1975年4月3日 - )は大阪府寝屋川市出身のプロ野球選手(現役期間
1999年 -
)で、セントラル・リーグ、読売ジャイアンツ所属のプロ野球選手。ポジションは投手。背番号は19
。右投右打。186cm、86kg。血液型はB型。
プロ入り前
大学3年時に日本代表に選ばれた1997年のインターコンチネンタルカップ決勝で、当時国際大会151連勝中だったキューバ相手に先発して勝利投手となった。以降松坂大輔と並ぶドラフトの目玉とみなされ多くの球団が獲得に乗り出すが、最終的にはメジャーリーグのアナハイム・エンゼルスと読売ジャイアンツでの争奪戦となったが、結局周囲の説得などもあり1998年ドラフトで読売ジャイアンツに1位指名(逆指名)され、入団する。
プロ入り後
- 1999年
- 2000年7月2日の広島東洋カープ戦で右太もも肉離れを起こし登録抹消。事故や転倒なども重なり9勝7敗に終わる。
- 2001年4月13日の横浜ベイスターズ戦で今度は左太ももの肉離れで離脱。早期復帰を果たすも万全でなく、後半戦では右ひざの故障もあって低迷、10勝7敗(防御率も4点台)に終わる。
- 2002年
- 200イニング登板を達成(204イニング)し17勝5敗の成績で最多勝、沢村賞、ベストナインを獲得。
-
日本シリーズ第1戦、対西武ライオンズに先発、12奪三振・1失点の完投勝利でチーム史上初の4連勝日本一に貢献。優秀選手賞を獲得。
- シーズン後に行われた日米野球に登板、当時絶頂期であったバリー・ボンズから3打席連続三振を奪い、メジャーリーグからのスカウトの注目を集める。
- 2003年、2年連続で200イニング登板を達成し16勝5敗。最多被本塁打を記録するものの、井川慶と熾烈なタイトル争いを演ずる。(井川は20勝5敗)
- 2004年
- 2005年は年間を通して不調に苦しみ、9勝12敗で初めてのシーズン負け越しとなる。
- 2006年
- 2007年
- 5月2日、中日ドラゴンズ戦でプロ初セーブを挙げた。
- 9月26日、中日ドラゴンズ戦で球団新記録となる31セーブを挙げた。
- プロで20勝を挙げ30セーブを記録した投手は江夏に次ぎ史上2人目である。
プレースタイル
トルネード投法気味のノーワインドアップから投げられる威力のある直球に、スライダー、カットボール、数種類のフォークを操り、ごく稀に105km/h前後のカーブを混ぜる。高い制球力とスタミナを武器にしたテンポの良い投球が持ち味。直球とフォークのコンビネーションを基本とし、狙って三振が取れる投手。
- 上原の得意とするフォークボールは、大小の落差・スライダー回転・シュート回転など軌道が異なるものを意図的に内外角のコースへ投げ分けることが可能で、先発として殆ど直球とフォークのみで投球を組立てられる器用さを持つ。フォークを武器とする投手としては暴投が少ない。しかし、フォークボールを覚えたのはプロに入ってからで、それまでのアマチュア時代は、典型的なスライダー投手だった。「フォークを覚えたらスライダーの投げ方が分かんなくなっちゃった(本人談)」ためプロ入り後数年にわたってスライダーを封印し、現在の投球スタイルを確立した。
- 直球は一時MAX150km/hに届こうかという速さだったが、フォームを現在のものに改造してからは140km/h前後になった。
- しかし、球にキレがあるため140km/h前後のボールを各バッターが振り遅れることも多い。上原の球は球速以上に速く感じるという選手も多い。
- 投球間隔の速さから、上原の投げる試合は早く終わる傾向がある。1999年7月4日の横浜ベイスターズ戦では1時間59分、2005年5月10日のオリックス・バファローズ戦では2時間7分で完投勝利を挙げた。
年度 |
チーム |
背
番
号 |
登
板 |
完
投 |
完
封 |
無
四
球 |
勝
利 |
敗
戦 |
セーブ |
勝
率 |
投
球
回 |
被
安
打 |
被
本
塁
打 |
与
四
球 |
敬
遠 |
与
死
球 |
奪
三
振 |
暴
投 |
ボーク |
失
点 |
自
責
点 |
防
御
率 |
1999年 |
巨人 |
19 |
25 |
13 |
1 |
4 |
20 |
4 |
0 |
.833 |
197.2 |
153 |
12 |
24 |
3 |
4 |
179 |
3 |
0 |
49 |
46 |
2.09 |
2000年 |
20 |
6 |
1 |
2 |
9 |
7 |
0 |
.563 |
131.0 |
112 |
20 |
22 |
1 |
1 |
126 |
1 |
0 |
53 |
52 |
3.57 |
2001年 |
24 |
4 |
1 |
1 |
10 |
7 |
0 |
.588 |
138.2 |
133 |
18 |
28 |
3 |
5 |
108 |
2 |
0 |
66 |
62 |
4.02 |
2002年 |
26 |
8 |
3 |
4 |
17 |
5 |
0 |
.773 |
204.0 |
173 |
18 |
23 |
3 |
6 |
182 |
2 |
0 |
65 |
59 |
2.60 |
2003年 |
27 |
11 |
1 |
3 |
16 |
5 |
0 |
.762 |
207.1 |
190 |
28 |
23 |
3 |
5 |
194 |
0 |
0 |
76 |
73 |
3.17 |
2004年 |
22 |
2 |
0 |
0 |
13 |
5 |
0 |
.722 |
163.0 |
135 |
24 |
23 |
0 |
5 |
153 |
1 |
0 |
54 |
47 |
2.60 |
2005年 |
27 |
