ぐしゃり、とへこんだのが分かった。
音が、感触が、それらを全て冷静に伝えている。
しかしそのときその瞬間には、決してそのことを理解していなかった。
分かって居つつも、理解はしていなかったのだ。
自分がたった今、人を殺したというその事実に。
樫屋賢吾は、所謂不良であった。
中学生の頃から喧嘩に明け暮れ、気がつけば拳一つで地域のボスに祭り上げられていた。
多くの、所謂その手の不良と違うのは、本人自身それを望んでそうなったわけではないと言うことだ。
気がつけばそうなっていた。
実際のところ、ケンゴにとって子分が何人いるかとか、女を何人連れ歩けるかとか、その手の事はどうでも良いことだった。
ただ、ケンゴの腹には、常に名状し難き怒りが渦巻いていた。それだけの事だった。
言葉が、言葉こそが、大人と子どもを別つものだ、と。
中学の頃の彼の担任がそう言ったのを覚えている。
では、とケンゴは考える。
では、言葉で誰とも通じ合えない自分は、決して大人になれないのか、と。
勿論彼は、障害や病気などの理由で、言葉を使えないのではない。
ただ単に、言葉を使うのが下手なのだ。
どうしようもなく、下手なのだ。
感情の揺らぎを覚える。それをどうにかして表に出し伝えようとする。けれども、その感情を形容する言葉を知らぬ。その心を伝える文章が浮かばぬ。
感情は感情のまま切れ切れに溢れ、彼の中で渦巻き悶えるのだが、そこに明確な筋道を与える為の言葉が、ケンゴには生み出せなかった。
どうしようもないそのもどかしさを、ケンゴは解決する術を得られぬまま年を重ねた。
結果、彼は言葉ではなく暴力で、他者に意を通す方法しか、得られなかった。
叔父が、そのケンゴの事を見かねて、空手を習わせた。
曰く、健全なる精神は健全なる肉体に宿る。
暴れることにしか向けられぬエネルギーを、武道という規範により昇華させようという、そういう考えで、だ。
叔父は実際本人自身空手、柔道の有段者で、彼自身近在の少年等に指導をしている。
彼なりの教育論において、これは最も有効なものだという自負があった。
結果、ケンゴはそれまでに得た暴力衝動を、より凶悪で凄惨な結果をもたらすものとしてしまった。
空手により鍛えられたケンゴの拳は、素手にて人一人を殺傷するに十分なものと化したのだ。
『お前は人じゃ無い、犬だ。人に噛みつくことしか知らぬ、野良犬、いや、狂犬だ』
ケンゴが最後に聞いた、叔父の言葉である。
【1日目、夜、海岸沿い】
バッグの中には、地図と方位磁針、手帳とペンにペンライト。そして3本の水の入ったボトルと、3袋の乾パンがあった。
オリエンテーリングよろしく、これらで島の中を探索せよ、という事なのだろうと、そう解釈する。
そしてもう一つ、油紙に包まれた物体。
それは重く、硬く、冷たい、鉄の塊。
見た目には、ハンマーの様である。
長さは全長約20㎝ほど。持ち手は僅かにざらざらとして文様で滑り止めが施され、その先端に約10㎝程度の四角い塊。
細かい尖った突起が付いていて、見るからに痛そうだ。
これは、工具としてのハンマーではなく、料理に使う肉叩きである。
肉を叩き、伸ばし、柔らかくするための調理道具だ。
途方に暮れる、とはこのことだ。
こんなもので一体、何をしろと言うんだ。
そう思うが、その事の答えは既に分かっていた。
殺せ。
先程のアナウンスが意味しているのは、ただ一つそのことだけだ。
殺せ。
時間の限り、精一杯、人を殺せ。
そしてポイントを溜めれば、おまえたちが自由になる手助けをしよう。
馬鹿げている。
信じられるものか。
そんなものを易々と信じるのは、大馬鹿者だ。
しかし、だ。
彼、マサオは考える。
半ば禿げ上がった額に流れる汗を、無造作に拭う。
小柄な体格に、よれよれの半袖シャツは、どこからどう見ても、町内会に一人は居そうな、ただの中年である。
そのただの中年が、しかし、と考える。
彼ら―――主催者は、自分が殺人者であると知っていた。
何故?
