太平洋ホームラン 景浦 將

「そんな大きな口ばかりたたいて英雄ぶって少しは国に恩返しをする気持ちにならんのか」
と言われたのかどうかはわからないが、彼は最後の地フィリピンへ赴任を命ぜられる。
レイテ沖の海戦で補給路を断たれた景浦の部隊は慢性的なマラリアに苦しんでいた。
彼は国からはトカゲの尻尾を切られるかの如く孤独な最後を遂げることになる。。

昭和20年5月20日、この日も人殺しを好まない景浦は威嚇射撃のみで現地から食料を調達する。
リアカーにタロイモ、バナナなどを載せた景浦と彼の部下中田はゲリラ戦術を続けるため
熱帯雨林に陣取る日本軍に帰るために2キロ手前の小さな橋を渡ろうとしていた。

「景浦さん、なんとか村人に抵抗されずにすみましたね。」
中田二等兵はリヤカーを引きながら、振り返って白い歯を見せた。
「おう、血はあまり見たくないからのぉ」

ヘラクレスのような筋骨隆々だった彼の体は、今は見る影もなく痩せ細ってしまった。頬も痩せこけ、
両目だけが爛々と光っていた。

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景浦 將(かげうら まさる、1915年(大正4年)7月20日 - 1945年(昭和20年)5月20日)
は、愛媛県松山市出身の元プロ野球選手(外野手、内野手、投手)。

プロ野球史上、伝説のバッターの一人である。本名が「將」だったことから「鬪將(闘将)」
の異名をとった。あぶさんのモデルでもある。大阪タイガース(現阪神タイガース)創設と同時に入団し、
5年間の兵役による中断はあったが、その前後、投手件野手(三塁手・外野手)として大活躍する。
中でも、巨人の「伝説の剛速球」投手沢村との対決は、プロ野球草創期の看板となり、
初代「ミスタータイガース」とか「闘将」といわれ、プロ野球人気を盛り上げた。

高校野球の名門松山商業高校(松商)に入学、満州事変が勃発した1931(昭和6)年に
春夏連続で甲子園出場する。1932(昭和7)年春の選抜大会(第9回全国選抜中等学校野球大会)
に投手兼三塁手として出場(3年連続8度目の出場)して、7年ぶり2度目の優勝をかざる。
同年の夏の甲子園では決勝戦で名門中京商業(現中京大学中京高校)と対戦、同点のまま延長戦、
11回に決着、春夏連覇を逸した(準優勝)。1933(昭和8)年立教大学に入学、
大学では主に外野をまもり、東京6大学野球の強打者としてしられた。東京6大学リーグを中心とする
学生野球全盛期の1936(昭和11)年プロ野球(職業野球)発足と同時に創立された
大阪タイガースに大学を中退して入団。

タイガースでは、三塁手4番として打線の中核を担い。投手としても6勝0敗(勝率10割。
この記録は現在も歴代1位)、57回を投げて自責点はわずかに5点の防御率0.79という
驚異的な成績を残して最優秀防御率にも輝き、歴代2位の記録を残した。

満潮になるとグランドに海水が入ってきたといわれている伝説の巨人のホームグラウンド州崎球場
(東京・江東区東陽町。1937年9月に後楽園球場【現東京ドーム】開場)で行われた1936
(昭和11)年の優勝決定戦の第1戦では、巨人・沢村栄治、大阪・景浦将の投手陣ではじまった。
4対0と巨人にリードされていた4回無死1・2塁で打席に景浦がまわってきた。景浦は、沢村の
「三段落ち」といわれた大きなドロップ(現・落ちるカーブ)をジャストミート、レフト外野席を
軽々と越える超特大の場外ホームランをうった(試合は5対3で巨人が勝利)。このホームランは、
崎洲球場の場外が東京湾だったことから「太平洋ホームラン」といわれた。

タイガースは、1勝2敗で優勝(日本一)を逃し、景浦はこの決定戦で2敗したものの翌年、
藤村富美男・別当薫・松木謙治郎・藤井勇らとの「ダイナマイト打線」が爆発、見事日本一となった。
投打わたる活躍から、怪物といわれた沢村最大のライバルといわれ、1938年春は2度目の打点王を
獲得したが、日中戦争から太平洋戦争にかけての1940(昭和15)年から1942(昭和17)年まで
徴兵される。1943(昭和18)年に復帰し、代打10打席連続安打という記録を作るが、
敗戦が濃厚となった1944(昭和19)年にはふたたび徴兵されることになる。
なお、宿敵沢村もまた、1944(昭和19)年10月、3度目の召集を受け同年12月戦死している。

