自宅のドアを開ける。
もちろん戸じまりはしっかり、テンプレートなセリフを吐くゆっくりなど家の中に存在しようはずがない。
のそり、と、開かれたドアから男が玄関に入る。
巨躯であった。180cmをゆうに超すであろう長身と、それに見合うほどに高密度に肉体に詰められた筋肉。
日焼けしてやや浅黒い肌。
普通の人間が目にすれば、一目で圧倒されるであろう偉丈夫であった。
靴を脱ぎ、家に上がる。居間につき、鞄を床に下ろすと同時に座り込んだ。
大きく息を吐く。身体の芯から絞り出すような、長い吐息だ。
吐き終ると、出し尽くした息を少しだけ取り戻すように吸い、帰宅後初の言葉をもらす。
「ゆっくりー……」
無意識だった。数瞬後に、知らず吐き出した己の言葉を反芻し、苦笑をもらす。
うつってしまったな、と。
しかし、男がゆっくりしていたのはほんの数分だけであった。
いや、違う、本当はゆっくりなどしていない。
立ち上がり、おもむろに服を脱ぎ始める。
自分のゆっくりはまだこの先にあるのだ。
準備を、急がねばなるまい。
さらに数分、それで男は準備を終えた。
先ほどまでの服を脱ぎ、新たに身を包むのは色鮮やかとは呼べない、緑と茶色をグラデーションで交えた柄の上下セットだ。
購入した先の古道具屋の店主は、「迷彩服」と呼んでいた。
さらに同じ柄の小さな肩掛け鞄を片方に引っさげ、玄関へ向かう。
色が目立ちにくく、かつ丈夫に作られた黒い靴を履くと、出発である。
もちろん戸じまりはしっかり、慧音先生との約束だ。
向かった先は、人里からかなり離れたところにある森であった。
このような遠くの森に一人で訪れるのは危険だが、目的のためにはこの立地がベストなのだ、仕方ない。
目的、そう、目的だ。
未踏の木々、植物を踏みわけ、獣道をしばらく進む。
森のやや深部まで到達すると、さらなる準備を進めることにして立ち止まった。
鏡、さらに数色の顔料を取り出すと、鏡を覗きながら顔料を顔に塗り始める。
化粧?ある意味では、そうかもしれない。服となるべく同じ柄になるように、荒々しく化粧をほどこす。
化粧が終わると、立ち上がり、その辺の木の枝を優しく手折る。
葉がすこし茂ったそれを二本、おのれの側頭部にあてがうと、深緑の布で頭を一周するように巻き、固定する。
準備は整った。
男は姿勢を低くすると、物音をたてぬように慎重に、かつ素早く、そして獲物を探すように耳を立て、目を皿にして移動を開始。
ほどなくして、獲物を見つけた。
確認と同時に、地面に伏せる。
その体は、伏せった地面の色と身に纏った色が混ざり、遠目には周囲自然の一部のように見える。
息を殺す、気配も殺す。はやる気持ちを抑え、鞄から二つの筒が左右でくっついたような物を取り出した。
これも先の古道具屋で購入したものだ。名を「双眼鏡」。用途は筒を覗き込んだ先にある遠くの物を拡大し、見えやすくする。
眼鏡をかけた店主は、これを譲ることを中々に渋っていたが、長きにわたる交渉の末にようやく手に入れた。
筒を覗き込み、照準を合わせながら、獲物を確認する。
いた。
森の緑にそぐわぬ、肌色の生首一つ。
喉が鳴る。
そこにいたのは、間違いなく探していたもの。
「ゆっくり」であった。
「ゆ~♪」
覗き込んだ先にいたゆっくりは、れいむ。
呑気な鼻歌が、静かに周囲に響いている。
男は我知らず荒くなろうとする吐息を理性でしずめ、ゆっくりと物音を立てないようにれいむを見続けていた。
果たしてこの男は何がしたいのだろう?
これだけの準備をし、自然に溶け込み、己を殺し、ゆっくりを見つめ続ける。
捕獲のため?虐待のため?愛でるため?
違う、どれも違う。どれもこの男の目的ではない。
では、何のためか。
見るためである、ゆっくりを、見続けるためである。
目的は観察。
この男の名は、観察お兄さん。
自然のゆっくりを観察し続けることが生きがいの、変態お兄さんの一人であった。
観察は続く。
れいむは先ほどから、暗い熱意のこもった視線にはまったく気づかずに、ゆっくりとしていた。
日光を浴び、だらりと、何もせずボーっとする。
それこそがゆっくりの生態における、一般的な「ゆっくりする」という行為であった。
この光景を見ていた虐待お兄さんなら、矢も楯もたまらず、叫びながら飛び出していただろう。
しかし観察お兄さんは動かない。
じっとれいむを見たまま、己の存在を殺し続けるだけである。
観察開始から、早くも一時間が経過しようとしていた。
さらに数時間。ゆっくりするれいむを観察するだけだった状況に、初めて他の動きが入る。
他のゆっくりの出現だ。
れいむは自分以外のゆっくりがこちらに向かっていることに気づくと、声を上げた。
「ゆっ!ありすだ!」
そして、だらりとのびていた体をピンと張り伸ばすと、その場でぴょんぴょん跳ねながら挨拶を叫ぶ。
「ゆっくりしていってね!」
れいむが嬉しそうにぴょんぴょん跳ねる様しか見えなかったお兄さんの視野にも、ようやくありすの姿が入る。
静かに興奮しながら、次の段階への移行を待つお兄さん。
長年培った観察眼には、今のありすの異常性が映っていた。
挨拶が返って来ないことを、れいむも不思議に思い、跳ねるのをやめ「ゆー?」と体を傾ける。
ありすは何故返事を返さないのか?
