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野村監督の鶴の一声でドラフト4位に指名され、藤本敦士(2号車)、沖原佳典(3号車)、上坂太一郎(4号車)、平下晃司(5号車)、松田匡司(6号車)、高波文一(7号車)とあわせてF1セブンの1号車に任命された赤星は、キャンプ時には打撃に課題があり打球が内野の頭を越えず、「あの赤星さんがプロで活躍できるなんて、失礼ながら全く思いませんでした」と後に濱中治に言わしめたという。

愛知県刈谷市出身。小学校時代はサッカーをしており、フォワードとして愛知県選抜に選ばれたこともある。野球は中日ドラゴンズ、特に星野仙一の大ファンで、小学6年時に父が監督をしている地元少年野球チームで野球を始めた。当時から身体が小さく、野球部に所属していた中学時代に野球を止めようかと考えたこともあったが、足を活かすために左打ちに変えて内野安打が増えた。

大府高校では1番を打ち、赤星が出塁すると2番打者はバットを振らずに赤星の二盗、三盗が成功するのを待ち、その後スクイズを行うという独特の戦法で2年春には二塁手として第65回選抜高等学校野球大会に同校12年ぶりとなる出場に貢献。大会では駒大岩見沢高校と対戦し、自身の逆転2点タイムリーエラーもあって初戦敗退。翌年は遊撃手として2年連続で第66回選抜高等学校野球大会に出場し、横浜高校と対戦したが、初回にタイムリーエラーとなる悪送球を犯し、2年連続で初戦敗退に終わった。高校通算16本塁打。中学・高校時代は同じ右投げ左打ちの小柄な遊撃手である立浪和義が等身大の目標だった。

亜細亜大学に進学した赤星は、2年時の明治神宮野球大会では三塁手として出場したが、ここでもタイムリーエラーを犯してチームも0対1で敗退した。3年時に外野手へコンバートされ、4年秋には3試合連続本塁打を記録するなど長打力も身に付け、明治神宮大会で優勝する。東都大学1部リーグ通算78試合出場、219打数61安打、打率.279、3本塁打、27打点。ベストナイン3回、野村謙二郎の52盗塁、鈴木香の51盗塁に次ぐリーグ歴代3位の通算45盗塁を記録。ドラフト候補にも挙がったが指名はなく、社会人野球のJR東日本に入社。第70回都市対抗野球大会では東京ドームの白い屋根の中にボールを見失い、平凡な飛球を三塁打にしてしまいチームも初戦敗退した。

2000年春にシドニーオリンピック野球日本代表候補として千葉ロッテマリーンズのキャンプに参加し、日本代表に選出される。プロとアマチュアの混成チームだったため中心選手ではなかったが、相手投手の牽制球の癖を見抜く眼力を生かしてベースコーチや代走として活躍した。キャンプに参加した際は打撃の非力さが顕著で、当時ロッテの主軸打者だった初芝清は引退後に当時の様子を「打撃練習で打球がケージから出ない」とラジオで語ったという。

五輪後、直接スカウトとして視察していた当時阪神監督の野村克也の目に止まり、当初阪神スカウト陣はノーマークだったものの、野村監督の鶴の一声で秋のドラフト会議で阪神から4位指名を受け入団。「ホームランバッターがいないなら足で稼ぐ。あの足は戦力になる」と監督から期待を寄せられる。同年まで中堅手のレギュラーだった新庄剛志のFA移籍が決まっていたため、入団会見では「新庄さんの穴を少しでも埋められるよう頑張ります」と言おうとしたところ、緊張のためか「新庄さんの穴は僕が埋めます!」と豪語し、翌日のスポーツ新聞では1位指名の藤田太陽以上の話題となった。

2001年は野村監督が俊足選手を「F1セブン」と命名し、話題を呼んだ。赤星はその「1号車」で、以下は藤本敦士(2号車)、沖原佳典(3号車)、上坂太一郎(4号車)、平下晃司(5号車)、松田匡司(6号車)、高波文一(7号車)。しかし、キャンプ時には打撃に課題があり打球が内野の頭を越えないレベルで、後に濱中治は「あの赤星さんがプロで活躍できるなんて、失礼ながら全く思いませんでした」と語ったと言う。自身もプロのレベルに驚き心配になったというが野村監督に「自分の教えたようにやれば使える」と言われ、5月にはレギュラーの座を獲得。その後は2番打者に定着し、新人歴代4位となる39盗塁で、球団史上1956年の吉田義男以来45年ぶり、阪神入団1年目の選手としては1944年の呉昌征以来となる盗塁王に輝き新人王も受賞。盗塁王と新人王のダブル受賞は史上初の快挙。また、ゴールデングラブ賞も受賞した。

2003年に金本知憲がFAで広島東洋カープから移籍。星野監督のヘッドコーチ、田淵幸一の発案で「1番今岡誠・2番赤星・3番金本」の打順になり、3番金本が赤星の盗塁をアシストしたこともあり、61盗塁と大幅に数を増やして3年連続となる盗塁王を獲得、初の打率3割も記録。さらに規定打席到達者の中で唯一守備率10割の日本タイ記録を樹立し、2年ぶりのゴールデングラブ賞も受賞。チーム18年ぶりの優勝が決まった9月15日に行なわれた広島戦では、ライトオーバーのサヨナラ打を放った。また、同年はオールスターにもファン投票により初出場を果たした。

