ゆっくりいじめ系15 第三話 ゆっくりたちの、実にゆっくりとした一週間 中篇


四日目

 女心と秋の空。
 井戸の上空にひたすら広がる青い空を仰ぎ見て、れいむはそんな常套句を思いだしていた。
 昨日までのしとしと降りは霧散消散。
 いまはからっとした陽光に包まれた穏やかな秋晴れ。
 昨日から寝ていないゆっくり二匹にとって、その朗らかな心地よさは毒のようなもの。重たい目蓋をこじあけて、死を意味する居眠りを何とか堪えた。
 その日差しが直接入り込むにはまだ時間が早かったが、入り口付近を淡く白い光が包み込んで、井戸の中はほの暗い。
 井戸の腐ったような胸に詰まる臭いも今はそれほど強くはなかった。
 乾燥した空気が井戸の底までおりてきて、ゆっくり二匹の湿りきった体に心地よい。
 陰干しされたゆっくり二匹。
 体から水気がゆっくりと蒸発して、元のもちもちとした肌が戻ってきた。
 同時に、昨日から続いていた落下もようやく止まって一安心。
 大分底に近づいてはいたが、井戸の上から見下ろせばまだ十分視界に入る位置だった。
「すっきりー!」
 晴れやかに宣言するれいむ。
 まりさはうつむき加減で言葉は発しないが、悪くない気分らしい。吐く息がゆっくりと穏やかだった。
「かゆいのは、大丈夫?」
「……うん」
 れいむの言葉に、弱弱しい声をだして頷くまりさ。
 と、同時にそれと同じ角度で頷いていたれいむ。
 あれ、どうしたんだろう? 意図しない自分の動きにハテナマークを浮かべるれいむ。きょろきょろと視線を走らせて、ようやく気がついた。
 ゆっくり二匹のふっくらしたほっぺた。
 ぴったり強くこすり合わせていたその小指ほどの先端が、今見るとまりさの頬とぴったり皮膚が繋がっていた。その皮膚を通じて、まりさの動きに引きづられていたゆっくりれいむ。
「ゆっくりー!?」
 驚愕のれいむ。
 雨でぐずぐずになった皮をこすりあわせているうちに結合していたらしい。
 皮自体は乾燥して弾力を取り戻したが、お互いのほっぺは強固にくっついたまま。
 二匹は思わず視線を合わせた。
「くっつくよ!」
 れいむが叫ぶと、その頬の動きのままにびろんとのびる二人の皮。
 奇怪な有様だったが、ゆっくりれいむは妙に嬉しそう。
「これじゃあ、ずっといっしょだね!」
 れいむの言葉にこめられた親愛に、まりさは頬を吊り上げてかすかな笑顔。
 わずかな仕草なのに、心の底からの嬉しさがほっぺのつながりと通じてれいむに伝わってくる。
 相変わらず状況は絶望的で、体力は落ちていくばかり。おなかもぺこぺこ。
 でも、目の前のゆっくりと再び親友に戻れた。それだけで単純なゆっくり二匹の心は晴れやかだった。
「……おなかすいたね」 
 続くまりさの呟きも、声色自体は疲れ果ててはいたが、口調自体はいつものもの。
 れいむもお腹はぺこぺこだ。壁にはりついたムカデやナメクジをぺろぺろ舐めとっても何の足しにもならないし、美味しくない。
 でも、自分はまだいい。消耗しきったまりさの方が心配だった。落下してから何も口にしてないのではいだろうか。
「まりさ、右のほっぺに蟻さんがいるよ!」
 その言葉に、ぺろんと伸びるまりさの舌。
 まりさの顎の方へ向けて行進していた蟻たちが一瞬で姿を消した。
 だが、すぐに顎の傷のほうから次々と蟻たちが出現しては、引き続きまりさの舌に飲み込まれていく。
「もっと沢山たべたい……」
 蟻んこでは腹の足しにならないのだろう。まりさの虚ろな表情に元気は戻らなかった。
 我慢している顎の傷の痒みは相当のものらしく、言葉が尽きるなり、ごしごしと患部を壁にこすりつけるまりさ。
 顎の付近から、ぶわっと羽虫が舞い上がった
 寄るところもなく宙を漂う羽虫。だが、まりさの蠢動が治まるなり顎の傷のあたりへ戻っていった。
「ゆううう!」
 途端に、またびくびくとむずかりだすまりさ。その顎には我が物顔に再び行進をはじめる蟻の行列。一様に極小の餡の粒を背負っている。
 どうやら、わずかに開いた傷口から漂う甘い香りが、井戸の住民たちにかぎつかれたようだ。恐らくは、傷口が虫たちにほじくりだされているのだろう。
 そんな様子は自分からでも確認できるらしく、暗い眼差しで虚空を眺めるゆっくりまりさ。
 れいむは少しでもまりさの気持ちが紛らわせようと口を開いていた。
「ここからでたら、虫さんは全部つぶしてあげるからね!」
「……」
「そして、美味しいものを沢山たべようね!」
「……」
「野いちごとか、沢山食べようね!」
 ひっきりなしに話しかけるれいむ。
 太陽を一杯に浴びた野草や、まるまるとした昆虫、リスなどの小動物。その味わいを夢想する。
 その中でも最近食べた一番美味しい食べ物はあれだろう。
 ぼんやりと、れいむは回想に入る。

 数ヶ月前、月明かりに誘われて家の周りに遊びに出たゆっくりれいむとその姉妹。
 野犬の遠吠えも聞こえない、静かな満月の夜だった。
 家の入り口近くに何匹も連なって月の鑑賞会。まん丸な月を眺めるゆっくりたち。息を吸い込んでお月様のように丸く膨らんだり、ぴょんぴょんと跳ねて少しでもお月様に近づこうとしたりと、思い思いに楽しんでいる。
 だが、突如として月明かりに影が差す。
 見上げたゆっくりたちの視線の向こうに、月を背負ったシルエットが一つ浮かんでいた。
