凸の哲学disまとめ

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papavip

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凸の哲学disまとめ


とつげき東北の主張

哲学はサイエンスではない

ここでは、サイエンス=理論を立ててそれを検証していく学問 を指す。
哲学がサイエンスでない傍証として凸が挙げた事例は下記
  • 「哲学で理論は作ってはいけない」ウィトゲンシュタインの発言
  • ソーカル事件
物理学者ソーカルが嘘論文を哲学っぽく作って発表したら、哲学者が大絶賛して、後にソーカルが「嘘でーす」って言って大問題になった事件
  • 哲学では立てられた理論に対して、脳神経外科の研究や脳科学の実験結果と比べた検証や自己批判がされるべきだが、それがされていない。

凸の主張に対してのぱぱの疑問

ぱぱ「サイエンスでない学問は他にもある。例えば文学とか。そういったモノと比べ何故哲学のみをdisるのか?」
凸「例えば文学は、理論を組もうと試みている。現代哲学では理論自体を否定しているのではないか」
ぱぱ「過去の哲学はどうか」
凸「唯一の学問として頑張ってたけどしょぼい」
ぱぱ「例えば科学においても量子力学と相対性理論は矛盾するし、アインシュタインによってニュートン力学は否定されたが、アインシュタインやニュートンの偉大さは変わらない。」
ぱぱ「その時点で最先端の知識以上の前提はおけないのは科学も哲学も変わらないのであり、過去の哲学者の業績は否定できないのではないか。過去の人物の評価を現代基準でするのは誤っている。」
凸「哲学から派生した科学や学問はあるけど、そうでないゴミだけが哲学として残った」

というような話をしていたところ、凸者が現れた。
凸者:ヤマザキ(学生、哲学は趣味でやっている)

ソーカル事件について

ヤマザキ:ソーカルがディスったのはポストモダニズムの哲学者であり、近代以前の哲学者をそれでディスるのはダメなのでは?
凸:そーですね。
ヤマザキ:現代の哲学=ポストモダニズムとは限らない。その例として現象学と言う流れがある。フッサールとか、ミシェルアンリとか。
ヤマザキ:現象学→現象学的還元、私にとっての赤はあなたにとって青かもしれない。それは言葉を共有すれば解決。どこまでが事実で、どこからが信仰かを分けよう。コップの像を知覚したことと、実際にコップがあるというとは確認するまではわからないことで、コップの像を知覚=コップがあると考えるのは信仰である。「エポケー」
凸:現象学を脳科学で検証するとかないの?
ヤマザキ:あるよ。やってる人いるし。これから新しい学問が産まれる可能性はある。
凸:そして哲学から新しい学問が産まれ、哲学に残るのはゴミになってしまうだろ。
ヤマザキ:それを産み出すのが価値があるよね。既存の世界観ではないところを考えるのが哲学だから。

意識のハードプロブレムについて

意識のハードプロブレム(難しい問題とは)

脳神経的なあるいは電気的なパターンの認識と、実際の意識の認識がどうつながるか?
  • 物質としての脳の情報処理過程に付随する主観的な意識的体験やクオリアというのは、そもそも一体何なのか?
  • そしてこれら主観的な意識的体験やクオリアは、現在の物理学が提示するモデルの、どこに位置づけられるのか?
この問題は科学では検証不可能と言われている。

意識のイージープロブレム(簡単な問題)

人が何かを認識したとき、脳に現れる電気的パターンとはどんなものか?
脳科学的、脳神経的な部分
この問題は科学で検証可能な部分。

ヤマザキ:科学にとってはハードプロブレムであるが、哲学はそれをずっとやってきた。
凸:それは何かの結果を生んだの?
ヤマザキ:成果はあがっていると思います。
凸:数学が正しいということの前提として、「この世界は存在する」を前提にしないといけないが、この世界に自分という意識しかいないという可能性(独我論)を排除できない。それの解決はどうなの。
ヤマザキ:1つは現象学で、現象学においては全ての信仰は等価である。ウィトゲンシュタインが、素朴な実在論と素朴な独我論は対立するが、「実在論、独我論は対立しない」と論じた。コペルニクス的転回(音は空気の振動を音として認識してる)僕らの世界を規定してるものは僕らの認識が規定したものだ。
  • 実在論的な私も認識によって規定される(私の認識の総合によって規定された)
  • 独我論的な私とは(世界そのものである)
世界を構成する私(独我論的な私)と世界に構成された私(実在論的な私)
「語り得ぬものは沈黙しなければならない」(ウィトゲンシュタイン)の意味が誤解されている。
凸:数学の完全性と無矛盾性は同時に成立しないとかそういう意味でしょ。
ヤマザキ:哲学書はその時代の背景が必要であり、今の知識では理解できない。

カントについて

ヤマザキ:凸が批判している実践理性批判は純粋理性批判の上に立っている。純粋理性批判を読まず、批判するのは本質を見誤っている。もしかしたらサンデルのようなまとめ方がカントに対しての誤解を促進してるのではないか。僕の考えでは「神を殺した」のはカントだと思う。

自然科学の成り立ちとして、
  • 自然哲学(自然を対象にした哲学)が最初にあった。
 この自然は神的なものであり、自然科学で言う自然とは違った。
 自然=森羅万象に近い
その後、哲学は神から神でないものを分けてきた。
  • デカルト的自然観 → 自然科学的自然を分けた。(だがその根拠は神)
 神の自然証明。
  • カント的自然観→デカルト的自然観から神を取り除いた。
カントがデカルト的自然観から神を取り除き、自然を自然科学で指す自然にした。

ぱぱ感想

  • 哲学について専門的な知識がないのでどちらがより正当な主張かはわからない。でも、詳しく知らんのに全てまとめてdisれるようなモノではないと思う。
  • 少なくとも過去の哲学については多くの学問の基礎・唯一の学問として価値があると感じる。
  • 現代哲学については現代科学との整合性が問題なのは凸の主張通りだと思う。
  • 現在、一般的に「哲学を学ぶ」と言った場合「哲学史や過去の哲学者の思想を学ぶ」という意味になっていると思う。それは残念。
  • 就職時有利になる、あるいは生活で役立つみたいな点では他の学問より劣ると思う。ただし、それが学問の価値とイコールだとは思わない。(これについてはおそらく凸も同意してる)


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