、子供達は信頼し、頼ってはくれない。『学校が、教育委員会が』と言う前に、どうしたら問題を解決できるか、一人一人が考えるべきだと思う。

しかし、学校は学校で改善するべきところはある。
いじめが発覚した時に、黙認していたにも関わらず『知らなかった』と責任逃れしていては、いつまでも同じことの繰り返しになる。 
いじめが存在することを隠さず、学校全体で責任を取り、子供達に『いじめは犯罪だ』と何度も教えていかなければならない。
『見てみぬふりをする周りの人々も同罪だ』とよく言われる。確かにその通りではあるが、次は自分がいじめられる可能性がある状況で、助けようと行動を起こせる子供がどのくらいいるだろう。
私は、以前に自分自身がいじめられた経験があったにも関わらず、他のクラスメイトがいじめにあっていても、再び自分が同じ目にあうのが怖くて、なにもできなかった。
見てみぬ振りをするだけでなく、いじめられたていた子供が、いじめる側にまわってしまうこともある。権力のあるいじめを行うグループに入ることで、自分は大丈夫だと、安心感を覚えるのだ。
それならば同じ子供同士よりも、力が勝る大人が動いたほうが、効果的だろう。
『子供達の問題だ』と放任するのではなく、『見てみぬふりをするな』と遠くから言うのではなく、いじめに教師が直接介入して欲しい。
そのために教師は、子供達と信頼関係を築いていなければならない。
いじめが行われるのは、休み時間や人がいなくなった放課後である。ところが教師は、休み時間は授業の準備に追われ、放課後は会議などで忙しい。クラスの中で、どんなことが起こっていて、生徒がどんな日常生活の様子を送っているのか、授業中や給食の時間等の教師が生徒と接する限られた時間で把握するのは、難しいだろう。 
会議も重要なものだけに絞るなど、教師の負担をできるだけ減らし、子供達と接する時間や機会を増やしてほしい。
最終更新:2007年04月30日 01:32