「ゆ?」
 その正体がわからなくて首を傾げるゆっくりたち。
 ニンゲンに似た体つきだけど、それにしては手足が短い小さな体。ぱたぱたとはためく翼もニンゲンのものじゃなかった。
 目をこらすと、 朧な月の光にその姿が浮かび上がってくる。
 丸い顔に満面の笑顔を浮かべて、短い手足を一杯に広げた生き物。誰かにおめかしされたのか、ピンクの服と帽子、
そして赤いリボンが愛らしい。
 幼子のような笑顔のまま、その生き物は鳴いた。
「うー! うー!」
 その可愛らしい生き物はご機嫌そのもの。だが、ゆっくりたちは気がつかなかった。意味のわからない呟きをもらすその口元に輝く、剣呑な牙を。
 それは、紅魔館に最近住み着いたゆっくり亜種だった。空を飛ぶ吸血種で、その上に幼児のような体と手足がある、極めつけの希少種。
 主に似たその生き物を、紅魔館の者は親しみをこめ、こっそり「れみりゃ」と呼んでいた。
 そんなれみりゃは、発見されたからずっとメイド長咲夜に世話をされてきた筋金入りの箱入り娘。いつもは館の奥で大切にされていて、単独での外出が許されていなかった。たが、今日は素敵な満月。ついつい心踊る月明かりに誘われ、抜け出してきたのだろう。
 つきっきりで世話をする咲夜の姿も、今日はどこにも見当たらない。
 過保護な従者のいない久しぶりの自由を謳歌して、ご機嫌なれみりゃ。うーうーと、幸せそうに月夜を飛び続ける。
気がつけば、ずいぶん遠くまできていた。
 くーくーと鳴り始めるお腹の虫。そろそろ戻ろうかなと迷い始めていた。けど、帰ればこの楽しい夜が終わってしまう。
 そこで出くわしたのが、いつも餌として与えられているゆっくりれいむの一群だった。
 まさに渡りに船。
「ぎゃおー♪」
 ご機嫌に、怪獣のような叫びを発するれみりゃ。
 咲夜が怪獣のキグルミを着て演じた台詞をそのままなぞっただけの幼い咆哮。
 ゆっくりたちは奇妙な闖入者に戸惑って、逃げるべき相手か、判断がつかなかった。
 だが、そんなゆっくりたちは次の台詞で震撼する。
「たーべちゃうぞー!」
 宙から、ふわりとこちらへ飛んでくるれいりゃ。その口の牙が月光を帯びて鈍く光った。
「ゆっくりやめてね!」
 慌てて、一目散に家へと逃げ込むゆっくりたち。
 だが、出入り口は一つ。一度に入れるのはせいぜい二匹まで。
「はやくしてね!」
 最後尾のゆっくりれいむが急かすが、その声が不意に止む。
 れみりゃに牙を突き立てられ、引きずられていくゆっくりれいむ。
「お゛があざーん……!」
 ぱたぱたとはためく翼の音とともに、母を呼ぶ声も遠ざかる。
「うー♪」
 見守るゆっくりたちの前で、れみりゃは捕らえたれいむを抱え込む。
 同時に、れみりゃの口からじゅうううと鈍い音が響きだした。
「ゆ、ゆゆゆゆゆゆ!?」
 自分の体に何が起こっているのかわからないゆっくりれいむ。
 だが、みるみる頬がこけ、皮がビロビロに伸びはじめてようやく気づく。れみりゃは、ゆっくりの中身を急激に吸い上げていた。
「い゛や゛あ! ゆっぐりじでよおお! ずわ゛な゛い゛でええええ!」
 しかし、言われてジュースを飲むのを止める幼児などいない。
 うまうまと、たっぷりの甘さを味わいながらちゅーちゅーと吸い続けた。
 次第に、白目をむくゆっくりれいむ。
「ゆ"っゆ"っゆ"っ」
 細かく痙攣を始めるが、れみりゃはジュースの器がどうなろうが一切気にとめない。喉の渇きのまま、最後まで一気に飲みきるだけ。
 ふにゃふにゃにのびたれいむの、最後の雫を吸い込もうとれみりゃが一呼吸したそのとき。
 猛然と転がる岩のようなゆっくりがいた。
「ゆっ! ゆっ!」
 異変に気づいたお母さんれいむだった。
 ぷっくり膨らんだからだを揺すって、どすどすと入り口かられみりゃに向けて一直線。
「うー?」
 只ならぬ振動に顔をお母さんれいむに向けるりみりゃ。
 瞬間、お母さんれいむは飛んだ。
 月夜を背景に、膨らんだ全身をばねにして見事な飛翔。
 そのまま、れみりゃの顔面へと飛び込んでいく。
 ぺちっと、情けない音がれみりゃの顔面で響いた。
 もんどりうって倒れる一団。
「うあー! うあー!」
 れみりゃはうつぶせ倒れこんで、起き上がりもせずただ泣き叫ぶ。
 これまで、食事といえば昨夜が手配したゆっくりれいむかゆっくりまりさ。お嬢様に粗相のないよう、処理されたものばかりだった。
 だからこそ、まさか獲物に反撃されるとは夢にも思っていなかった。
 ショックでわんわんと泣き出すれみりゃ。いつもなら、ダダをこねていれば光の速さで咲夜が飛んできて自分を慰めてくれる。
 でも、ここは紅魔館から遠く離れたゆっくりたちの巣。
 絶望的にれみりゃは孤独だった。
「うあ!」
 唐突にれみりゃが感じた激しい指先の痛み。
 見れば、一匹のゆっくりれいむが復讐だとばかりに噛み付いている。振り払おうとするその腕に、さらに噛み付く別のゆっくり。
 続いて、背中にどすんとのっかった重みはお母さんれいむ。息がつまって、れみりゃの体がのけぞる。その隙に残りのゆっくりたちも意を決して競って背中に乗り上げてきた。もうれみやは飛ぶどころか、起き上がることすらできなくなる。
「うっ……!」
 もういやだ、早く帰して。今日はプリンのお夜食なんだから、もう帰る!