いや、返せないのだ。小刻みに上下する体、静かに荒い息、かすかに伏せたまま上げない顔。
「ゆ゙ゔゔゔゔゔゔれ゙い゙む゙ゔゔぅ゙ぅ゙い゙っ゙じょ゙に゙ずっ゙ぎり゙じま゙じょ゙お゙お゙ぉ゙ぉ゙」
発情していた。
ガバと上げられたありすの、二目と見られないような粘液にまみれた顔を見たれいむは一瞬硬直し。
「ゆっ!?い、いやだよ、ゆっくりにげ……」
言い終え、体を反転させる途中で、組み敷かれていた。
「でい゙ぶぅ゙ぅ゙きぼじい゙い゙わ゙よ゙ぉ゙ぉ゙ぉ゙!!でい゙ぶも゙ぎぼじい゙い゙ん゙でじょ゙ぉ゙ぉ゙ぉ゙ぉ゙!!??」
「や゙め゙でえ゙え゙え゙え゙ぇ゙ぇ゙ぇ゙ぇ゙!!ずっ゙ぎり゙じだぐな゙い゙ぃ゙ぃ゙ぃ゙ぃ゙じん゙じゃゔぅ゙ぅ゙ぅ゙ぅ゙!!」
ありすが激しく体をゆさぶり、己をさらに高める。
れいむは涙やそれ以外の液体を流しながら、ただ泣き叫んでいた。
普通の……いや、愛でお兄さんなら、矢も盾もたまらず飛び出して、ありすを引き剥がしていたかもしれない。
だが、観察お兄さんは動かない。頑として動かない。
置物のように静かに、饅頭のレイプを観察し続けるだけである。
そこには、それを見て楽しむ、楽しいという感情以外はなかった。
「あっあっあああぁぁぁ……すっきりー!!」
「ゆ゙げぇ゙ぇ゙……ずっ゙ぎり゙ー……」
ありすは、発情状態にしては珍しく、一度だけすっきりすると、晴れ晴れとした顔でどこかへ去って行った。
観察お兄さんはありすを追ってもよかったが、今見るべきはれいむだと判断。
依然、同じようにれいむを観察し続けている。
一方、れいむの頭からは早くも蔦が伸び始めていた。
一度だけのすっきりだったためか、蔦は一本で実は一つだけだ。
れいむが結構若い個体であったことも影響しているのかもしれない。
そう、若い個体だったのだ。
当然、どれだけ少なくとも、外的支援なしに子を宿せば、待つ結末は死だけである。
蔦に餡子を吸われ、急速に黒ずんでいくれいむ。
「あか……ちゃ……」
れいむは一度だけ己の頭上の子を見ると、全てに絶望した顔でこと切れた。
しかし、実は朽ちない。
たったの一粒種、親の餡子すべてを己の栄養に変え、問題なく生まれるようであった。
それを確認した男の興奮は、静かに、それでいて荒々しくヘブン状態に突入しつつあった。
双眼鏡を握り続けていた手が、じっとりと湿っている。
面白くなってきた。
少しくらいの物音なら立ててもいい状況になり、匍匐の姿勢を少し崩す。
鞄から水を取り出し、口に含みながら思う。
赤ゆっくりが目覚めるまで待つか。
「長丁場になりそうだな……」
小声で、ぼそりと呟いた。この森に来て初めて発した声であった。
通常、ゆっくりの出産は、植物型でも一週間はかかる。
これは通常の成体個体が、自分が弱らないようにかつ安定して子供に餡を送るための期間である。
故に、そういう風に体……蔦と、その先の子供が認識し、ゆっくりと餡を取り込みながら出産を待つ。
しかし、母体の死亡した子供の場合、わずか数時間でこの世に生まれ落ちる。
これは母体の安全を考慮しなくていいため、自己の形成に必要な餡を子供が際限なく吸い取るためと言われている。
とはいえ、大抵は餡が足りずに生まれる前に朽ちるか、生まれても通常より一回り小さい未熟児である。
そして今回の赤れいむの場合は、一匹だけだったので餡は足りたが、最低限の量しか確保できなかった未熟児であるようだった。
あれから数時間、森には闇の帳が下りている。
薄く発光するヒカリゴケと、木々の隙間から差し込む月光だけを頼りに、男は観察を続けていた。
予想ではさらに他の個体が現れて、れいむの死体と生まれる途中の赤ん坊を見つけ、何らかの別段階に移行する可能性があった。
しかし、運がいいのか悪いのか、他の個体はとうとう現れなかった。
まあ、観察お兄さんとしてはどちらに転んでもおいしい状況であったのだが。
見つめ続けるその先、蔦に動きがあった。
どうやら生まれるらしい。
少し、抜けていた気合いを入れ直すと、視線に力を込める。
実が、プルプルと震えた。
