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批判的自我の醸成のため


07/05/05
茂木さんが講演の中で、「根拠のない自信が必要」ということを言っていた。
私は、かつて「勝手に判断しない」というアプローチを取ることを決めたが、
このことは、それと矛盾するのではと気になった。

なぜなら、根拠がないとはつまり思い込みであり、批判性への露出や、その思い込み
が考慮しない部分の素晴らしさの認識に欠けているかに思えたからだ。

しかし、確かにえいっと踏み出す際に立ち現われるある種の恐怖の壁を越えるには、
思い込みのような自信が必要と感じる。

ふと思うのは、「根拠のない自信が必要」とは今だ分からぬ未来に関して踏み出す
ためのものだが、そのないように見える根拠とはその未来に依拠しているのではないか。

未来によって補完される根拠。

矛盾であっても人のシステムは受け入れると思うが、そう考える事で、現実の撞着
から抜け出す足がかりになると考える。

今は確かに今しか分からない。「勝手に判断しない。」とは、非常に広義で使おうと
しているが、未来に関しても勝手に判断してはならない。今はない根拠があるのだから。

07/03/20
小林秀雄が蕎麦屋へ味を確かめに行った話しは、彼がありとあらゆる方法を持って、
彼の感覚、つまりクオリアに関する部分の修正を行おうと試みていたからではない
だろうか。

07/03/20
アインシュタインは、「その人の価値は、その人がどれだけ自分自身から解放されて
いるかで決まる。」と言ったそうだが、それについて解放とは個々人の制約からでは
ないかと思い立つ。人はそれぞれ、様々な制約の中にある。それは身体的、環境的、
精神的を問わないものであり、その強度、種類においても千差万別であろう。

つまり、その制約からどれだけ解放されているか、もっと言うなら、その制約がある
ことはしょうがない事として、そこでどれだけの価値の創出を行えるかということな
のではないか。

07/03/06
07/03/03~07/03/05まで東京へ行く。
気づきその3
マルセン・デュシャンのファウンテンを見ることが出来て感動。
便器なのに、なんだかなめらかで、特にサインは艶やかであった。

それが提起した生命の本質にまで通じるテーマを考えているときに、
結局自分もそうだなと思った。

なんというか、自分も便器なのだ。何か特別なありとあらゆるものを超越した何か
のような、意味が分からないが、とんでもない存在ではなくて、ひとりの人間なのだ。

私は、世界は素晴らしいと思っている。そして人間もそうだと。

デュシャンは、結局世界はレディメイドだと言いながら、だから何だ素晴らしい!
とあの便器で叫んでいたように思った。

私も、自身を素晴らしいと思おう。

そして人生を楽しむために、様々な叡智を学び、新しい価値を生み出して行きたい。


07/03/06
07/03/03~07/03/05まで東京へ行く。
気づきその2
朝からお風呂に浸かっているとふと思った。
茂木さんの今日のblogにも書いてあったが、モノカルチャー的な考え方というのは、
どう考えてもおかしいものがある。
公務員試験の勉強を始め、様々な雑事というのは多いが、しかし結局その一つだけに
注力できる瞬間(集中によりほかを忘れることは可能)などは来ないのだ。
つまり、常に人は複数の問題に囲まれており、モノカルチャー的にこれだ!というもの
でそれらが一斉に解決していく事はない。
それぞれにかける時間配分に関しても同様で、あることにず~っと長い時間をかけるのは
難しいのだ。つまり細かい時間を積み上げる事が重要なのである。

これを書いていて思ったのだが、集中とは、ほかを忘れる事だ!

07/03/06
07/03/03~07/03/05まで東京へ行く。
気づきその1
アメリカ型の契約社会に関して。
結婚式に出席する中で、ある会社の社員の方が、わが社は狂う程忙しく、終業時間が11時
を越える事も毎日のようだ…と話されていた。

それを聞いた次の日、新国立美術館の中を歩く中で、アメリカにおける企業と従業員の
契約関係が、しばしば企業の柔軟な経営に邪魔になるという点に一つの仮説を立てた。
アメリカ型の契約関係というのは、一つの倫理観なのではないかということだ。

契約により制約が生じるとしばしば私は考えがちだが、そこにあるのは、何かの枠が体を
覆うかのような制約というのものではまったくなく、有限な人生の中から、何を切り出す
のかというresourceの問題ではないのだろうか。

つまり、雇用契約の場合、個人が消費できるresource(時間や、ストレスなど)は個人
それぞれに本質的に異なる意味で、有限である。その限られたresourceを如何に活用し
それ以上の社会的余剰を生み出すかという点に、企業活動と、労働が役割を果たすわけ
であり、その対価の一つとして給与があるのだ。
アメリカにおける契約関係とはつまり、そのresourceの拠出割合を決める作業であり、
決して、足かせを科すようなものではないはずだ。