 そんな思いをこめてゆっくりたちを見つめる。
 だが、紅魔館自体を知らないゆっくりたちに容赦する理由は微塵もない。
「うっ!」
 れみりゃの短い叫び。
 見れば、指先に噛み付いていたゆっくりれいむがついにその丸い指先を噛み切ったのだ。
 指先からほくほくと、肉まんの湯気。
「うっ……うっ!」
 赤く灼熱した焼印を押し付けられたような指先の激痛。
 苦痛から、もはや声にならない悲鳴がれみりゃの口をつくが、むーしゃむーしゃと味わうれいむには聞こえていないかのよう。
「おいしいよ!」
 ほくほくの笑顔でそのお味を家族にご報告。
 その言葉が契機になって、一斉にゆっくりたちが殺到する。
 あんぐりと、れみりゃの指先やほっぺにくらいついた。
「う゛っ、あ゛ーっ!」
 れみりゃは元々柔らかい肉まんのようなものなのか、強く噛み付くとゆっくりに、抗うことなくぽろぽろと千切られていく。
「むーしゃ、むーしゃ」
 一斉にれみりゃを咀嚼するゆっくりたち。
 はふうと、同時に吐き出される至福のため息。
「しあわせー!」
「ゆっ! ゆっ!」
 わが子の嬉しげな様子を穏やかな視線で見つるのは、お母さんれいむ。
 れみりゃがもう何もできなくなったことを確認して、その翼を口でぺりぺりと剥ぎ取る。
 咥えたまま向かった先は、れみりゃに吸われてぺしゃんこになったわが子の元。そっと、くわえてきた翼をわが子の前へ置く。
 けれど、もはやわが子は目も見えていないようだった。白目をむいて震え続けるだけのゆっくりれいむ。
 お母さんれいむは、無言で我が子を見下ろしていた。
 れみりゃを味わっていたゆっくりれいむの一匹が、その様子に気づいて駆け寄ってくる。
「早くよくなってね!」
 元気付ける言葉は、虫の息となったれいむにも聞こえたのだろう。
 応えるため、口を緩慢に開こうとする。
「ゆっ……く……」
 だが、もれたのは言葉にならないあえぎだけ。
 やがて、言葉の代わりに大きく吐き出される吐息。あえぎ声。
 それっきり、ゆっくりれいむは動かなくなる。
 きょとんとその様子をうかがう子供たち。何が起こっているのだろうと小首を傾げる。
 お母さんれいむは頬をすりよせて、抜け殻となったわが子の目を閉じてあげた。
 沈痛な沈黙。
「ゆっ!」
 短い呟きが、わが子の亡骸に向けられて静かに響いた。
 やがて、お母さんれいむはくるりと振り向く。皮だけと成り果てたわが子から離れて、れみりゃのもとへ。
「うー!」
 うつぶせにむせび泣いていたれみりゃと静かに向かい合う。
 相変わらずの無表情のまま沈黙を守るお母さんれいむ。
 すると、れみりゃを味わっていたゆっくりれいむのうち一匹が、れみりゃの指先を見つめてぽよんと飛び跳ねた。
「ゆっくり治っているよ!」
 見れば、千切られたばかりの指先がじわじわと元に戻りつつある。吸血種ならではの再生力だった。
 その様子を、相変わらずじっと見つめるお母さんれいむ。
 お母さんれいむは声もなく動き出し、れみりゃの服の襟首をくわえ込む。そのまま、ずりずりと家の方へ引きずり出した。
 ゆっくりれいむたちは不思議そうに母親の行動を眺めていたが、そのうち一匹が母親の意図を悟る。
「まいにち、ごちそうだね!」
 その言葉で他のゆっくりたちも気づく。れみりゃは一晩で元通り。食べ過ぎなければ、いつだって美味しいご飯になるということを。
 一斉にれみりゃに飛び掛るゆっくりたち。れみりゃの翼を、耳を、指を、靴の先を、それぞれ思うがままに咥えて、一心不乱に家の方向へ。
「うっ! うっ!」
 異常なゆっくりたちの団結に、怯えて泣き叫ぶれみりゃ。だが、もう遅い。れみりゃの姿は、ゆっくりとれいむたちの住処へと消えていった。
 それから数ヶ月、豊かな食生活が続いたゆっくり一家。
 だが、その幸運も不意に消えてしまった。
 いつも家の中に縛られて転がっているれみりゃが可哀想だと、ゆっくり家族たちが気を利かせて日向ぼっこ。
「うー! うー!」
 家の方が居心地がいいのか、出ていきたがらない素振りのれみりゃだったが、日向でゆっくりさせてあげないと体に毒だと無理やり引っ張り出す。餌にすら親切なゆっくり一家だった。
 逃げないよう縄でがんじがらめにして、お天道様の下に転がしておく。
「うあああーっ!」
 嬉しいのか大声ではしゃぎ、のたうちもがくその声を背に、ゆっくりたちは気ままに遊び場へ散らばっていく。
 日没まで存分に遊んで帰ってきたゆっくちが見たのは、れみりゃを縛った形のまま地面に横たわるロープと、そのロープを覆いつくさんばかりの真っ白な灰だった。
 これは何だろうと疑問の答えを見つけるよりも早く、灰は草原を吹きぬける風に舞い上がげられる。
 そのまま、近くを流れる小川へ押し寄せられ、流されていった灰。よくわからないので、ゆっくりたちはすぐに忘れる。
