”マラソンの父” 金栗四三

オリンピックのマラソンの記録で、早さで有名になった選手は数ほどいますが遅さの最長公式記録で有名な方はこの方だけでしょう。その記録はなんと54年3ヵ月12日3時間20分。

実は金栗四三氏が出場したオリンピックは1912年のスウェーデン・ストックホルム大会でしたが、途中で暑さにより日射病で倒れてしまい棄権。しかし諸事情により棄権と言う報告がされずに、行方不明と言うことになってしまい、当時の新聞にも金栗四三氏の事は「消えた日本人選手」などと書かれていました。

オリンピックの記録で「棄権」はあるものの、「行方不明」と言う記録は存在しない為に、1967年のストックホルムの「オリンピック55年祭」に招待され、当時のマラソンコースを再び走りゴールしたのです。

金栗四三氏は1891年(明治24年)8月20日生まれ、熊本県玉名郡春富村(現・和水町)出身。日本における「マラソンの父」と称される方です。

旧制玉名中学を卒業後、1910年(明治43年)、東京高等師範学校(現・筑波大学)に入学。1911年(明治44年)、翌年に開催されるストックホルムオリンピックに向けたマラソンの予選会に出場し、マラソン足袋で当時の世界記録(当時の距離は25マイル=40.225キロ)を27分も縮める大記録(2時間32分45秒)を出し、短距離の三島弥彦と共に日本人初のオリンピック選手となります。翌1912年(明治45年)のストックホルムオリンピックでは、レース途中で日射病で意識を失って倒れ、近くの農家で介抱されました。その農家で目を覚ましたのは、既に競技も終わった翌日の朝でありました。

マラソンを途中で止めた理由として、金栗が単にソーレンツナ(Sollentuna)のある家庭で庭でのお茶とお菓子に誘われ、それをご馳走になってそのままマラソンを中断したと理解されています。当時、日本からスウェーデンへ20日もかけての船と列車の旅で、さらに、スウェーデンの夜は明るいため、睡眠にも支障がありました。食事面では、当時はスウェーデンでは米はなく、その上、マラソンの当日は、金栗を迎えに来るはずの車が来ず、競技場まで走らなければなりませんでした。また、40℃という記録的な暑さで、参加者68名中、およそ半分が途中棄権し、ポルトガル代表のフランシスコ・ラザロ(Francisco Lázaro)は倒れた上、翌日お亡くなりになりました。マラソン中に消えた日本人の話は、地元で開催されたオリンピックの話題の一つとしてスウェーデンではしばらく語り草となっていました。

ランナーとして最も脂ののっていた、メダルが期待された4年後のベルリンオリンピック (1916年、大正5年)は、第一次世界大戦の勃発で開催中止となり、出場できず、その後、1920年(大正9年)のアントワープオリンピック、1924年(大正13年)のパリオリンピックでもマラソン代表として出場しますが、アントワープでは16位、パリでは途中棄権に終わってしまいました。

1920年(大正9年)、第1回箱根駅伝が開催されていますが、金栗はこの大会開催のために尽力しています。この功績が讃えられ、箱根駅伝では2004年(平成16年)より、最優秀選手に対して金栗四三杯が贈呈されるようになりました。

1967年(昭和42年)3月、スウェーデンのオリンピック委員会から、ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待されます。ストックホルムオリンピックでは棄権の意思がオリンピック委員会に伝わっておらず「競技中に失踪し行方不明」として扱われていました。記念式典の開催に当たって当時の記録を調べていたオリンピック委員会がこれに気付き、金栗を記念式典でゴールさせることにしたのです。招待を受けた金栗はストックホルムへ赴き、競技場内に用意されたゴールテープを切りました。この時「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了する。」とアナウンスされました。54年8ヶ月6日5時間32分20秒3という記録は世界一遅いマラソン記録であり、今後もこの記録が破られる事は無いだろうと言われています。金栗はゴール後のスピーチで「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントしました。

晩年は熊本県玉名市で過ごし、1984年(昭和59年)11月13日、93歳で亡くなられました。熊本県民総合運動公園陸上競技場の愛称「KK ウィング」は金栗にその名を由来しているとのことです。

HN
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最終更新:2010年09月29日 23:08