そのような意味で、倫理観とは、アメリカの個人や企業は、その自ら決めたresourceで
一体何を生み出せるのかということに注力しているのであり、契約以上のresourceによ
り何か生み出すということには、概念的に無縁なのではないか。

メジャーリーグには、契約上9回にしか出ないピッチャーがいる。チームとしては、必ず
そのピッチャーに9回以外でも投げて欲しい場面があるはずだ。しかしピッチャーがノー
といえばそれまでだ。それが、ピッチャーの能力の稀有さに依存している契約であること
は間違いない部分ではあるが、しかしそこでは、最初に決めた条件(resourceとしての意)
で、如何に勝つかということに注力することにチームは努力し、ファンは楽しむのではな
いか。(もちろんチームも)
幼い頃、ゲームを楽しむために変なルールや、条件を付け足したことを思い出す。

後一歩という事態が生じたときに、その倫理観が現われる。最初の例に帰り、もう少し
働いて貰えれば…というときに会社の倫理観が問われるのだ。

人間は、有限の生の中に、無限の可能性を秘めていると思う。その中にあって、限られた
生を楽しむ上でのこのアメリカ型の契約関係は非常にreasonableであり、我々が、日々、
新しい価値の創出を行っていることへの一つの見方のように思う。

決められた枠ではなく、自ら決めたresourceにより、一体何を楽しみ、生み出すか。

時に、自己犠牲の概念を取出しがちな私にとって、間違いなく有限な人生から、決して
目を離さず見つめ続けたようなこの倫理観は大きな反省であり、喜びである。


07/02/22
下記の集中力について、やはり重要と感じる。
strategyに加えよう。

プロフェッショナルを見て。
勇気を持って、前へ進む。という言葉を感じた。

人間は、未来については分からない。
今後がどうなるか?という問いに完全な答えがないのは、論理的に思う。
そこで、現状が不安で逡巡するとき、その瞬間には、決して未来は理解できないはずだ。

人は前へ進みながらにしか、その未来について考える事は出来ないのではないか。

左へ行くか、右へ行くがいいか。この問いに答えるには、一歩前へ踏み出す以外にはない。

例え、逆方向が良かったと後に感じたとしても、それは決して、迷う時点では本質的には、
判断出来ないのだ。

必要なのは、知識を越えた叡智、人の感情に代表される、無意識からの贈り物だ。

07/02/19
朝、近くの天神様に毎週のお参りに行っているときに、ふと感じた
(気づいた?)ものがあるので、書き留めておく。

お参りの後、いつもの通り車で行こうとすると、また
「ああは、成りたくない。」
という発想に捉われてしまった。
そうすると、車のタイヤが溝に落ちそうになり、あせった。
だけども、その瞬間、上記の発想が吹っ飛んだのだ。

何故だろう?以前からもそうであったが、焦りや、緊急の状況は、
一瞬思考のモードのようなものが変わり、発想に捉われるよりも
速く、行動が起こるように思う。

焦りとは、何か。難しい問いだが、それは強度の集中ではないだろうか。

自身の欲望、発想、クオリアといった未知の部分のcontrolには、
強度の集中に秘密があるような気づきだった。

脳のニューロンは、それにつながるシナプスの前後が発火したときに、
その回路を強化するらしいが、強度の集中をすることで、または、
時々の集中がそれに結び付く状況を生むことで、クオリアの転換が
図れるのではないか。


07/02/14
寝て起きて、考えをまとめる。
家族がいて、話せることは本当に幸福だ。

かつて、生きるということは選択であると考えたことがある。
南さんのお話を考えても、人生の分水嶺とは選択であると感じる。
左に行くか、右に行くか、それとも斜め上か、空間的制約もなにも
ない感覚の中で、一方を選ぶ。
では、何故それを選んだのか。それがまさにクオリア、神経経済学
での問題で、いまだ未解決であるらしい。

私は、自我を選択しようとしていたのだろう。
成りたい自我、成りたくない自我を、記憶の中の、この人のようでありたい。
この人のようではありたくない。と考えあぐねる。
しかし、昨日の内容にあるように、自我と信ずるものは無いのかもしれない。

遇有的な意識に、一定の枠を外から押し付け、さらには、こんな発想はするな!
と無意識を強制しようとしていた。

人が感じる質感というクオリアの問題を聞いたとき、そして無意識からの
贈り物である感情、セレンディプティの話を聞いたとき、そして自我という
ものがないことを聞いた時、私は、自分を忘れるという感覚を得る。

私は、かつてからソクラテスのようでありたい、デカルトのような発想、
茂木さんのような人格といったものでありたいと、願ってきた。
しかし、おそらくそれは原理的に無理なのだ。つまり同質の存在には成り得ない。

何かを選択する、その基準であるクオリアの問題が未解決である以上、
自身が何を選択するかということは、遇有的よりも未知数のように感じる。

では、素晴らしい人格、人生であるためには、
このことは、素晴らしいというクオリアが、既に現時点である制約、おそらく
今までの人生によって制約を受けることによりnewtralからの出発ではないが、
どうすればいいのであろうか?