 結局、逃げられたと結論づけて、今日もお母さんれいむの待つ家の中へ、ゆっくり姉妹は仲良く連れ立って入っていった。

 おいしい食べ物のことを思い出して、だらりとれいむがよだれをたらしているうちに、時刻はいつしか夜を迎えていた。
 今日は誰も井戸をのぞきこんだりはしなかったが、明日もこの小春日和が続けば、ゆっくり仲間か暇なニンゲンあたりが
ふらっとこのあたりを通りかかるかもしれない。
 それまで、耐えられるよねと自分に自問する。
 全身は、力をこめ続けていたせいで、がちがちにこわばっていた。身じろぎするたびに体がきしんで痛みが走る。
眠らないでいた頭はぐらぐらと揺れて気が遠くなりそうな程。ぼんやりとなる瞬間もあるけど、死ぬよりはマシと思うしかない。
 それに、嬉しい兆候もあった。
 お昼に少し元気を取り戻したものの、日暮れ前にはもうぐったりして動けなくなっていたゆっくりまりさ。
 だが、夜が深まるにつれて何やらもぞもぞと体を動かしていた。
 まりさが先に力尽きることが最大の不安だっただけに、その復活はれいむにとっても望ましいことだった。
 後は誰か、誰でもいいから、この井戸を覗き込んでもらうだけ。
 そうだ、お願いの言葉を今からきちんと考えないと。
 どことなく前向きなゆっくりれいむ。
 そのれいむの思考を邪魔する、カサカサというまりさからの音と、時折の「ゆ……」とうめき声。
 だが、れいむは気づかないまま、助け出されたときのお礼の仕方をのんきに考えはじめていた。


五日目

 考えすぎたのが悪かったのだろうか。朝から、れいむの頭は朦朧としていた。
 眠らないまま、どれだけの時間を過ごしただろう。
 力を抜かない、眠らない。
 それだけを守って、それだけしか許されないこの世界で生き抜くうちに、れいむは少しずつ現実とつながる意識が薄れていた。
 空が明るくなって、かろうじて五日目に入ったことはわかる。
 けれど、もう何年も閉じ込められているような気分だった。
 この空虚でゆっくりと流れる時間を、一人だけで過ごしていたら今頃心が壊れていたかもしれない。
 だが、隣にぴったりとくっつくまりさの存在が、れいむの心に頑張らないとと、わずかな種火となってくすぶった心を焦がしている。
 昨日からちょっと調子が悪いらしくて、話しかけても何も応答が無い。
 でも、いるということだけで心強いのだ。
「れいむう……」
 そのまりさが、一日ぶりに自分から話しかけてきた。
 井戸の暗闇から届く、のったりと間延びした呼びかけ。
「どうしたの、まりさ!」
 そのことが嬉しくて、応じるれいむの声は弾んでいる。
 まりさの次の言葉は中々発せられなかったが、ゆっくり待った。
「……ようやく、かゆい理由がわかった」
 時間を大分おいた一言は、れいむに「よかったね!」の合いの手を躊躇わせるほどに疲れきった声。
 どうしたのだろうと訝りつつ、やはりまりさの言葉を待つしかないゆっくりれいむ。
 そのとき、ゆっくりれいむはわずかな光を感じた。
 見上げると井戸の縁を、太陽がわずかに踏み越えようとしている。
 ほかほかのお日様がでれば、まりさも元気になるかな。
「あのねえ」
 まりさの呟き。
 日差しはどんどん高くなる。光の領域が、井戸の縁から内側へ、みるみる広がってきた。
「れいむ、きらいにならないでね……」
 よくわからない言葉がれいむの困惑を誘う。
 さらなる説明を求めようとした、その時。
 ふっくらとしたお日様の気配が二人を包んだ。ゆっくり二匹の元へ届いた、晴れやかな日差し。
 光に照らし出されたまりさは、口を半開きにして惚けたような顔。
 そして、顔半分を覆いつくす黒。
 目を凝らすと、その黒い帯は光を受けて一斉に動き出した。
「ゆーっ!」
 黒い帯。それは、まりさの顔にたかる幾百もの虫たち。地虫、羽虫、カトンボ、ゲジゲジ。数え切れないほどの虫たちが光の襲撃を受けてうごめき、逃げ惑い、光から隠れた。
 最も手近なまりさの中へ。
 まりさの右のほっぺに開いた無数の穴へと、我先にと逃げ込んでいた。
「ゆっ! ゆっ! ゆううううっ!」
 目の前10cmで繰り広げられる光景のおぞましさに、満足な叫びもあげられないゆっくりれいむ。
 虫たちはまりさの傷口から入り込み、中身を食い荒らしながら、奇妙な巣を勝手につくりあげていた。
 まりさは、もう心が消えうえせたかのように、微動だにしない。開いた口からだらだらとよだれをたれ流して、右頬だけがぷるぷると微妙に震えている。
 その虚ろな目が、怯え震えるれいむを見つめていた。
 れいむは「れいむ、きらいにならないでね……」というまりさの言葉を思い返す。
 きっと、今自分はまりさを化け物を見るような目で見ているのだろう。
「しっかりして、まりさ! 外にでたらすぐに治療しようね!」
