もう何時間山の中をさ迷っているのだろう。あの屋敷を出た時には丁度正午くらいだったのにもう辺りは真っ暗になっている。
男はひどく疲れていたが決して立ち止まろうとはしなかった。
―――とにかく、人里に出るまでは安心は出来ない。
この山は彼女達の領域なのだ。今こうしている事も全てが筒抜けかもしれない。
獲物。自分は正に獲物だ。天敵のテリトリーに迷い込んだ無力な獲物。
彼らは大抵その事を知らない。知らないからこそ最後まで逃げようとするのだ。
もしその事を知っていたら絶望と恐怖で逃げる勇気さえ危うくなってしまうだろう。
…では自分はどうだろう?何故、こうして歩き続けていられるのか…。
そこまで考えて、男は不意に恐ろしくなり考える事を止めた。
大丈夫だ。大丈夫に決まっている。これだけ歩いたのだ、もうすぐ麓に着くだろう。
人里には巫女が居ると聞いている、夜分遅くだがきっと自分を匿ってくれるに違いない。
男は無理やりにでも思考を明るい方に持っていこうとした。そうでもしないとその場にへたりこんで動けなくなってしまいそうだった。
それから男は肩に背負った革製のバッグを握り締めた。硬く冷たい感覚が薄い革を通して伝わってくる。
「これがあれば…何とか…」
男は誰に言うでも無く呟くと山道を急ぎ足で歩き始めた。


それから一時間程歩いただろうか、男はようやく鬱蒼とした木々の間に明かりを見出した。
男は足の痛みも忘れその光に駆け寄って行った。人里に出られた。とうとう自分は助かったのだと確信して。
近づくに連れて明かりは段々と明瞭になっていく。どうやら提灯か何かを提げた人間の様だ。
男は我を忘れてその人に向かって声を張り上げた。向こうもこちらに気づいたのか、急いで近づいて来る。
やがて提灯の明かりがその人の全貌を照らし出すまでに近づくと、男の表情は硬直した。

「○○…やっと見つけた…どこに行ってたんだ…?私は心配で心配で気が狂いそうだったんだぞ…」

 提灯だと思ったのは、彼女が出していた狐火だった。甘かった。彼女は待ち伏せをしていたのだ。わざわざ人里の近くまで出て来てまで。
「さぁ帰ろうな、○○…私たちのお屋敷へ」
狐火が次々に現れ○○を取り囲んでいく。
そして彼女、八雲藍はその妖力の権化である九つの尻尾をざわざわと震わせながらゆっくりと、優しい笑みさえ浮かべながら○○へ近づいて行った。
「お前の様なやさしい人間に人里はふさわしく無い…あんな汚い場所に自ら出向く必要など無いんだぞ○○?」
○○は答えない。それどころか藍が一歩踏み出すごとに少しずつ後ずさってさえいた。
「…何故お前はそんなに離れているんだ?もっと近くに来てくれ、○○」
そういって藍が歩調を早めようとすると、途端にガチャリという鍵を閉めた様な音がした。
「藍、それ以上近づくな」


○○は藍を真っ直ぐ睨みつけ、縦に二つ並んだ鉄の筒―あくまで藍の側からの認識だが―を向けていた。
藍はきょとんとした表情を浮かべ○○を見つめた。
「○○?これは何だ?」
実際、藍はこの道具の使い道を知らない訳では無かった。○○がこの道具を使って山鳥を落としたり、兎を狩ったりするのを見ていたし
燈がねだって触らせてもらっているのを近くで見た事もある。嫌な臭いがする道具だ、位にしか思っていなかったが。
だが、藍は何故○○がそんな道具を自分に向けているのか理解出来ないのだ。だから聞いたのだ、ただ知らない物の名前を尋ねる様に。
「○○…これは一体何だ?そんな物は私が捨てておいてやる、さぁ…こっちに」
「近づくな!!」
明らかな敵意が込められた声に藍の体がびくりと震えた。
―――いつもの、○○じゃない…?
困惑と不安の視線に怒りと疑いが混じった視線が交差した。
「どうしたんだ○○?そんなに怖い顔をして…私の事が、嫌いに、なったのか…?」
○○は藍を睨みつけると、荒く呼吸しながら震える声で話を切り出した。
「…昨日の夜に、紫様と何を話していた?」
藍は何故そんな話をするのかと幾分不思議そうな顔をしながら答えた。
「何って…『向こう』へのスキマを永久に塞いでもらう様にお願いしていたんじゃないか。偶然やうっかりでも開かない位厳重にお願いしますって…
紫様は博来の巫女に相談してみると仰っていたが、そこまで取り付けるのにも随分骨を折ったんだぞ…?」
しばらく沈黙が流れた。やがて口を開いたのは○○だった。
「消えてくれ、藍。お前を撃ちたくない」
狐火が狂った様に火勢を増した。
「どうして…どうしてだ!○○っ、私が…私の事が、嫌いに…嫌いになったのか!?…○○…○○、いやだ…嫌いに、ならないで…」
まるで子供が癇癪を起こしたように藍は叫んだ。最後はほとんど、懇願の様な形になっていたが○○は答えなかった。
やがて藍はふらふらと立ち上がるとまるで幽霊の様に覚束無い足取りで、○○の方へ歩きだした。
「…近寄るなと言っただろう」
○○は努めて冷たい声で宣告し、引き金に指を掛けた。
だが、藍は止まらない。ずるずると体を引きずるようにして近づいてくる。
「撃つぞ…!それ以上近寄るな!!」
「…いい…」
ぼそり、とか細い声がした。
「いい、いいんだ○○…○○が私の事が嫌いなら私を殺したっていい…いくらでも殺させてあげるから…
お願いだ、お願いだから…私を、嫌わないでくれ…その道具で山鳥や兎みたいに殺させてあげるから…私を、私を嫌わないでくれ」
そう言った藍の瞳は、狐火の明かりに照らされているにも関わらず吸い込まれそうな程、暗く濁って見えた。
―――ぽふ、と柔らかい音した。藍は、○○の体をしっかりと抱きしめていた。
いや、抱きしめると言う表現よりも縋り付くと言った方が正しいかもしれない。
「はは…あははは…何だ、やっぱりお前は私の事が好きだったんだな…嬉しいぞ、○○」
力が抜けていく感覚。九本の尻尾が蛇の様に身体を包み込んでいく。
「大丈夫、大丈夫だ。私と長い間離れていて、そんなにさみしかったんだな…もう大丈夫だぞ、○○。私が一緒だからな…」
金色の尻尾で塞がれていく視界。その隅にはまるでアメの様にねじくれた猟銃が転がっているのが見えた。
「そうだ、お前も私と一緒になろう。紫様もお前みたいな人間なら喜んで式神にしてくれるさ、なぁ○○…○○?」
とうとう、何も見えなくなった。代わりに与えられたのは暖かい、ふかふかした感触。段々と意識が溶け出していく。
「…ふふ、もう眠ってしまったのか?全く世話がかかる奴だな。さぁ帰ろうか、私達の屋敷へ…」
最後に感じたのは、藍がそっと頭を撫でた感触だった。

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最終更新:2011年07月10日 05:51