『遁げろ家康』(朝日新聞社)は司馬遼太郎の『覇王の家』との類似点を指摘され、2002年12月25日に絶版・回収となる。
同じく『島津奔る』(新潮社)も司馬の『関ヶ原』と同様の問題で、2003年4月3日に絶版・回収となった。
司馬遼太郎作品との「類似」問題により活動をほぼ停止した。死してなお、作品の盗作問題と関連して引き合いに出されることが多い。
・Wikipedia-池宮彰一郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E5%AE%AE%E5%BD%B0%E4%B8%80%E9%83%8E
パクリ側(遁げろ家康:池宮彰一郎) | パクラレ側(覇王の家:司馬遼太郎) |
家康に、爽(さわ)やかさや潔さが薄れ、どこか狡(ずる)さの印象が否めないのは、彼の処世術がこういうやり方の連続だった所為である。 | 家康という歴史上の人物が(中略)すこしも爽快(そうかい)な印象をもっていないのは、かれの生涯がこういうやりかたの連続であったことによる。 |
秀吉が、いまようやく手に入れた天下人の威望は、たった一つの理由による。 それは戦って敗れたことのないという信頼感だけで危うくつながっていた |
秀吉がいまようやく獲得した天下における威望は、たった一つの理由によって成立していた。 かれがかつて戦って敗れたことがないということであり |
パクリ側(島津奔る:池宮彰一郎) | パクラレ側(関ヶ原:司馬遼太郎) |
下巻 P.148-149 軍議が始まろうとする時、知らせが入った。合渡川の敗報である。 「誤報だろう」 三成は、この期に及んでも強情だった。 自説を曲げない。おのれの脳裏に描いた戦略と戦況を固く信じ続けている。 |
下巻 P.153 軍議が、はじまった。 いや、はじまろうとした。そのとき、北方の合渡川渡河点での敗報が軍議の席上にもたらされた。 三成は、顔色を変えた。 「誤報ではないな」 なお、念を押した。この期におよんでも三成の自信はゆるがず、敗報が信ぜられないのである。 |
下巻 P.265-266 正則は、銀の芭蕉葉の馬印をうち振り、 「死ねや、死ね死ね!」 と、絶叫し、臆する自軍の兵を斬ったりした。遂には退く自軍の不甲斐なさに堪えかね、 「返せーッ!」 と、馬印を持筒頭に抛り渡し、自ら槍をとって突撃しようとした。だが前軍は四散し、中軍は崩れ、後軍が退くのは留め処がない。 その時、加藤嘉明勢三千と、筒井定次勢二千八百五十が横合いから宇喜多勢を突かなければ、福島勢は壊滅したであろう。 |
下巻 P.286-287 正則は自軍の腑甲斐なさに激怒した。馬にとびのり乱軍のなかに駆け入り駆けまわり、銀の芭蕉葉の馬印を振りかざしつつ、 「死ねやっ、死ねやっ」 と叫びつつ崩れを立ちなおらせようとしたが、いったん退き色の出た味方の足はとまらない。 (中略) 「返せーっ」 と正則はついには馬印を持筒頭に投げわたし、みずから槍をとって敵にむかおうとさえした。 (中略) このとき、東軍の加藤嘉明隊、筒井定次隊が宇喜多隊を横撃しなかったならば福島隊は壊滅していたであろう。 |
・池宮彰一郎作品と司馬遼太郎作品の類似について http://kuroneko-y.hp.infoseek.co.jp/ikemiya.html
より引用