 真正面にまりさの惨状を見据えて、心を燃え上がらせての激励。
 ほのかに、まりさの瞳に生気が戻る。
「ありが……」
 だが、お礼の言葉は最後までいえなかった。
「うっぐ!」
 言葉を遮ったのは、まりさの口からわらわらと巣立つ羽虫たち。
 凍りついたれいむに、なぜか笑いかけるまりさ。
「……卵産みつけられちゃった」
 気を失いそうになるれいむ。
 まりさからは、低い笑い声がもれてくる。
「うふふ……うふふ」
 これまで聞いたことの無い、奇妙な笑い方。
 もう、れいむの言葉は届きそうに無かった。
 それに、その虫たちを見ているとれいむに浮かぶ不安が一つ。
 まりさの餡を全部食べ尽くしたら、この虫たちはどうするのだろう。
 答えは、まりさと連結した自分のほっぺた。おどろくほど容易い進入経路。
「だずげでえええ! 今ずぐ、だずげでえええええええ!!! だずげでええええええええ!!!」
 幼子のように泣き叫ぶも、声を聞き届けて顔を覗かせるものなど誰もいない。
 ただ、驚いた羽虫たちをぶわと舞い上がらせただけ。
 やがて、惨劇を見せ付けた太陽は井戸の外へ、早々に引っ込んでいく。
 後には泣きじゃくるれいむと、まりさの乾いた笑い声。
 そして、それを覆い尽くす虫たちの気ぜわしい羽音や足音だけがいつまでも響いていた。


六日目

 何度目か、すでにれいむはわからなくなりつつある太陽の出現。
 昨日、叫び疲れてぐったりと力を使い果たしたれいむ。もう、口を開くのも厭わしい。
 まりさも虫たちに蹂躙にされるがままになっていた。
 もううめきすら聞こえない。生きているのか、死んでいるのか、もう判別のつけようがなかった。
 ゆっくりれいむは、そんなゆっくりまりさを見つめながら、自分の最期を見つめる思いだった。
 きっと、自分もこんな死に様なのだろう。
 ありありと見せつけられた絶望。
 だが、先ほどまでの狂おしい恐怖はすでに感じなくなっていた。何もかも、あやふやな夢の中にいるよう。ぼんやりと、厚い膜を張ったような精神状態。
 心が磨耗しきっていた。
 もうすぐまりさのように、うふふ、うふふと笑える幸せな世界に旅立てるのだろうか。 
 先に行けて、まりさはもいいなあと、れいむはまりさをうらやましくさえ感じていた。
 だが、れいむがやっかむ必要もないだろう。
 そのときは、確実に近づいていた。すでに、自分を取り巻く全てに何の現実感も感じられなくなりつつある。
 だから、れいむは妄想か夢を見ているかと思い込んで見逃すところだった。
 はるか井戸の上には、見下ろす一人の女性の姿。
「久しぶりに昔の家にきてみたら、こんなところに……あなたたち、何をしているのかしら」
 耳障りのよい、落ち着いた女性の声。
 井戸に響き渡る、待ちかねた来訪者の声だった。
「ゆっ! ゆゆゆゆっ!」
 助けて、出して、ごめんなさい、お願いします。言うべき感情がれいむの口をあふれて、まったく形をなさない。ただ興奮と哀願だけが噴出して始めていた。
 声をかけてきた女性は、逆光でよくわからないにがサラサラの金髪に、白いケープが目に入る知的で楚々とした印象。
 自分たちに降りた蜘蛛の糸を握る唯一の人物。
「勝手に入ってごめんなさい! 出られないの! お願い、助けてください!」
「あら、かわいそうに」
 ゆっくりに向けられた女性の声色は心底哀れんでいるようだ。
 優しい人かもしれない。
 ゆっくりれいむは期待と不安の眼差しで女性を見つめる。
「心配しなくていいのよ。今、助けてあげるわ」
 逆光で顔立ちはわからないが、その女性はにっこりと微笑んでいた。
 その笑顔に、沸き立つ安堵の想い。知らず、体の力が抜けかけるゆっくりれいむ。
 だが、ここで沈んでは何にもならない。必死に堪えた。
「待っててね。今、家からロープか何かもってくるから」
 身を翻して姿を消す女性。
 でも、れいむに不安はない。女性の言葉は心底の同情に満ちたものだったから。
 しばらくして、言葉の通りに戻ってきた女性。
「ありがとう、おねーさん! お願いします!」
 ゆっくりまりさの言葉に小さく頷いて、女性は井戸の上からするするとロープを下ろしていく。
 あと、ちょっと。あとちょっとでれいむの口が届きそうになる。
 あーんと、大きく口を開くゆっくりれいむ。
 その口が届こうとする、そのまさにほんの手前。
「ところで、ここからじゃ暗くてよく見えないのだけど、あなたたちのお名前を教えてもらっていいかしら?」
 女性の機嫌を損ねたくなくて、れいむはロープを噛みに行く動作を止めた。
「ゆっくりれいむと、ゆっくりまりさだよ!」
 疲れ果て、声を出すのも億劫だったが、精一杯の愛嬌をこめて応えてみせる。
「へえ、良くあなた方の組み合わせを見かけるけど、だいぶ仲がいいのね」
 なぜだか、突然始まる女性の世間話。
 早く、早く!