2004年は岡田彰布新監督の下、自己最多記録を更新する64盗塁で4年連続で盗塁王を獲得、2年連続で打率3割も記録。同年の日米野球では7盗塁を決めるなど大活躍し、ボストン・レッドソックスのデイヴィッド・オルティズに「スーツケースに入れて連れて帰りたい」と言わしめたと言う。

2005年にはリーグ史上初の5年連続盗塁王を獲得、2年ぶりのチーム優勝に貢献。福本豊以来2人目となる3年連続60盗塁で通算250盗塁を達成したが、2006年は2年連続でオールスターに出場したものの、足の怪我の影響もあって盗塁数が激減し打撃も不振で、盗塁王は青木に明け渡した。2008年は、開幕から1番打者として活躍し、2番平野恵一とのコンビはチームのスタートダッシュの原動力になっている。

脚力を活かして内野の間を抜く打撃を徹底し、長打を狙うことはほとんどなく、通算本塁打数はわずか3本。これは、通算4000打数以上の選手の中では史上最少の記録である。3本塁打のうち、プロ入り第1号は2001年の広島市民球場、第2号は2003年の明治神宮野球場と、いずれも狭い球場でのものだったが、生涯最後の本塁打となった2005年の第3号は、広い甲子園球場の右翼席に放っている。2006年から2008年にかけては、規定打席に到達しながら3年連続で本塁打がなかったが、これは1990年から1992年まで0本塁打の和田豊、赤星と同じく2006年から2008年まで0本塁打の東出輝裕と並ぶ、プロ野球タイ記録であった。

社会福祉活動に熱心であり、「ハンディキャップのある人でも球場に来て野球を観戦してほしい」との思いから、そのシーズンで記録した盗塁と同じ数の車椅子を寄付するという活動を毎年行っている。2004年は、64盗塁で64台+盗塁王タイトル分で電動リクライニング機能付きの計65台の赤い車椅子を寄付しており、その功績が認められて社会福祉活動に貢献したプロ野球選手に贈られるゴールデンスピリット賞を受賞した。2007年4月に寄贈した車椅子がインターネットオークションに出されるという事件が起きた時は、「どのような経緯で出品されたかはわからないが、人としてすることではない。許せない」と真面目で熱血漢あふれる赤星らしいコメントを残している。なお、抗議が殺到したため出品は取り下げられ取引は成立していない。

守備では野村監督が「守備範囲だけなら新庄以上」と語った俊足を生かした広い守備範囲を誇る。捕ってから送球するまでのモーションが速くコントロールも正確な事から補殺は多く、2005・2006年には補殺数外野手リーグトップを記録した。これは新庄やアレックス・オチョアのような強肩外野手の場合は走者が進塁を自重するケースが多いが、赤星の場合は逆に弱肩なので走者が次の塁を狙うということも関係している。

2009年9月12日の対横浜戦(甲子園)において内川聖一の放った右中間への大飛球に対してダイビングキャッチを試みた際に再び頸部を痛めて途中退場し、一軍登録を抹消されてそのままシーズン終了を迎えた。シーズン終了後も復帰を目指してリハビリを続けたが、10月に行った検査の結果「中心性脊髄損傷」と診断され「無理をすると生命にも危険が及ぶ」とのことから、球団側と今後について協議し、南信男球団社長からの「君のこれからの人生の方が長いのだから」という旨の引退勧告等もあり、苦渋の決断の末、12月9日に現役引退を発表した。50m5.6秒の俊足と毎年大体併殺打5と言うチームバッティング、守備では俊足を生かした守備範囲、ファンサービスにも熱心でチームでも屈指の人気選手だった赤星「レッドスター」は、果敢なダイビングキャッチを試みることも多く結果的にはそれが引退につながってしまった。打席に立つとスタンドでファンが掲げる赤い星「★」のボードを見るのも今年限りなのか。今後については未定ではあるものの、当面は治療に専念するとアナウンスされている。

基本情報
出身地 愛知県刈谷市
生年月日 1976年4月10日(33歳)
身長体重 170cm 66kg
投球・打席 右投左打
ポジション 中堅手
プロ入り 2000年 ドラフト4位
初出場 2001年3月30日
最終出場 2009年9月12日

経歴(括弧内は在籍年)
愛知県立大府高等学校
亜細亜大学
JR東日本
阪神タイガース (2001 - 2009)

国際大会
五輪 2000年

新人王(2001年)
盗塁王:5回(2001年 - 2005年)5年連続はセ・リーグ記録、日本記録は福本豊の13年連続
ベストナイン:2回(2003年、2005年)
ゴールデングラブ賞:6回(2001年、2003年 - 2006年、2008年)
オールスターゲーム出場:3回(2003年、2005年、2006年)
ゴールデンスピリット賞(2004年)


HN
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