6 |
2 |
4 |
9 |
12 |
0 |
.429 |
187.1 |
164 |
24 |
22 |
0 |
0 |
145 |
0 |
1 |
73 |
69 |
3.31 |
2006年 |
24 |
5 |
0 |
3 |
8 |
9 |
0 |
.471 |
168.1 |
157 |
24 |
21 |
3 |
1 |
151 |
0 |
1 |
67 |
60 |
3.21 |
通算成績 |
195 |
54 |
9 |
21 |
102 |
54 |
0 |
.654 |
1397.1 |
1217 |
168 |
186 |
16 |
27 |
1238 |
9 |
2 |
503 |
468 |
3.01 |
タイトル・記録・表彰
エピソード
- 入団当初からメジャーへの希望を持ち続けており、2004年~2005年オフにもポスティング移籍を直訴してきたが、所属球団の見解、経済的事情と対立し断念。現在も『ポスティングの12球団統一ルール』の施行を主張している。
- 背番号の19は、大学受験に失敗し浪人生活を送った19歳の1年間を忘れないようにという意味が込められている。
- 自分自身を雑草に喩えた「雑草魂」という言葉は、松坂大輔の「リベンジ」と共に1999年の流行語大賞に選ばれた。「雑草魂」は鈴木啓示の座右の銘「草魂」からきている。
- 同い年の川上憲伸とは互いを認め合う仲で、川上はカットボール、上原はフォークとお互いの勝負球の握り方などの情報を交換し合っている。
- 黒田博樹とも仲が良い。黒田が受けた肘のクリーニング手術を受けるべきかと聞いて、「絶対にやるべき、4月に」と言われ「開幕しているじゃないですか」と笑いながら返すなど、2人の仲の良さが窺えた。2006年オフ、黒田がFA権を取得しながらも広島残留を表明した時には「メール出したんだけどなぁ、巨人に来て欲しかったんだけどなぁ」とラジオ番組でぼやいていた。
- 松井稼頭央とも年齢、地元が同じなことから親交がある。巨人対西武の対戦となる2002年の日本シリーズ前には、お互いに意識している旨のコメントをしていた。
-
選手の先頭に立ち、球団にも言いたいことをはっきり物を言う。旧来の伝統から、優等生的なものが求められがちな巨人の選手にあっては稀な存在であり、本人も「他の選手からもよく『ジャイアンツっぽくない』と言われますよ」と話すなど、自覚があっての振る舞いらしい。「俺がチームの中で一番練習している」、「はっきり言って若い奴らには負ける気がしない」、「プロに入ったということで満足している奴らが多すぎる」「ジャイアンツだ、というだけで生き残っていける時代は終わったんです」と、チームに喝を入れるような厳しい発言を多くしている。
- チームメイトの高橋由伸とは、生年月日が一緒であり、高橋尚成とは1日違いである。
-
ヤクルト戦には強く、対セ・リーグ5球団で通算防御率や通算勝利数、完投勝利数、完封勝利数のいずれも良い成績を残している。通算20勝9敗。
- 2007年より抑えに転向したが、その年のオールスターゲーム第一戦では監督を務めた落合博満のはからいで先発に起用される。登板後のインタビューにおいて「もう先発で投げる事は無いと思っていましたから、素直に落合さんに感謝します」と語った。
- 登板時のBGMはPRIDEのテーマを使用している(ただし入団時から2003年シーズンまではボーイズ・タウン・ギャングの『君の瞳に恋してる』)。
-
本人は「対戦相手に恵まれていただけ(笑)」と謙遜するが、2006年のWBCでも2勝を挙げるなど、外国チームとの国際試合では大学時代から数えて21戦12勝無敗という無類の強さを誇る。
- 日本シリーズでも2試合登板し、2勝0敗。大舞台での強さは日本人No.1といっても過言ではない。
- 2000年から2006年まで7年連続開幕投手を務めたが、2007年はキャンプ中に古傷を痛めたこともあり開幕に間に合わず、8年連続開幕投手はならなかった。開幕投手に7度選ばれているが、勝ち星を挙げたのは2001年(対阪神)、2006年(対横浜)だけであり、相性は良くない。
-
2007年、抑えに転向しチームの優勝に貢献した。チームに貢献した抑え投手としてマジック1で迎えた10月2日、3日の対ヤクルト戦残り試合2試合のどちらかの試合で優位に進めば胴上げ投手がほぼ確約されていた。しかし10月2日の試合1点差でリードされた9回裏にチームが逆転サヨナラでリーグ優勝を決定したために惜しくも胴上げ投手になることはできなかった。
涙の敬遠
ルーキーイヤーの1999年10月5日、上原はヤクルトとの最終戦に登板した。すでに中日の優勝が決まった後の消化試合であり、専らの注目はタイトル争い。両チームに所属する松井秀喜(現ニューヨーク・ヤンキース)が41本、ペタジーニが42本と本塁打王を激しく争っていた。上原自身も中日の野口茂樹(現巨人)と最多勝を争い、この試合に20勝目がかかっていた。この年ペタジーニを無安打に押さえ込んでいた上原は、1・2打席目では勝負して打ち取ることに成功する。しかし、この間松井が一貫して敬遠気味の四球で歩かされ続けたことで、7回裏にペタジーニの3打席目を迎えたところでベンチから敬遠の指令を受ける。指示に従いストレートの四球で歩かせたが、勝負できない悔しさからマウンドの土を蹴り上げ、目に浮かんだ涙をユニフォームの袖で拭っていた。9回の4打席目では再び勝負し適時打を浴びたものの、上原は2失点で完投勝利し20勝目を挙げる。その話題性とも相まってこの涙はニュース等で大きく取り上げられ、タイトル争い、四球合戦の正当性について議論を巻き起こした。
最終更新:2007年10月03日 01:17