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ミスタータイガースは初代を藤村富美男とする説が多いが、景浦こそ初代だと言う人は多い。
プロ野球に関する戦前の映像記録はほとんど残っていないが、上半身がちぎれそうなくらい
大きくフルスイングする景浦の映像が残されている。気に入らないことがあれば目の前に来た
ゴロに見向きもしない。選手仲間とミルクホールの代金を賭けた試合でホームランを打って、
走りながら一本指を立てた。また相当の大食漢で、松山商業時代には下校途中に松山市駅の
駅前で売っていた日切焼を20個食べてから家に帰ったり、若林忠志と「すき焼きで肉一貫目
(約4kg)食べたら賞金十円」という賭けをして勝った、同郷の力士であり、部屋一番の大食い
である前田山英五郎と焼き鳥の食べ比べをし、160本平らげて勝った、等の逸話を残すなどの
エピソードが語り継がれているが実際は繊細な仲間思いの人物だったという。

監督である石本秀一のある日の日記には、こう書かれている。
「景浦今日も打って走らず。飛球を追わず。原因不明」

日本で初めての職業野球選手ということで手探り状態だったため、5年契約でいくら活躍しても
景浦の年俸は据え置きだった。タイトルを取っても全く年俸に反映されない。景浦は投手として、
前年に最優秀防御率と最高勝率の二冠を獲得。そしてこの年の春にはバッターとして首位打者を、
秋には打点王を獲得する。年俸への不満もあったろう。しかし、景浦をタイガースへ誘ってくれた
恩師であり、同じ松山商業出身の森茂雄監督が、前年の開幕早々にフロントから解任された事への
抗議の意味も大きかったのではないか。

試合が終わって、景浦は同僚達と飲みに出かけた。イメージに反して酒は全くダメであった。
そのかわり食べる方は凄かった。後輩達が飲んで楽しく騒ぐ姿を大好物のすき焼きを食べながら、
いつもにこやかに眺めていたという。でも、その食べる肉の量が桁違いであった。
前述の通り4㎏を食べた事もあったという。

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太平洋ホームランの時は巨人4点リードの五回表タイガースの攻撃の時だった。無死一・三塁の
チャンスで打席に立った景浦はいきなり三塁ベンチを振り返り、タイガース監督の石本秀一に向かって、
ニカッと笑い一本指を突き立てた。

「10円な!」

ここで打てば10円(今の10万円以上)出してくれという事である。景浦には絶対の自信があった。
前の打席で沢村自慢の快速球を完璧にはじき返し、センターオーバーの二塁打を打っている。
勝負球は大きなドロップでくるはず、と…
そして四球目、狙い通りのドロップがやや甘く入ったところを、景浦のバットが一閃した。
快音を発した打球はレフトスタンドを超え、場外の海へと消えた。一塁ベースを廻りながら、
この時代には珍しく腕を突き上げて喜びをあらわにする景浦の背番号6を見て、一塁側の巨人軍監督の
藤本定義は感嘆の声をあげたという。

「なんちゅう男や!」

戦後、皮肉にも阪神の監督として迎えられ、昭和37年、39年に阪神をリーグ優勝に導くことになる藤本は、
「史上最強打者は景浦」  と後年述懐している。

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あともう少しで陣地に戻れる。ジャングルの中に入ってしまえば、
普段から部隊をジャングル内で展開させている日本軍に地の利がある。
ジャングルにはいる手前には小さな川があり、そこに日本軍が木製の橋を架けていた。

もう目の前にその橋が迫っていたその時だった。

ズガガガガガ!!
激しい機銃掃射の音が轟き、景浦は両足に被弾してもんどりうって倒れた。

「景浦さん!!」
「中田ーっ!!早よ逃げーっわしが米兵ひきつけるけんお前は逃げて生き延びるんやー!」
「景浦さん!!」
「走れーーっ!」
「ハイッ!」

中田は敬礼した後、リヤカーを引いて懸命に走り出した。
米軍兵が銃を構えながらゆっくり近づいてくるのがわかった。

「さあ、最後の打席じゃ」

景浦は両足の激しい痛みと、おびただしい流血に耐えヨロヨロと立ち上がった。
そして両手で銃床を持って、バットのように構えた。米軍兵はぎょっとして立ち止まった。
景浦は大声で歌い出した。

♪六甲おろーしにー 颯爽とー 蒼天駈けるー 日輪のー
青春の覇気 麗しくー 輝く我が名ぞ 大阪タイガース
オゥオゥオゥオゥ 大阪タイガース フレッフレッフレッフレー♪

歌い終えた景浦は、バットのように構えた銃をスイングしようとして
崩れ落ちてしまった。あたかも弁慶の仁王立ちを思わせるような最後だった。

急速に薄れゆく意識の中で
景浦には、甲子園球場の大歓声が聞こえていたのだろうか。

背番号
6 (1936年 - 1939年、1943年)

タイトル・表彰・記録
首位打者:1回 (1937年秋)
打点王:2回 (1937年春、1938年春)
最優秀防御率:1回 (1936年秋)
最高勝率:1回 (1936年秋)
野球殿堂入り(1965年)
14試合連続得点(1938年7月9日 - 9月9日)
最終更新:2010年09月30日 09:11