ここからが人の叡智であるように思う。そして社会の叡智であるとも。
仏教的な解脱のような仏への道ではなく、真人間での幸福の追求。

ここに脳科学的approachであったり、仏教のようなある種の宗教的approach
であったり、様々な人々のstrategyがある。
そして、教育や、政治といった社会のstrategyも。

ではどれを選ぶのか!何にかけるのか!
ここで、複雑なのは、その選択が自身のクオリアまでも変質させる可能性を
秘めている点である。

自己同一性はありえない。本質的な変化を受け入れている以上、統一的な選択、
つまり私から見た他者のありようのような、出来上がったものの模写は不可能、
もしくは非常に遠いのだ。

そこにあって、私は現時点のクオリアにより、自身の選択を行おう。
ひとつに、楽しむことは倫理であるという論理。
ひとつに、メタ認知、detachmentに代表される科学的思考法。
ひとつに、継続することのpower。
ひとつに、Google的なabundanceなapproach。
ひとつに、多様性の確保。
ひとつに、余裕。環境の確保。
ひとつに、共感。
ひとつに、communicationの価値。重要性。
ひとつに、行動。
ひとつに、起源への関心。
ひとつに、やれることは何でもやるというapproach。
ひとつに、欲望の方向性のcontrol。

そして、何より、生涯学び、考える姿勢。

以上は、私の良く生きるためのstrategyであり、私のクオリアにより今後変化する。


07/02/13
06/04/22南直哉さんと茂木健一郎さんの対談を聞いて、
南さんの見解による、自我というものは本来は存在しない。ということと仏教における全て
ことは関係性において成り立つ。という理念、そして茂木さんの提唱するマッハの理論を見
つめると、将来への自我の変容への恐怖と、望む自我の獲得という問題に対して、
あるapproachを持って望むことが出来るのではないかと発想する。
まず、基点となるのは、自我というものは遇有的なもの、もしくは同一性という意味で本来
は無いものと解すべきである。このことは子どもの自我という認識の獲得過程において、
幼児期には~ちゃんと自身を呼ぶのが、ある時点から~ちゃんと家族の話す自身とを置き換
えて、自身への認識を手に入れるということから見て取れ、また意識の発生が、遇有的な点
から判断している。しかし前者において、自我の起源について答えていないと考える。
ただ、自我が無いからといって、思考、感情といったものがないわけではなく、脳内では様
々な意識表象が現れ続けている。そこでは、私という認識にそって、情報の収束が起こって
いるが、この自我のように見える認識は、関係性の中で手に入れた認識であり、肉体、文脈
に固有であるが、永続的、同一的ではない。
つまり普段我々が固執している自我という永続的、同一的な人のcoreのようなものは本来は
なく、そこにはもっと柔らかい遇有的なものがある。
このことは、自我というものを根拠として成り立つ価値観が意味をなさないことを示してい
る。それは、望む自我の獲得という問題にまさに現われていて、精神的に望む状態になりた
いということは、望む自我を手に入れるということとは関係がないと言うことである。
我々が自我があると思う場所にあるものは、関係性の中で手に入れたある認識と、自身の
肉体、経験、環境といったものから、無意識の領域へと放り込まれた大量の情報とその繋が
り、そして、仏教において縁起と呼ばれる、文脈によって引き出された一瞬の意識であり、
そして、まさに人生を決めているのはこの意識である以上、自我は関係ないのだ。
では、どのようにそれを望むようcontrolするのかが重要である。この点において仏教にお
ける解脱とはapproachを異にするだろう。
人は人であると解する。これはひどく個人的な見解であるが、人としての幸せを享受するこ
とを私は必要とし、また楽しく感じるからである。
このことは、非常に重要なことである。自我というものを取り払ったときに、何が自身の行
動の根拠となるのかという事につながるからである。

ここから、楽しさ・快楽というものが自身の行動の根拠となり、どういう欲望を持つかとい
うことがcontrolの上で重要であること、また多様性が確保されていないと、創造性が限定
されてしまう点へと繋げる。
最後に、世界がつらく、自身が努力することで、自分の状況が良くなるという認識が、
世界というのはもともと素晴らしく、楽しいもので、そこに居たいがために生きているとい
うスタンスを述べたい。