そして、二、三往復ほど振り子運動を繰り返すと、頭の先の蔦と実を繋ぐ部分がぷつりと切れた。
実は地面に着地すると、ゆっくり、少し震えながら目を開く。
「ゆぅ……ゆっきゅりしちぇいっちぇにぇ……!」
産声をあげた。
たった一匹だけ生まれ落ちた、未熟児の赤れいむ。
産声に返事を返してくれる母親は、自分を産み落とす代わりにこの世を去った。
「ゆぅ……?おきゃあしゃん、どきょ……?」
受け継いだ遺伝子から告げられる、自分を祝福してくれるはずの母の存在はどこにもなかった。
「どきょ……おきゃぁしゃん、どきょ……?にゃんでいにゃいにぉ……?ゆぅぅ……」
母親を探し、周囲を見回す。目の前には黒ずんだ物体がただ一つだけである。
「ゆぅ……おきゃあしゃん、きっちょできゃけてるんだにぇ……りぇいむいいこだかりゃゆっくりまちゅよ!」
どうやら母親は出かけていると判断したらしい。生まれたばかりの子を置いて。
「ゆぅぅ……おにゃきゃしゅいたよぉぉ……おきゃあしゃんはやきゅもどっちぇこにぁいかにゃぁ……」
未熟児故に、足りない餡を食事で補おうと早速空腹になったらしい。
しかし、そこには蔦を落して、優しく食べさせてくれる母親はいない。
「ゆぅぅ……しきゃたないにぇ、ひとりでゆっきゅりおしょくじしゅるよ」
そう言って、目の前の黒ずんだ物体にかじりつく。
「む~ちゃ……む~ちゃ~……ゆぅぅ、かめにゃいしにょみきょめにゃいよぉぉ」
赤ん坊は、まだ自分ひとりで食事する力はない。未熟児なら尚更だ。だから親が咀嚼し、流動状にした餌を口移しで与える。
しかし、それをしてくれる存在は、もうこの世のどこにもいない。
「おにゃきゃしゅいたよぉぉ!おきゃあしゃん、ゆっきゅりしにぁいではやくもじょってきてぇぇ!」
赤れいむはついに泣き出した。静かな森に、ゆーんゆーんという鳴き声が響き渡る。
しかし、母親は来ない。それ以外の誰かもこない。
赤れいむ以外のそこには、何もせず、ただ観察するだけの男が一人いるだけであった。
赤れいむはそれからずっと、母親を呼びながら泣き続け。
生きる楽しみも喜びも知らない内に、栄養不足の苦しみの中で、誰もいない孤独の中で、
夜明けを待たずに、ゆっくりと死んだ。
男は赤れいむの死を見届けると、ゆっくり双眼鏡を離し、体を転がして反転、仰向けになった。
白み始めた、しかしまだ濃紺色の空を見上げながら、
静かに、全身から息を吐き出す。
男の胸には、まるで大作の物語を読み終えたような感動が渦巻いていた。
男は思う。
あそこには、全ての命の縮図があった。生と死のドラマがあった。
言葉では言い表せない感動が、確かに存在していた。
「ゆっくりー……」
我知らず、呟く。
家にいた時とは違う、心の底からの言葉だった。
病みつきだ。思う。
自分はこの、ゆっくりの生きる姿に、そして死ぬ姿に、病みつきだ。
か弱い饅頭が、無慈悲で公平な大自然の中で、けなげに、必死に、生にしがみつこうとするその姿。
もう、どんな名作の本であろうと。どんなに素晴らしい、楽しいことであろうと。
自分に、これ以上の、これ以上の満足を与えられることはないだろう。
最高だ、ゆっくりは本当に最高だ。
男は明けの空に向かい、静かに、歓喜の笑い声を放った。
あとがき
どうも、お久しぶりです。
前作、「ゆっくり郷」からのリベンジです。今流行りのお兄さんシリーズの新種を、前回の反省点をそれなりに改良しながら。
この観察お兄さんは、自分も含めた、自然環境の中で大自然に翻弄されるゆっくりが好きな人達をお兄さんにしてみました。大好物は環のタグ。
お兄さんの外見はただのギャグなのできにしないでね!書いてる人はただのもやしですし。
先人の、大自然いじめの名作を数々書かれた方々に、少しでも近付きたいものです。
ここまで長々とお読みいただきありがとうございます。少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。では、次の作品で。
最終更新:2008年11月08日 08:27