高橋由伸(巨人)外野手
1997年逆指名枠入団(桐蔭学園高(甲)-慶大)1975年4月3日生まれ 身長180cm体重87kg千葉出身 右投左打 血液型 O型
ポジションは主に外野手(右翼手)背番号は24
現在、読売ジャイアンツ選手会長(2003年度~)
慶応大時代、1996年春リーグでは三冠王、また田淵幸一のもつ東京六大学通産本塁打記録を更新する通産23本塁打を放ち、97年ドラフトでは大目玉として西武・ヤクルト・巨人の激しい争奪戦が繰り広げられ読売新聞でもヤクルト入団間違いないと言われていたが、最終的には巨人を逆指名。折りしも入団4年目の松井秀喜がコンスタントに35本塁打前後を打ち始めた頃であり、巨人の3・4番を担う選手として大いに期待された。
ルーキーイヤーから、打率300本塁打19・ゴールデングラブ賞獲得の大活躍。中でも印象的なのはレギュラーシーズン最終戦。打率3割ギリギリで迎えた試合であったが、当時の長嶋監督も出場を薦め、見事に安打を放ち3割を達成。プレッシャーに強いところも見せ付けた。
その後もプロ生活9年間で6度の3割を打つなど活躍、ゴールデングラブ賞6回・ベストナイン1回を誇る。守備においては強肩に加え、とってから返球までの早さに定評があり、また塀際を恐れないプレーにファンも多いが、反面ゲガに繋がることも多く、シーズンの長期離脱も絶えない。打撃ではインコースのさばきに非凡なバットコントロールを発揮する。右足を高く上げたのち、豪快に振り抜く右翼方向への本塁打は、球界でも屈指の美しく高い放物線を描く。
入団当初より2004年までの7年間で、6回の3割を達成しているが、これは大卒選手では長嶋茂雄以来2人目の快挙である。本塁打も1999年の34本を筆頭に、プロ9年通産215本とコンスタントに打っているが、いまだに打撃タイトルは取れていないので無冠の帝王でもある。総合的にはこれだけの成績を上げながら、親しい知人に「僕は中途半端な選手」と嘆いているというが、走行守全てに高レベルな上、勝負強さも兼ね備えたプレー振りは全てのファンの知るところである。また豊富な練習量と、ぶっ倒れるまで振り抜く姿勢は広く知られるところであり、その真摯な態度に共感するファンも多い。
国際試合の経験も豊富で、2001年のワールドカップでは日本代表の4番で出場。キューバを破った試合では適時打で貢献。ちなみにキューバはこの試合まで、国際大会46連勝。
日本代表のキューバ戦勝利は、この試合が3試合目となるが、その前は1997年のインターコンチネンタルカップでのこと。この試合でも高橋が3点本塁打を打ち、大試合での強さも際立つ。ちなみにこの試合、今は同僚の上原もキューバの強力打線を6回途中まで1失点に抑えて勝ち投手となっている。この頃のキューバは、後に来日したリナレスの全盛期だったが、その国際試合151連勝を止めた歴史的勝利であった。
<エピソード>
・ドラフトで激しい争奪戦が繰り広げられたことは前述の通りだが、巨人の逆指名会見では終始暗い表情に徹した為、交渉経過について諸々取りざたされたのは有名な話。その入団経緯から、FA権取得のあかつきには即座に移籍するのではとの危惧もあったが、2006年オフには『生涯巨人宣言!!』をしてファンを喜ばせた。「まだ決めたわけでは無いが・・」との前置きがあるとはいえ、阿部・二岡とともに巨人に骨をうずめて欲しい貴重な生え抜きである。
・マスコミ受けのよかった松井と常に比較され、損な役回りである。しかし、彼の人となりをよく知るものにとっては、それが高橋特有のシャイでストイックな内面からくるものであって、その真摯な練習態度からも、決して彼の人物評価を落とすべきでないだろう。
アマチュア時代
高校時代のエピソード
中学のポニーリーグ時代はエースとして全国制覇を経験し、桐蔭学園高校からスカウトされる。
このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー と 利用規約 が適用されます。
1文字以上入力してください
本文は少なくとも1文字以上必要です。
1文字以上入力してください。