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仁志 敏久(35歳)二塁手 171/80(常総学院→早大→日本生命→巨人)



今年横浜にトレード移籍した仁志敏久選手。


経歴を見れば一目瞭然だがこの選手
バリバリの『野球エリート』。夏の甲子園に準優勝を1回含め3年連続で出場。高校通算28本塁打。早稲田大学に進学後主将を務めリーグ優勝に貢献。日本生命を経てドラフト2位で巨人を逆指名する。以前のドラフトならば間違いなく1位指名で競合される存在だっただろう。尚この年の3位に1,2番コンビを務める清水隆行(東洋大)も入団している。この年は数少ない巨人のドラフト大成功年だ。


ルーキーイヤーの
1996年シーズンに打率2割7分7HR24打点を挙げ、セ・リーグの新人王を受賞。尤もこの年はポジションが定まらず何処でも守り一番多く守ったのは三塁手で翌年から本格的に二塁手にコンバートされる(ちなみに早大時代は遊撃手であり、日本生命時代は三塁手だった)。当時の長嶋監督が「大型一番」を好んでいたこともあるのだろう、小柄な体格に似合わずパンチ力のある思い切り良いバッティングでレギュラー定着。00年・01年には1番打者にも関わらず20本塁打をマークし長嶋野球の申し子といっても良い存在であった。


そんな順風満帆な野球人生を歩んでいた仁志に転機が訪れる。01年オフの長嶋監督退任・原新監督就任である。同監督は実力がありながら燻り続けていた清水を1番・仁志を2番で起用する方針を立てた。清水はこの抜擢に応え大活躍。しかし仁志は2番起用に戸惑ったのと故障で2割4分4厘というプロ入り最低打率と苦しんだ。復帰後は規定打席不足ながら得点圏打率は3割2分台、盗塁数
22盗塁失敗0、そしてあの『02年日本シリーズ陰のMVP』と称えられた好守があったものの彼にとっては不本意なシーズンであった事は間違いない。03年は故障でまたも2割4分6厘どまり。走攻守全てにおいて故障の影響が響いて内容も悪くポジションをチーム一の俊足・鈴木尚広に奪われてしまった。


しかし原監督が辞任・堀内監督就任で04年息を吹き返す。二塁のポジションを再奪取し自己最高の28本塁打をマーク。しかしチームの低迷もあり「自分勝手なバッティング」と揶揄される事も向きもあった。05年には再び成績悪化、06年にはロッテから加入した小坂とポジション争いも開幕から打撃不振を極め1割8分5厘、1本塁打と散々な結果に。新人の脇谷に2人してセカンドのレギュラーを奪われた。そしてオフには以前よりトレードを希望していた仁志の意向で小田嶋正邦(+金銭)とのトレードが成立し、横浜ベイスターズへの移籍が決定した。


元々千葉茂から(苅田久徳からとも言えるが)の「職人的で一本気」と表される巨人の二塁手としての伝統か、仁志自身もかなり強気でアクの強い性格で知られる(早大優勝時には監督を胴上げするチームメイトを尻目に「僕あの監督嫌いですから、胴上げなんかしたくありません」とマスコミに発言する等の逸話も残している)。良くも悪くも思ったことがそのまま口を突く性格なので時折マスコミを中心に物議を醸す事がある。だが野球雑誌でコラムを掲載するなど野球人気の低迷を憂い積極的に活動していた人物でもあり、川相昌弘(巨人→中日)同様フロントにも物怖じせずに発言する選手だった。


原監督との確執が伝えられるが純粋に采配面で合わなかった部分もある。

仁志の特徴として極端なまでのプルヒッティング(引っ張り)で長打も多いのだが三振も多い。加えて当たり出すと止まらないが打てない時はノーヒットを連発するかなり淡泊な打撃。そして早打ちの傾向もあるので出塁率も1番打者にしては低かった(この点はたびたび批判されても頑として変える事がないのでおそらく今後も変わる事はないだろう)。4打席立たせて結果を出す方なので代打でも厳しく、自由な立場で力を発揮するので2番のように制約が多いと調子を落とす。駿足ではあるのだが盗塁失敗も多く(02年は除く)かなり使いづらい選手。出塁率と機動力、粘っこさなどを重視する同監督では起用する気になれなかった、と見ることも出来る。


横浜移籍後は内川が送球難で外野転向しているので種田と二塁のレギュラー争いをすることになるだろう。共に06年不振のベテランで実績は仁志の方が上。粘っこさと器用さという点では種田の方が上。しかし仁志は新戦力という事で起用されやすいだろう。守備力に関しては絶妙なポジショニングでセリーグ有数と言われるだけにこの点でも仁志は有利。年齢的な後退が心配だがもう一花咲かせたい所。横浜にはいないファイタータイプの選手。仁志加入によってチームがどのような影響を受けるか注目である。

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