 れいむの心の声が鐘楼のように鳴り響くが、ここで焦って全てを台無しにするわけにはいかなかった。
「うん、親友だよ!」
 正直に答える。
 すると、ロープの先端がプルプルと震えだした。
 震えているのはロープと、その根元を握る女性の手。
 女性は不意に笑い出した。まりさのような、乾いた笑い方だった。
「アハハハ。ホント、あなたたちはいつも仲がいいわよね。守矢神社のときもそう。私のことを放って二人で解決しちゃうくらいだし。本当にまりさとれいむは仲良いわね」
 ゆっくりに、女性の言葉の意味はわからない。
 ただ、ふつふつと湧き上がる怒りだけが伝わってきた。
「おねーさん、ロープをもう少しのばしてね!」
 只ならぬ気配に不安になったれいむが思わず催促してしまう。
 それが引き金だった。
「……あら、手が滑ったわ」
 恐ろしいほどの白々さを響かせる声。
 それとともに、ロープは一気にゆっくりれいむの元へ届き、そのまま丸ごと井戸の底へ落ちていった。
「ゆっ、ゆー!」
 れいむの絶叫の最後に、着水したロープの音が無情に響く。
「どうじで、ごんなごどずるのお……」
 涙目で見上げると、女性は無表情でゆっくりたちを見下ろしていた。
 唯一の蜘蛛の糸が、この瞬間明らかに断ち切られようとしている。
「おねーさん、怒らせていたらごめんなさい! だから、お゛ね゛がい゛! もう一回、お願いじまずうううう!」
 れいむにできるのは、同情を誘う哀願のみ。
 それでも、井戸の上の女性に効くかどうかは、すでに疑わしくなりつつあった。
「私なりに考えてみたのだけど、せっかくそこでゆっくりしているのに、お邪魔するのは悪いわよね?」
 女性の気を遣ったような言葉が放たれるが、その根底に横たわるのは隠そうともしない悪意。
「やだあっ! もうここでゆっくりじだぐないいい! だがら、だずげでぐだざあい!!!」
「でも、大丈夫。今、素敵なお友達をそっちにおくるから、もっと楽しくなるわよ」
 会話ではなかった。
 ゆっくりれいむの嘆願を存在しないものとして、にこやかに語りかける女性。
 優しげに井戸に響く女性の言葉が消えるやいなや、何かを投げ込んでくる。
 ひゅうううと、井戸の空気を切る何かが、れいむの顔へ一直線。
 そのペラペラの物体が光を透かして、れいむにはそれが何かわかってしまった。
 自分と向き合って落ちてくるのは、同じゆっくりれいむ種。ただし、中身がこそぎ落とされた上に、頭を切り落とされたゆっくりのデスマスク。
 ぺちゃりと落ちて、身動きできないれいむの顔に張り付く。お互いの唇を重なって、ぺったりと。
「む、むぐううううう!」
 同種の死骸といきなりのマウストゥマウスに、声にならない悲鳴。
「喜んでもらえて嬉しいわ。それじゃあ、リクエストにお答えして、もう一匹、お友達がそっちにいくわよ」
 すでにひどい衝撃を受けているゆっくりたちへ向けて、さらに何かを投げ入れた女性。
 れいむがデスマスクを払いのけるのと同時に、ぺっちゃっと水っぽいものが落ちてきた。
 れいむは顔面で受け止めたそれの正体に気づく。
「ゆっ! ゆっくりパチュリー!?」
 すでに亡骸となっているゆっくりパチュリーだった。いや、パチュリーが死んでいるのはよくあることなので、さしては驚かない。
 問題は、その頭部。
 ご自慢の三日月の飾りをつけた帽子が破れ、頭全体がぐちゃぐちゃに中身をかき回されていた。
 死に顔は歪みきった苦悶の表情。どんな苦痛を経れば、こんな顔で死ぬのだろうか。
 井戸の上から見下ろす女性、アリスの微笑みはお茶会に呼ばれた淑女のように楚々とした笑顔だったが、れいむには空恐ろしくて仕方なかった。
 不意に、れいむの鼻腔をつんとした臭気が突き上げる。
 気がつけば、周囲にたちこめた甘く腐ったような匂い。
 パチュリーの中身が発酵して、強いにおいを放っていた。
 その腐った餡はパチュリーを受け止めた二匹の顔のあちらこちらに飛散して、嫌な匂いをこびりつかせる。
「ゆっ!?」
 ぶうんと喧しい音。れいむの耳元で騒ぎだす虫たちだった。匂いの強さに惹かれ、わらわらとれいむへも忍びよる虫たち。
 見たことも無い大きさのムカデが、まりさの頬からにょっきりと頭をのぞかせる。
「や゛あ゛あ゛! よ゛ら゛な゛い゛でええええ!」
 我を忘れ、いやいやと餡子を振り落とそうとするれいむ。
 それが致命的だった。
 ずるりと、壁からずり落ちるゆくりれいむの体。その動きを止めてくれていたまりさも、すでに押し返す力はない。
 二匹とも、ずり、ずり、ずりと下がっていく。
「ゆぐうう! ゆぐうううううう!」
 踏ん張ろうとしても、もう遅い。
 落下は加速的に早まって、どんどん近くなる水面。遠くなる外の世界。
