上原 浩治(巨人)投手
1975年4月3日- )は大阪府寝屋川市出身のプロ野球選手(現役期間1999年- )で、セントラル・リーグ、読売ジャイアンツ所属のプロ野球選手。ポジションは投手。背番号は19。右投右打。186cm、86kg。血液型はB型。
プロ入り前
大学3年時に日本代表に選ばれた1997年のインターコンチネンタルカップ決勝で、当時国際大会151連勝中だったキューバ相手に先発して勝利投手となった。以降松坂大輔と並ぶドラフトの目玉とみなされ多くの球団が獲得に乗り出すが、最終的にはメジャーリーグのアナハイム・エンゼルスと読売ジャイアンツでの争奪戦となったが、結局周囲の説得などもあり1998年ドラフトで読売ジャイアンツに1位指名(逆指名)され、入団する。
プロ入り後
トルネード投法気味のノーワインドアップから投げられる威力のある直球に、スライダー、カットボール、数種類のフォークを操り、ごく稀に105km/h前後のカーブを混ぜる。高い制球力とスタミナを武器にしたテンポの良い投球が持ち味。直球とフォークのコンビネーションを基本とし、狙って三振が取れる投手。
ルーキーイヤーの1999年10月5日、上原はヤクルトとの最終戦に登板した。すでに中日の優勝が決まった後の消化試合であり、専らの注目はタイトル争い。両チームに所属する松井秀喜(現ニューヨーク・ヤンキース)が41本、ペタジーニが42本と本塁打王を激しく争っていた。上原自身も中日の野口茂樹(現巨人)と最多勝を争い、この試合に20勝目がかかっていた。この年ペタジーニを無安打に押さえ込んでいた上原は、1・2打席目では勝負して打ち取ることに成功する。しかし、この間松井が一貫して敬遠気味の四球で歩かされ続けたことで、7回裏にペタジーニの3打席目を迎えたところでベンチから敬遠の指令を受ける。指示に従いストレートの四球で歩かせたが、勝負できない悔しさからマウンドの土を蹴り上げ、目に浮かんだ涙をユニフォームの袖で拭っていた。9回の4打席目では再び勝負し適時打を浴びたものの、上原は2失点で完投勝利し20勝目を挙げる。その話題性とも相まってこの涙はニュース等で大きく取り上げられ、タイトル争い、四球合戦の正当性について議論を巻き起こした。
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