(これはあるブログに書いた文章です。もちろん、材料はここの勉強会での成果)

 私は国語や文学の専門家ではないので、詩や小説のことはあまりわからない。ただ教育学を学んでいるので、学生たちと教材研究や模擬授業、教育実習などで、国語教育に接することがあるので、ときどき学ぶ制度である。そのことを断っておきたい。
 あるとき、模擬授業の勉強をしているときに、草野心平の「春のうた」という有名な詩を扱った。これは、教師の実践例がインターネット上にも多数掲載されている、重要な教材である。ほとんどの国語の教科書に載っている。
 その模擬授業のときに、

 ほっ いぬのふぐりがさいている。
 ほっ おおきなくもがうごいてくる

という部分の「くも」が「雲」であることを前提に進められているのが、多少気になった。「蜘蛛」という解釈も成立するのではないかと思ったからである。あとあと学生たちに聞くと、「蜘蛛」と解釈している者もいたようだ。
 気になったので、インターネットで調べてみると、たくさんの実践例が先述したように検索できた。すべてが「雲」という前提で授業が行われており、雲がどのようにうごいているのか、絵に書かせたりしているものもある。
 しかし、文学関係者のサイトをみてみると、「蜘蛛」の解釈になっていた。
 上記のとおり、ひらがなで書かれているので、どちらにもとれるのだが、そもそも原文はどうだったのだろう、と考えて、調べてみた。すると、以下のようなことがわかってきた。
 このオリジナルの詩は、昭和21年に、「あかとんぼ」という児童詩関係の雑誌に掲載されたものである。このときには、現行の教科書とは、いくつかの点が異なっている。
 まず、「連」の形をとらず、すべて同じ間隔の行川で書かれている。
 第二に、「けるるんくっく」というかえるの鳴き声が、ひらがなになっている。現行はカタカナだ。
 第三に、「おおきなくもがうごいてくる」の次に「くっくっく」というかえるの別の鳴き声がある。
 第四に、「おおきな」が「おほきな」と旧かなになっている。
 相違点はこの四点である。最後のがたんなるミスだとすると、相違点は三点になる。
 ちなみに、このオリジナルの詩には、山名文夫という人の挿絵がついている。かえる、背の高い雑草2種と低い1種、池、地平線上の太陽がかかれ、雲も蜘蛛も書かれていない。
 さて、この「春のうた」は、どうもふたつの経路をとって、教科書に採用されていく。ひとつは、「げんげと蛙」という「さわ・たかし」という人が編集した草野心平詩集と、「子どもの詩の学校」という詩集を経ているものがある。これで全てかどうかはわからない。
 「げんげと蛙」の詩は、
 既に「連」の形をとり、4連になっている。そして、「ケルルンクック」はカタカナになり、「くっくくっく」は消去されている。つまり、現行の教科書の「春のうた」とまったく同じである。これは、おそらく草野心平の全集が完成した1984年である。
 そして、もうひとつの「子どもの詩の学校」からとって、1977年の学校図書の教科書は、これとは少し違う。

 まず3連の形をとっている。それは、最後の「ケルルンクック」が独立した連ではなく、前の連についている。
 そして、「ケルルンクック」はカタカナとなっている。
 ところが、この版では、「クックック」がカタカナで入っているのだ。
 そして、最も興味深いことは、この版には、上を向いた蛙の挿絵と非常に背の高い草(たぶんいぬのふぐりなのだろうが、どうも現物とはイメージが違う。オリジナルの挿絵では、視線は水平だ。)と、上の方に雲が描かれているのだ。
 おそらく、「雲」という解釈は、この教科書からでているのではなかろうか。そして、学校図書の教科書も、その後「クックック」が落ちることになるそうだ。現行の教科書に採用されている「春のうた」は、おそらく、おとんど同文だろう。

 私が拘って調べてみたのは、教師たちの実践が、ふたつの可能性を前提に調べていくのではなく、(そういう実践もあったが。)雲という可能性しか考慮にいれず、雲の動きに注目させるということに終始しているのが、ほとんどだからである。それが何故なのか、これは、1970年代に現れた学校図書の教科書の挿絵あたりから、そのように固定されてきたのだろうか、と予想する。もちろん、このときに、作者は存命だったのだから、作者の許可を得て、この挿絵が描かれたと考えるのが自然だろう。しかし、では、何故オリジナルには、雲は描かれていないのか、ということも、考えざるをえない。
 そもそも蛙にとっての「春」とは、多くの教師が考えている「のんびりとした」季節なのだろうか。
 昭和21年に描かれた「春」とは、当然、戦前の軍国主義から解放された日本の、圧迫感のない状況であったろう。しかし、それは決して、「のんびりした」ものではなかった。
人々は、圧政からは解放されたが、食べるものを求めて懸命に生きていたのである。
 私には、餌を求める動物の姿も、冬眠からさめた蛙の解放的な姿に重ねて解釈する方が、自然に思われる。「くっくっく」という鳴き声は、それにふさわしい。

 しかし、では、何故この「くっくっく」が、取られることになったのだろう。もちろん、これが、作者の意思を無視して、他人が取ったと考えることはできない。
 時代が変わって、食べ物を求めることの切実感がなくなったときに、ゆったりと動く雲をぼんやりと眺めている姿の方が、時代にマッチするという考えに、作者自身が変わっていったのだろうか。
 小学生だから、あまり複雑な解釈はしなくてよい、という考えは、間違っている。子どももかなり深い解釈をすることがある。また、多様な解釈こそが、詩を学ぶ醍醐味だろう。
 教師たちの実践も、もう少し多様性があってもいいのではなかろうか。

最終更新:2008年06月24日 18:47