 やがて、井戸に派手な水音が響き渡った。
 その反響が収まると、もうゆっくりれいむたちは井戸の上から見えなくなる。
 満足げに見届けたアリスは、井戸の上に新たな板を敷き、重石をのせた。
「それじゃあ、ゆっくりしていってね」
 くすりと品のいい笑顔を残して、アリスは去っていく。
 後には、もう何年も忘れ去られたような古井戸だけが残されていた。


七日目

 井戸の底は、光の欠片もない真の暗黒。
 出口はすでに閉ざされ、れいむは完全に日時の感覚を失っていた。
 ここは井戸の底。にごりきった水面から、頭一つだけ上に離れた壁面。
 朽ち果て、崩壊した石壁のでっぱり。そこへゆっくりれいむは口をひらき、顎が外れんばかりにくらいついていた。
 れいむのほっぺにくっついたまりさは半身を水面に沈めている。
 時折、ぶくぶくと気泡を吐き出して、虚ろな目で浮き沈みを繰り返す。
 水に沈んだことで虫たちはある程度外に逃れてはいたが、代わってボウフラたちにまとわりつかれていた。
 むわっと、淀んだ水の匂いがきつい。
 そんな有様に、れいむはもう終わりが近づいてきたことを自覚しはじめる。
 石積みブロックに喰らいついている顎も、がくがくと小刻みな震えが止まらない。
 井戸は完全に封印されて、もはや人目につくことも望めなかった。
「うふふ……」
 あぶくの合間に、相変わらずの親友の笑い声。
 おそらく、ゆっくりまりさはもうダメだろう。
 まりさの心が死んでしまうまでに、まりさへ大好きだったことをもっと伝えておけばよかった。
 喧嘩してひどいことを言ったことを、謝りたかった。
 でも、もう届かないし、口を離せば即座に二匹とも水面に転がり落ちるだけ。
 ボロボロとひっきりなしにれいむの涙が零れ落ちていた。もう、何もかもが手遅れ。
 せめて、死ぬ前にお母さんに会いたい。
 会って、あの柔らかい体に飛び込んで大変だったよと、今までの話を伝えたい。
 可哀想に、ゆっくりお休みと、受け入れてくれるお母さんの胸に甘えながら死にたい。
 とっくに叶わなくなった、哀れな夢。
 もう全てを諦めて、水に沈んでしまおうかと、何度も考える。
 けれど、その惨めさが悔しくて悔しくて、れいむは結局石壁にかじりついていた。
 このまま、果てて死ぬだけだとわかりきっていた、無駄な抵抗。

 どれぐらい時間がたっただろう。
 ほんのりと明るさを感じていた。
 見上げるゆっくりれいむ。鮮烈な光を放つ天から、小さな、人に似た存在が何体も連れ立っておりてくるのが見えた。
 天使というものだろうか。
 ああ、自分は死のうとしているのだ。
 なぜだか冷静に、れいむは天使たちを眺めていた。
 天使たちはれいむの下に回りこむと、その体を掴む。
 浮遊感。
 ゆっくりれいむは井戸から静かに上昇していく。
 ああ、ここから出られるなら、死んでもいい。
 安らかなれいむの表情。
 外の日差しの強さを感じながら、れいむはゆっくりと目を閉じる。
 白く霞みがって遠のく意識。
 その心地よさに身を任せていた。

「これで、いいのかしら?」
 アリスは人形たちに引き上げさせているゆっくりれいむを見やりながら、傍らのゆっくりまりさに語りかけていた。
 そのゆっくりまりさは、井戸の中にいるまりさと別の個体、アリスが最近飼いならしているゆっくりまりさだった。
「ありがどううううう!」
 今は仲間の姿を見つめながら、アリスに涙声でのひたすらにお礼を繰り返している。
 アリスに唇に苦笑がこぼれていた。
「私は本当にまりさに甘いわね」
 昨日の夜、ゆっくりれいむたちの様子を夕食の話題に伝えたところ、仲間を助けて欲しいと泣きすがられてしまった。
 どれだけひどくそのほっぺを抓りあげても、一向に黙ろうとしない。「箱」で脅されても「おねがい、だずげであげで!」と泣き喚かれて、アリスも少しだけの譲歩。
 やがて人形に抱えられて、気を失ったゆっくりれいむが運び上げられてくる。
「まったく、暢気なものね」
 楽しげにゆっくりれいむのほっぺたを、白く形のよい指先で弾いて遊ぶ。
 れいむは昏睡したように起きる気配もない。
 つづいて、れいむのほっぺたにくっついてまりさが姿をあらわした。
 太陽の下、主だった虫たちはぽとぽとと井戸へ落ちていく。水をくぐったことも少し虫を減らしたのだろう。少しだけ、マシなまりさの顔。
「ゆ……?」
 そのおかげか、光の眩さに目を覚ますまりさ。瞳にやんわりと光が戻ってくる。
 やがて、視覚した目の前の光景に、光が強くなるまりさの瞳。
 そこは、夢にまでみた外の世界だった。風がそよそよ心地よく、草むらの青い匂いが薫る森の中。
 外にでたの……?
