♪♪「硝子の海の中で」♪♪
『ねえ鬼さん、遊ぼうよ私と』
『鬼さん言ってたでしょ? こんなに愉しいことは無いって』
『それって、自分が強いから、上の立場だから言えることだと私は思うの』
『だから私と遊んでみない? ――かってあげるから』
不覚、だった。
完全に、罠にはめられた。
意識の覚醒と共に出会った、長い銀髪の農婦。
軽く挨拶をするかのように持ちかけられた勝負を、受けたのが間違いだった。
「――あと、1時間半、か」
勝負の内容は、単純なものだった。
2時間の時間を賭けて、相手に「参った」と言わせれば勝ちの純粋な肉弾戦。
そして鬼である赤鬼と、人である銀髪の農婦の闘い。
勝てるはずだった。
赤鬼はその力だけでなく、青鬼と一緒にタンゴを踊る程の身軽さも持ち合わせていたし、
農婦は何故か、分けられた袋を持ったまま、つまり片手を封じて闘うという愚策を取っていた。
勝てないなんて可能性は、完全に頭の中から消えていた。
なのに今赤鬼は――立つことも出来ずに、ビルの壁に背を預けている。
「1時間半、か。それだけ有れば、いつもなら大喜びでタンゴを踊るのだが」
再び自らに課せられたタイムリミットを復唱すると、赤鬼は自嘲する。
立てすらしないのに、タンゴを踊れる訳がない。
この傷で立てていたら、銀髪の農婦にも敗けなかっただろう。
「がはは、這い動く気力も失せる――青鬼どんよ、どうやら俺はここで終わりのようだ」
赤鬼は視線を上に向け、ビルに切り取られた狭い空に浮かぶ月を見る。
月の色は青。青鬼どんの青だ。
赤鬼は考える。自分があと1時間半で死んだ、その後。
青鬼どんがその事を知ったらどうなるだろう。
青鬼どん。赤鬼と違って背が高く、線の細い体で、頭に二本角を生やした優しい鬼。
満月の夜、一緒にタンゴを踊る仲の親友。
彼は、悲しんでくれるだろうか。
それとも、
「いや、もはやこんな事は考えても無駄か」
赤鬼は思考を放棄して、目を閉じることにした。
血が傷口から流れ出て、赤鬼の体にどうしようもない寒気を感じさせている。
今頭を働かせても、悪い方向にしか考えられないだろうと思った。
例えば青鬼どんが、自分のことを気にかけてくれなかったら。
青鬼どんが赤鬼の死を悼まず、むしろ喜んだとしたらどうするか。
――なんて事、考える必要もない事だ。
思索する意味もない事なのだ。
そんなことを考えても、悲しくなるだけだから。
「寝るか」
全く、いい月だった、と赤鬼は思った。
眼前は赤く染まり、月は赤く光って見える。
先程見た青い月より、余程自分に似合って見えた。
だからもう、いいのだ。
今の自分に出来ることは何もないのだから、このまま寝てしまっても。
心の中から聞こえて来た声を享受した赤鬼は、瞼を閉じた。
街灯の灯り。月の光。それら全てが意味の無いものになり、意識が滲んでいく。
いい暗闇だ。死の間際に見る暗闇は、こんなに綺麗なのか。
赤鬼は最後に、そんなことを思って。
そっと、硝子を靴が踏む音がした。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
「え……?」
お嬢様がビルの角を曲がると、そこには鬼が居た。
オレンジ色の街灯の下、鬼はビルの壁に体を預け、足を地面に投げ出している。
顔は伏していた。だから、その表情がどんなものなのか、お嬢様には分からなかった。
「あれって、あの時の鬼ですよね……?」
お嬢様は思い起こす。そして、自分の記憶の中の赤い鬼とそこにいる鬼を見比べる。
間違いない。兎に飲み込まれる前にいた場所で、主催に突っかかっていった鬼だ。
「あのー……鬼さん、大丈夫でしょうか……?」
鬼と自分の距離は、まだ数メートルある。
だというのにそれ以上近付けなくて、お嬢様は小さくその場から声をかけた。
しかし、夜闇に掻き消えるような囁きが、そんな距離を旅することはやはり出来ず。
反応は、無しだった。
「……」
これ以上近付きたくない、とお嬢様は思う。
相手が鬼だからとか、そういうことではない。
ただ単に、これ以上近付いたら傷付くかもしれないという予測があるからだ。
ビルの壁にもたれかかる鬼の周りに、硝子片が飛び散っている。
誰がやったのかは分からない。そのせいで鬼が倒れているのかどうかも、お嬢様には分からない。
だけど硝子の撒かれた地面を進むのが、危険なことだというのは分かる。
例えそれが、靴を履いているお嬢様でも同じこと。
何かの拍子に転んだりしたら、ひどい怪我を負うかもしれない。
「……どうしましょう」
明かりに反射してキラキラ光る硝子の海を見ながら、お嬢様は呟く。
「……どうしましょう?」
思い付いたように、言い方を変えてみる。