ばれているはずがない。
誰も、自分が殺人者だと知るはずがない。
なのに彼らは知っていた。
そして、殺人者ばかり集めたこの島で、殺し合いをしろと言っている。
殺人者ばかり集めたというそれも、勿論真実かどうかなど分かりはしない。
ミステリーツアーというこの企画が、果てしなく悪趣味な冗談なのかも知れない。
だがそうだとして、マサオにはどうしても分からないことがある。
何故、こんなツアーに自分は参加したのか?
曖昧な記憶の奥をどれほどほじくり返そうとしても、出てくるのは彼がいつものように夕飯を食べ、いつものように布団で寝た、その瞬間までである。
先程まで、当たり前にイベント参加者だと思いこんでいたのが、まるで狐に抓まれた様でもある。
「奥ちゃん」
小さく、マサオは呟いた。
「助けてよ、奥ちゃん」
蚊の鳴くような、という形容は、今の彼のためにある。
「助けてよ、寂しいよ、奥ちゃん…僕、寂しいよ」
子どものようであった。
彼は、あらゆる全てを放り出して、膝を抱えてうずくまる子どものようであった。
音がした。
虫の声と波の音しかせぬ、島の夜。
その中の、海岸沿いの小さな漁師小屋が、彼の覚醒した場所であった。
初めからそこを一歩も動いていない。
動けるわけがない。
彼は覚醒して後、置いてあったバッグの中を探り、手帳をざっと眺め、道具類を確認した後、ずっと途方に暮れていた。
音は、人の歩く音であった。
小枝を踏む。草を掻き分ける。小石を蹴る。
普段なら聞こえることもないその微かな音が、潜水艦のソナーの如く鋭敏さでマサオの耳に届く。
この場このときにおいて、彼の五感は普段よりもかなり研ぎ澄まされているようだ。
誰かが、来ている。
誰かが、自分を殺しに来ている。
殺して、ポイントを奪い、自由の身になろうとしている。
しかも、その誰かは、殺人者なのだ。
恐る恐るの態で、マサオは鉄製の肉叩きを握る。
貧弱なマサオの拳の中で、それはあまりに重く、何より手に余るものだった。
普段なら、ここまで重く感じたであろうか。
殺すのか?
マサオは自問する。
いやだ、怖い。
即座にマサオはそう思う。
こんなもので、殺人者に立ち向かい、殺す。
そんな真似が自分に出来るのか?
出来るわけがない。
そう、出来るわけがないのだ。
音は、マサオの潜む漁師小屋のすぐ近くまで来ていた。
その迷いのない様子が、まるで自分がここに隠れていることを知ってのもののように思えた。
マサオはよろよろと肉叩きを構える。
構えるが、まるでさまになっていない。
閉じられた板戸が、ガタガタと音を軋ませる。
入ってくる。殺人者がここに入ってくる。ここに入ってきて、自分を殺そうとしている。
開いた瞬間に、マサオは気の抜けたような声を出しながら、へたりと後ろに倒れ込んでいた。
【1日目、夜、樫屋賢吾】
「私を殺しても、ポイントは無いぞ!」
その中年の第一声はそうだった。
甲高い声で色々とまくし立てる内容を整理すると、要するに彼は既に自分のポイントを別の人間に譲渡していると言うことだ。
だから、「自分を殺しても何の得にもならない」という。
五月蠅い。
それがケンゴの感想であり、結果平手で2回ほど中年をはたいて黙らせた。
「ころ…殺しゃ、しねえよ」
何とかそう声にして、ようやく中年は僅かな柄に落ち着きを取り戻す。
その言葉に、嘘偽りはなかった。
樫屋賢吾は、このゲームというものの中で、誰一人殺すつもりなど無かった。
それどころか、拳を握るつもりすらなかった。
この拳を握れば、また誰かを殺してしまう。
だから、拳は握らない。
それはケンゴがこの島に来る前から、一人の人間を殺してしまって以来、何とか自分に課している戒めである。
しかしそのケンゴの宣言を、中年男が信じているかというと微妙である。
彼はひとまず、今此処で殺されるわけではないことだけを納得しているだけだった。
その目に、明らかな怯えと警戒が見て取れる。
「君は、その、どうするつもり、なのかな…?」
痩せて貧相な中年の、様子を伺うような、御機嫌とりをする様な声音に、ケンゴは軽く苛立つが、それはなんとか押し殺す。
「…どーも」
どうもしない。
ただ、それだけである。
ただ単に、48時間をこの島で過ごす。
そうすれば元の生活に戻る。
果たしてそれが真実か。本当にそうして貰えるのか。その確証は何もない。
何もないが、じゃあどうするというのか?