 目を凝らしても変わりはない。
 紛れもなく、外の世界だった。
 ……助かったんだ。
 救出を認識するなり、心の奥底から蕩けそうな安堵感に包まれてじんわりと涙がにじむ。
「ゆ、ゆっくりいいいい……」
 続く喜びに体が震えていた。
 心にこみあげる暖かさに、ほろほろと涙が止まらない。
 幸せな気分で流す涙は、なんて気持ちがいいんだろう。
 こうして見える全ての景色は、いきなり奪われて、奇跡の果てにようやく戻ってきたあたりまえの世界。
 いや、もうあたり前の世界には見えなかった。
 世界がこんなに素敵なことに、ゆっくりまりさは気づいてしまっていた。
 果てしない空、どこまでも跳ねてゆける自分の体、愛情を確かめ合える友達。それがどれだけ貴重なことか、まりさには心から知ることができた。
 さあ、この素晴らしい世界で、心行くまでゆっくりしよう。
 まずは、ゆっくりと何をしようかな。
 思いつくことは沢山ある。ずっと井戸の中でしたいと熱望していたこと。美味しいものを食べる、遊びまわる、安全な場所でゆっくりする……
 だが、それにも増してまずしなければならないことがある。自分を許し、励まし続けてくれたゆっくりれいむに感謝と改めてお詫びをすること。本当にありがとう、そしてごめんなさいと、蕩けるまでゆっくり全身をこすり合わせたい。
 その後はひたすらゆっくりしよう。体は大分ぼろぼろだけど、仲間たちに虫をとってもらってゆっくり休めば、きっとまた元に戻れる。
 ゆっくりとした日常に戻れる。それだけで、もう涙が止まらない。
 とめどなく頬を伝う暖かな落涙。
 アリスはそんなまりさにそっと顔を寄せていた。
 ようやく、まりさはアリスに気づく。
 れいむをひっぱりあげる、人形たちの姿にも。
「……お姉さんが、助けてくれたの?」
「そうよ」
 アリスの簡潔な言葉を受けて、心を突き上げてくる感謝の思い。
「あっ、ありがどう……! ほんとに、ほんとに、あ゛り゛がどうううううう!」
 最後の力を振り絞ったゆっくりまりさの言葉を、アリスは優しげな眼差しで受け止めていた。
「あらあら。涙で顔がくしゃくしゃよ。女の子がそんな顔を汚しちゃだめよ」
「うん」
 茶目っ気たっぷりに語りかけられて、ゆっくりまりさははにかんだ笑みで頷いた。
「それじゃあ、しっかり顔を洗ってきましょうね……」
「ゆ?」
 アリスの言葉の意味を問い返す暇もなく、まりさに近づく影があった。
 薄皮一枚で繋がるまりさとれいむの間をすうと抜けた影は、アリスの上海人形。
 上海人形が両腕に抱えるのは、鈍く銀色の輝きを放つ、大きな大きな断ち切り鋏。
「ゆ?」
 次の戸惑いの声がまりさの口からもれたとき、すでにその体は落下を始めていた。
 断ち切られていた自分とれいむとの皮膚の結合。
 下には、何も無い空間が口をあけているだけ。
 それからの光景は、やけにゆっくりと見えた。
 再び、井戸の口に沈み込む体。あと10cmでもずれていれば、縁にあたって外に転がり出るというのに、
体はすっぽりと井戸の中央。
 すぐさま、暗闇が視界を支配する。
 落下を続けながら天を見上げるゆっくりまりさ。
 井戸の口はどんどん小さくなって、かつての光景のように遠ざかっていく。
 もう、一緒に落下を耐えた友達はそこにはいない。
 どこまでも落ちていく。
 あれえ、夢かなあ。
 惚けた台詞を呟くやいなや、底に着水して激しい水しぶき。
 思ったより衝撃がないのは、水中に住む先客がまりさの体を受け止めれてくれたからだった。
 井戸の底からぷかぷかと浮かぶのは、無数のゆっくりまりさたち。
 すでに中身が井戸に溶け出して、ぶよぶよに膨らんだ皮だけが浮かんでいる残骸だった。
 アリスが捕まえて、懐かなかったゆっくりまりさの成れの果て。
 この井戸は、アリスの処分場となっていた。
 しかし、まりさにそんなことはわからない。わかりたくもない。
「ゆ……ごぼ……ごぼぉ……」
 まりさの体にできた虫食いの空洞から生まれる盛大なあぶく。
 そのわき立つ水面の向こうで、閉ざされた井戸の天井をぼうっと眺めていた。
 水をすった皮がぶよぶよに膨らみ始め、自分の皮で覆われていく視界。
 ぎゅうぎゅうの皮におしこまれ、目の玉がとびだしそうに痛い。まるで、巨大な綱で常に締め上げられているよう。
 間断ない痛みは、虫にたかられていた時以上に時の進みをゆっくりと感じさせた。
 死ぬほど苦しい。でも、自分を殺すこともできない。
 もう考られること一つ。いつ死ねるのかなということだけ。
 中身の完全な腐敗、溶解まで後一週間ほど。
 まりさのゆっくり生活は、ようやく折り返し地点を過ぎたところだった。

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最終更新:2009年05月07日 16:52
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