大した意味は無かった。
「おーい鬼さん! 生きていらっしゃいますかー!?」
今度は少し勇気を出して、大声で言ってみる。
これなら鬼にも届くだろうと誇らしげに胸を張るも、反応は無し。
「…………うぅ」
むす、という効果音がつきそうな勢いで、お嬢様の頬が膨らむ。
リスみたいだと自分で思ったのか、すぐに頬は引っ込めてコホンと咳払いをした。
そして、異様な状況で崩れ伏している鬼を再び見る。
どうやらあと選択肢は、2つしか残っていないようだ。
「……ええ、分かりました、仕方ないです。
少し危ないですが、そんなこと言ってる場合じゃないみたいですし」
2つの選択肢。「このまま鬼を見捨てる」「危険かもしれないけど近寄る」の2つの内、お嬢様は迷わず後者を選んだ。
……いや、そう記述するのも少し変かもしれない。
正確には、お嬢様は鬼を見捨てて逃げようなんて最初から考えていなかった。
この場所に連れて来られる少し前。
花の咲き乱れる森の中で出会った大切な友人のことを思えば、鬼はお嬢様に取って、恐れる対象ではないからだ。
「あの熊さんも、連れて来られてるんでしょうか……? だったら、嫌だなぁ」
友人の身を案じつつ、お嬢様は硝子の海へ足を踏み入れる。
ぱりん、と小気味よい音を立てて、硝子の破片が一枚割れた。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
硝子の破片が割れる音の後、鬼と女の子の視線が交錯した。
「どうしよう……」
それをビルの2階の窓から除くぼくは今、猛烈に迷っている。
何故か赤鬼に近付こうとしているあの女の子。
あの子を助けるべきか、無視するべきかだ。
ぼくは見ていた。
ビルの2階の窓から、赤鬼と銀髪の女性の戦いをずっと眺めていた。
黒い空に反して、朱く照らされた大通りで交錯した二つの影。
巨大な体からは想像も出来ない俊敏な動きをする赤鬼と、
何故か袋を片手に持ったまま鬼の攻撃を避け続ける銀髪の女性。
その二人の戦いを、ずっとずっとこのビルの二階から見ていた。
だから、分かる。あの鬼は危険だ。
結果的に勝者は銀髪の女の人になったが、それは偶然が重なった結果にしか見えなかった。
もしあの鬼と対峙すれば、ほとんどの人が瞬時に天国に送られるだろう。
今だって、女の子の首を掴んでへし折るくらいなら、平気でやってしまいそうだ。
「……助けなきゃ」
ぼくは呟いた。さすがに、女の子が殺されるのをみすみす見ている訳にはいかない。
恐いけど、きっと大丈夫だ。焦る気持ちを思考の隅に追いやり、右手に握ったものを見る。
そこには、黒光りする拳銃があった。
「……大丈夫な、はずだ」
心の中で唱えた言葉を吐いて、自分に言い聞かせる。
偶然見つけた、この拳銃。
装弾数6。弾は3発入ってる。撃鉄を起こしてから引き金を引けば、簡単に弾が飛んでいく。
詳しいことは分からないけど、それだけ分かれば充分だった。
これを、使えば。
ぼくは鬼を、殺せる。
「……!!」
ふと窓の外を覗くと、いつのまにか女の子は鬼のすぐそばまで歩み寄っていた。
ここは2階。
――下に降りている時間はない。
「仕方ない……!」
ぼくは拳銃を頭の上に振り上げ、思い切り窓ガラスにぶつけた。
意外とあっさり、硝子が割れる。
破片が落ちる音でこちらに気付かれるだろうが、構わない。不意打ちなんてしても、意味がない。
窓の淵に残った破片を拳銃で薙ぎ払うとぼくは、窓から身を乗り出した。
「そこの人、逃げて! そいつは危険だ!」
腹部にちくりと痛みがした。まだ硝子が残っていたか。
撃鉄を起こしながら、ぼくは銃口を鬼に向けた。
距離は数メートル。小さな声なら届かないだろう距離。
でもぼくが撃つのは、声じゃなくて弾だ。この距離ならきっと、当たるような気がする。
片耳にイヤリングを付けた女の子が、唖然とした表情でこちらを見ていた。
狐に包まれたような顔をしてその場から動かない。
さすがに、すぐにはぼくを信じてくれないか。
だが、声は届いたらしかった。
なら、あと一押しでいける。鬼の恐さを伝えれば、逃げてくれるはずだ。
そしたら、ぼくに必要なのは、引き金を引く勇気だけになる。
その勇気だってぼくにはある。クラリネットの時のぼくとは、もう違うのだから。
逃げない。
もう、迷わない。
「聞いてくれ! その鬼は――」
手を口に当てて、大声を出す。
そのときぼくの視界が、とてもとても大きく揺れた。
【ぼく@クラリネットを壊しちゃった】
【時間】-2時間
【お嬢様@もりのくまさん】
【時間】-2時間
【赤鬼@赤鬼と青鬼のタンゴ】
【時間】-4時間
……少し遅れて、銃声が響いた。
最終更新:2009年06月06日 00:01