結局、ケンゴには何もする事がない。
ケンゴはの島のゲームに、何一つ望むものはなかった。
整形? 海外に移住? 新たな人生?
全て、必要ない。
彼は元の生活に戻り、保護観察を受けながら、ただ真っ当に暮らせるようになれればよかった。
いや、そうなりたかった。
普通の生活を送れる、普通の人間に、ただなりたかった。
人として生きる術を、ただ学びたかった。
そのためにも、彼は決して、拳を握らぬと誓っているのだ。
マサオはその言の意味を計りかねていた。
ケンゴは己の意を言葉にする術が決定的に足りていない。
だから、マサオにケンゴの意志、意図が伝わることもない。
ただやはり一つ、今この場でマサオを殺すつもりでないことだけが、救いであった。
「あの、僕、もう、ここ出るね、うん。奥ちゃんに会わなきゃだし、ね」
いつまでもケンゴが立ち去りそうにない為、恐る恐るマサオはそう切り出し、バッグを抱えて立ち上がる。
「ん…」
否定とも肯定とも分からぬが、ただそう返して、ケンゴは軽く頭を下げた。
マサオは海岸沿いの見通しの良い浜を歩いている。
とにかく彼は、自分の妻と合流することだけを考えていた。
誰かを殺す? 誰かと協力する?
そんな事は、彼に決められることではないのだという事実を、ようやく思い出したのだ。
彼は、結婚をして後の人生全てを、妻の決定に従って生きてきた。
だから、妻が誰かを殺せと言えば殺してきたし、妻に死体を解体しろと言われればきちんと丁寧にその仕事をこなした。
彼が妻と共に手に掛けた人間の数は、5人。
その最初の1人は、妻の前夫である。
彼女の殺人計画に嫌気が差した前夫を、マサオは命令通り薬殺した。
その最初の一人である妻の前夫は、病死として処理されて、保険金を元手に2人で店を始めた。
最初の店はすぐに潰れたが、二番目の店、つまり今経営しているペットショップは軌道に乗っている。
何せ、経営ノウハウと人脈を持ったオーナーを取り込み、最後には殺して店を乗っ取ったのだ。
取り込み、利用し、殺す。
それが妻の常套手段であり、そのためにマサオは役に立っていた。
妻は、かつてこう言った。
『お前は犬だよ。あたしの言うことを忠実に聞く、忠犬だよ』
そう言われて、マサオはとても喜んだ。
自分は妻にこんなにも愛されている。
妻にとって自分は、必要不可欠な存在なのだ。
だから今、妻は困っているに違いない。
妻が誰かを殺すのにも、誰かから身を守るのにも、自分の存在が必要不可欠なのだから。
「奥ちゃん」
小さく、マサオはそう呟いた。
「奥ちゃん、待っててね。僕、絶対奥ちゃんのところに行くから。奥ちゃんと僕が一緒にいれば、何も怖いことなんか無いんだから」
そう呟いたマサオの目には、先程までの怯えは無かった。
うっとりとした陶酔が、色濃く浮かんでいた。
【参加者資料】
樫屋賢吾 (カシヤ・ケンゴ)
男・21歳・配管工
罪:暴行による過失致死
備考:空手2段
ポイント:100
井伊園正男(イイゾノ・マサオ)
男・41歳・ペットショップ経営
罪:保険金殺人を含めた連続殺人
備考:妻と共に参加、肉叩き
ポイント:0
最終更新:2011年01月19日 07:57